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第32話 それぞれの吉原(ニ)

◇寛文十年(1670年)江戸 旧暦七月 お盆の月


 一週間後、胡蝶は月に二日しかない髪洗日の休日だった。色町の喧騒から離れ、文机に向かって一日静かに本を読んで過ごしていた。


 しかし夕方、女将に呼ばれる。一階に降りていくと、初音も一緒だった。


 初音は胡蝶を見るなり、手を合わせて拝むように言った。「お願い、姐さん。あたし今日『あれ』で痛くて」と腹を擦る。


 「それにお客が俳諧の会でさ。あたい和歌とか俳句もよく分かんないから、俳諧の会は苦手なんだよね。お願い、借りを返して」と初音は幼い顔でお願いをしてくる。


 胡蝶は初音の頼みを断れなかった。「しょうがないね。俳諧の会ならいいわよ、代わってあげる。でも、女将、面倒な練り歩きは無しでいいでしょ?服も軽い、この子の赤い着物でも借りるよ」と応じる。



 胡蝶が揚屋茶屋の二階の座敷にあがると、奥には松尾芭蕉が座っていて、「よっ! 久しぶり」と相変わらずの軽い口調で声をかけてくる。


 胡蝶は「まぁ、芭蕉先生だったのね、夜に珍しいこと」と微笑む。


 胡蝶が座敷を見やると、芭蕉の左側には、小さくなった金沢屋丸木五郎が、胡蝶と目を合わせないように、白いさらしの手ぬぐいで額の汗をぬぐっている。そのさらに下座には、三味線を持った多賀一郎がちょこんと座っている。


 胡蝶は目を見開く。


 「一郎さん? いえ、多賀朝湖ちょうこ先生?」


 一郎はそれに返事せず、三味線を撥で弾き、朗々と語り出した。


 「さてさて、いずれ俳聖と呼ばれること間違いなしの松尾芭蕉先生が、京の都にて俳諧の旗を立てんと上洛されるよし。今宵は存分に送り出しましょう」


 そして口上が終わると、三味線を横に置き、深々と畳に額をすりつけてから、ぱっと顔をあげて、胡蝶を見つめ、「今夜は未熟ながら、この多賀朝湖が太鼓持ちをさせていただきます」ときっぱりと言う。


 「えっ、太鼓持ち?」と心の中で驚いた胡蝶だったが、一郎の目に、後悔、躊躇、卑屈、諦めの影は全く映っていなかった。胡蝶が瞳の中に捉えたのは、希望の光のきらめきだけだった。


 「そっか…あなたは、そういう絵を描こうとしてるんだね」とつぶやいた胡蝶は、丸木の首にかかる白い手ぬぐいをひったくると、ふわっと宙に漂わせた。


 芭蕉が「いよっ、天女の羽衣!」と合いの手を入れる。


 胡蝶は「芭蕉先生、それは太鼓持ちの台詞せりふよ」と妖しく微笑むと、右手でぱっと金地の扇を開き、一郎に向けて差した。


 「さあ、初心者の太鼓持ちさん。ワッチを舞わせてみせなんし」


 一郎が拙いながらも情熱的に撥を叩く。胡蝶は赤い衣の少女の神聖な舞を、妖艶に舞い始めた。


 「私はもう泣かない。この残酷な暗闇の中で、ただ一筋の光に従って、踊り狂い続けてやるわ」

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