一糸纏わぬ二人が手を繋いで、大広間の壁に掛けられた狩野派歴代の水墨山水画を見て回っている。
胡蝶は「これ、狩野永徳よね? この檜の樹の根がどっしりと大地に根付いた感じ!」とうれしそうに言う。
一郎は目を細めながら、「思い出すなぁ。初めて会ったあの日、庭の大きな梅の木を、地面に枝でいたずらに描いていたら、君はなんて言ったと思う?」と聞く。
少し頬を染めて胡蝶は「覚えてないわ。私、なんか変なこと言ったかしら」と答える。
一郎は「木の根が大地にしっかりと生えているところがきちんと描かれてる。まるで狩野派のようって。僕はそのとき、狩野派という言葉すら知らなかったんだ」と声を弾ませる。
一度微笑みを返した胡蝶は、少女のように目を輝かして再び絵を見る。
「すごいね、狩野永徳の絵。私、本物を見るのは初めてだもん。木々が躍動して、私に向かって迫ってくるみたい。激動の戦国時代に生えていた木だったことを感じる」
一郎は「胡蝶の絵の見方は本当に面白くて鋭いね。じゃあ、こっちの絵はどう?」と手を引いて一枚の掛け軸の前に立たせ、いたずらっぽい表情で画面右下の赤い印を隠した。
中国の山水風景が描かれている。穏やかな川が流れ、小舟が静かに水面を進む。川岸には、大きく枝を広げた古木が立ち、青緑色の枝葉は風に揺れるかのように繊細に描かれている。霧が立ち込める大陸らしい奥行きが淡い色調で表現されている。
胡蝶は「中国の景色だけど、大和絵的な彩色が使われているわね。線画の一本一本から、色々なものを学びながらも、自分の運命を切り開くような強い意志を感じるわ。もしかして初代の狩野正信?」と言う。
一郎は「すごいや、正解だよ。この絵は仙台藩伊達家が持っているんだけど、今回特別に貸し出されたんだ。
一郎はさらに手を引き、大広間奥の床の間(押板)に連れていく。そこには、三つの掛け軸が掛けられる空間があるが、中央にあったであろう絵はなく、左右に一幅ずつが掛かっている。
「ぷっ」と胡蝶が吹き出した。「左が狩野探幽で、右が宗家の狩野安信…よね」と一郎を見つめると、一郎は「安信師匠だってすごくうまいんだけど、探幽先生はやっぱりずば抜けて天才で」と頭をかく。
胡蝶は狩野兄弟に挟まれた空白を指差して、「一郎さんの絵がここに掛けられていたのよね!」とはしゃぐ。
一郎はしゃがみこんで、しまった桐箱の紐をほどき始める。
「安信師匠は本当に温厚な方で、声を荒げることなんて全くないんだけど、探幽先生が二人の作品を見比べて、あまりにもニターって顔をするもんだから、『一郎、早くお前の絵を飾れ!兄の口をあんぐりさせてやれ』って大きい声をあげてね」と一郎は楽しそうに話す。
胡蝶は「まぁ、仲の良いこと」と笑う。
一郎は「この絵を飾ったら、さすがに探幽先生は口をポカーンと開けたりはしなかった。でも、招待客たちは『山水画じゃなく風俗画じゃないか』『女の絵じゃないか』ってざわついたんだよ」と思い出し笑いする。胡蝶も「一郎さんって、案外大胆なのね」と笑う。
一郎は「ただ探幽先生はこう言ってくれたんだ。悪くはない風俗画じゃな。『人間の谷を渡る風』をちゃんと描いておる。ワシは弟子を育てることだけは弟に負けたのかもしれんって」と振り返った。
「まぁ、あの探幽が弟に負けを認めたってこと?信じられないわ。どんな絵なの?早く見たいわ」と胡蝶は一郎の肩を軽く揺らして急かしてみる。
一郎はゆっくりと桐箱から巻かれた軸を取り出すと、押板の中央に掛けた。
「胡蝶には、口をあんぐりしてほしいな」と茶目っ気たっぷりに言うと、留め金を外す。
スルスルと絵が現れる。
その瞬間、胡蝶は「はっ」と息を呑み、両手で口元を押さえた。
そこには、まばゆい朝日に照らされた丘の上に立つ、鮮やかな赤い衣をまとった幼い少女が描かれていた。少女の頭上には風を受けて大きく翻る白い
胡蝶の両目から涙が溢れ出し、大粒の真珠となり、ぽたりぽたりと押板の木の床に落ちる。
描かれていたのは十一年前の自分だった。
「あの時の時間を動かしたまま、永遠にする…これが一郎さんの風俗画…」と胡蝶は全身を小刻みに震わせながら、一郎の手を強く握る。もしもその場を誰かが覗いていたなら、女が快感の末に絶頂を迎えた愉悦の震えと考えたであろう。