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第33話 江戸城 松の廊下

◇寛文十年(1670年)江戸 旧暦七月 お盆の月


 満月の夕方、吉原の妓楼「茗荷みょうが屋」二階の一室。文机の前に座る胡蝶こちょうは、鏡に映る自分の顔を見つめ、両手で軽く頬を叩いた。


 「今夜も夜よ」


 間もなく訪れるであろう板倉重常しげつねの来訪を前に、気合を入れる。壁に掛けられた赤い衣の少女の絵に視線を送り、そっと桐箱にしまうと、絵を抱えて初音はつねの部屋へ向かった。


 「また預かってくれるかい」



 その日の日中、江戸城の松の廊下を、板倉重常は自信にあふれる満面の笑みで歩いていた。将軍からの呼び出し。奏者番への正式決定の知らせを受けるのだと確信している。


 正面から、御三家筆頭尾張藩主の徳川光友みつともが歩いてくる。板倉は格下であるため、道を譲り、廊下の端に寄って深々と頭を下げた。だが、心の中では、この屈辱をいつか晴らすのだと、密かにほくそ笑む。「奏者番格になったら、尾張藩を洗いざらいにしてやるぞ、見ておけ」。


 寛永二年生まれで板倉の十八歳年上の光友は、板倉の前でピタッと立ち止まった。その上品な顔には、機嫌の良さそうな微笑みが浮かんでいる。


 「せっかく隣国になったのに、遊びに来てくれないではないか?  孔子廟の改修ではあんなに頻繁に上屋敷に来てくれていたのに、寂しいぞ」


 嫌味を含んだ言葉に、板倉は一瞬表情を硬くしたが、すぐに不敵な笑みを返す。


 「失礼しました。来月からは上屋敷に伺うことも増えるかと、使として」


 光友は「あっ、そうなの」としれっと言うと、次の瞬間、いきなり板倉のかみしもの下半身に手を伸ばし、板倉の「なに」をギューと握る。


 「ぐぉっ、お、尾張様、ご乱心めされたか?」


 板倉は激痛に耐えながらも、なんとか言葉を絞り出す。


 光友は板倉の耳元に口を寄せる。


 「名古屋城の上洛殿の狩野探幽たんゆう帝鑑図ていかんずのこと、あれこれと言ってるらしいな、忠犬らしくワンワンと」


 板倉の額に、冷たい汗がにじみ出す。光友は、さらに言葉を続ける。


 「お前が吉原でやってること、ワシが知らんと思ってるのか?」


 板倉は思い出す。一年前、伊勢亀山城で、胡蝶を吉原に売るよう金沢屋に指示した、あの時の自分の言葉。「尾張藩は吉原の何軒かの女郎屋を裏で経営しておるじゃろ」。


 まさか尾張藩に筒抜けになっていたとでもいうのかーー。光友は板倉の思考を見透かすかのようにほくそ笑む。


 「一年かけて吉原を探索したが、尾張藩の痕跡はどこにも見つからなかったはずだ、とでも言いたいのだろう?  もちろん御三家の尾張藩がくるわなどやってるはずはない」と言うと、パッと握っていた手を離す。板倉は膝の力が抜け、その場に崩れ落ちる。


 光友は上品な語り口に戻り、板倉を見下ろす。


 「犬は大人しく遠くから吠えてるのが、良いのではないかな?  のう、板倉殿」


 そう言い残すと、光友は優雅な足取りで松の廊下から去っていった。


 足を引きずりながら板倉は、将軍謁見の間にたどり着く。だが、いつまで経っても将軍は現れない。代わりに現れた老中は、どこか疲れたような表情で、板倉と目を合わさずに言った。


 「奏者番の話しは無しじゃ。いや、そんな話はもともと無かった。急ぎ来月から国元へ帰ってくれ。将軍から預かった領地を豊かにするのが、譜代大名の一番の忠義じゃ」


 老中はそれだけ言うと、板倉に何かを言う間も与えず、さっと消えた。



 その日の夕方、吉原の茗荷屋に急ぎの文が届いた。板倉重常からのものだ。


 「来月からの参勤交代準備ゆえ、今夜は参らず」


 胡蝶は文机にそれを置いて、何度も何度も読み返す。文の紙に、ぽたりぽたりと雫が落ちて、字をにじませる。


 胡蝶はポツリとつぶやく。


「もう泣かないって決めたのに」





(第一章完)


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