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第30話 一郎と芭蕉

◇寛文十年(1670年)江戸 旧暦七月お盆の月


 夏の日差しが影を強くする江戸の日本橋。いつもの道端の蕎麦の屋台では、すっと姿勢を正したまま、一人で酒を飲む多賀一郎の姿があった。


 ひょこっと現れた松尾芭蕉が「多賀朝湖ちょうこくん!」といきなり肩を組んできて、隣の椅子に座ると「おやじ、こっちにも一本、いや二本付けて!この人のツケで」と酒を注文する。


 一郎は、芭蕉の腫らした顔を見て、「この度は、本当にありがとうございました」と頭を深々と下げる。


 芭蕉は茶化して「どうしたの?どうしたの?急に大人になっちゃった。あぁ、もうオトナなのかな?」と肘でつつく。


 一郎は「思っていたのとは違ったけども、僕も大人にならないといけないと思いました」と決意のこもった視線で空を見上げる。


 芭蕉は「いやいや、吉原行ってそんな目されても説得力ないから」と背中をバンバンと叩くと、「ははは、そうですよね~」とようやくいつも通りの一郎の顔に戻る。二人はカチンとお猪口を合わせて一気に煽る。


 一郎は芭蕉の肩をガシッと掴んで、「教えてください。僕の絵を何枚売れば、太夫たゆう身請みうけできますか」と質問する。


 芭蕉は「そうだなぁ、朝湖くんの格も今回でだいぶ上がったからなぁ」と頭で計算しだす。


 一郎はゴクリと唾を飲み込む。


 芭蕉は「千枚は必要かな」とあっさり言う。


 一郎は「えーっ、せ、千枚!無理だ!」と声をあげ、屋台の台に突っ伏す。芭蕉は「ごめんね。こればかりは、この芭蕉さまでもなんともならないなぁ」と肩をポンポンと叩き、慰める。


 一郎はすぐに顔をあげると、「やっぱり吉原の太鼓持ちになるか」とサラッと言う。


 「はぁ?太鼓持ち?」と一郎の顔を暫くまじまじと見つめた芭蕉は、両手の拳を青空に突き上げて、「あぁ、もう!オトナの考えることはわけわかんないよ。勝手にすれば!」と叫ぶ。日本橋を行き交う人たちの好機の目が集まる。



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