◇寛文十年(1670年)江戸 旧暦七月 お盆の月
満月の夕方、吉原の妓楼「
「今夜も
間もなく訪れるであろう板倉
「また預かってくれるかい」
◇
その日の日中、江戸城の松の廊下を、板倉重常は自信にあふれる満面の笑みで歩いていた。将軍からの呼び出し。奏者番
正面から、御三家筆頭尾張藩主の徳川
寛永二年生まれで板倉の十八歳年上の光友は、板倉の前でピタッと立ち止まった。その上品な顔には、機嫌の良さそうな微笑みが浮かんでいる。
「せっかく隣国になったのに、遊びに来てくれないではないか? 孔子廟の改修ではあんなに頻繁に上屋敷に来てくれていたのに、寂しいぞ」
嫌味を含んだ言葉に、板倉は一瞬表情を硬くしたが、すぐに不敵な笑みを返す。
「失礼しました。来月からは上屋敷に伺うことも増えるかと、
光友は「あっ、そうなの」としれっと言うと、次の瞬間、いきなり板倉の
「ぐぉっ、お、尾張様、ご乱心めされたか?」
板倉は激痛に耐えながらも、なんとか言葉を絞り出す。
光友は板倉の耳元に口を寄せる。
「名古屋城の上洛殿の狩野
板倉の額に、冷たい汗がにじみ出す。光友は、さらに言葉を続ける。
「お前が吉原でやってること、ワシが知らんと思ってるのか?」
板倉は思い出す。一年前、伊勢亀山城で、胡蝶を吉原に売るよう金沢屋に指示した、あの時の自分の言葉。「尾張藩は吉原の何軒かの女郎屋を裏で経営しておるじゃろ」。
まさか尾張藩に筒抜けになっていたとでもいうのかーー。光友は板倉の思考を見透かすかのようにほくそ笑む。
「一年かけて吉原を探索したが、尾張藩の痕跡はどこにも見つからなかったはずだ、とでも言いたいのだろう? もちろん御三家の尾張藩が
光友は上品な語り口に戻り、板倉を見下ろす。
「犬は大人しく遠くから吠えてるのが、良いのではないかな? のう、板倉殿」
そう言い残すと、光友は優雅な足取りで松の廊下から去っていった。
足を引きずりながら板倉は、将軍謁見の間にたどり着く。だが、いつまで経っても将軍は現れない。代わりに現れた老中は、どこか疲れたような表情で、板倉と目を合わさずに言った。
「奏者番
老中はそれだけ言うと、板倉に何かを言う間も与えず、さっと消えた。
◇
その日の夕方、吉原の茗荷屋に急ぎの文が届いた。板倉重常からのものだ。
「来月からの参勤交代準備ゆえ、今夜は参らず」
胡蝶は文机にそれを置いて、何度も何度も読み返す。文の紙に、ぽたりぽたりと雫が落ちて、字をにじませる。
胡蝶はポツリとつぶやく。
「もう泣かないって決めたのに」
◇
(第一章完)