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第35話 吉原にて多賀一郎、胡蝶 ニ十三歳

◇延宝二年(1674年)江戸・吉原 多賀一郎、胡蝶 二十三歳


 吉原の揚屋茶屋二階の座敷で、吉原一の太夫たゆうと名高い茗荷めょうが屋の胡蝶こちょうがすっと立ち上がる。秋草や桜といった四季の草花模様の着物を品よく着こなす立ち姿に、「ほぉっ」と溜息が漏れる。


 胡蝶は、やや身体をひねって、左手で右つまをとると、挑発的に着物の裾を少しめくり、肩越しに上座に座る武家の主客に目線を送る。


 胡蝶と主客の視線が絡まった瞬間、太鼓持ちの多賀一郎が三味線のばちをベンと弾き、演奏を始める。


 演奏に合わせて、胡蝶は優雅に、流れるように舞い始める。


 腰を軽くひねりながら、一歩一歩と客に近づくたびに、裾がふわりと広がる。


 右手で扇を開くと、精緻に指でひらひらと振り下ろしながら、左腕を高く上げ、ぴたっと動きを止める。三味線の音も止まる。首筋から腕にかけてのしなやかで官能的な身体の線が強調される。


 三味線が静かに再開すると、胡蝶はゆっくりと目を閉じる。客の視線が身体からその閉じた目に移る。


 ベンベンベンと一郎の撥は速度を増す。


 胡蝶が、ぱっと目を開ける。その瞳は恍惚とした女の歓びに潤んでいる。客が吸い寄せられように前のめりになる。


 高まった三味線の音が少しずつ小さくなる。胡蝶は足を擦りながら客の前まで来ると、くるっと後ろを振り向き、背中を見せる。


 ベンベンと一際大きい音が響くと、胡蝶は、まるで突然の強風に煽られたように、扇を持つ右腕を高く振り上げながら、身体を大きく後ろに反らし、客に向かって倒れ込む。


 逆向きとなった胡蝶の顔が、ちょうど客の顔を見上げるところで、下に置いた左腕が身体を支え、ぴたりと動きが止まる。


 顎が外れたように口を大きく開けた客が、ハッとなり目線をそらすと、帯が緩み、はだけた着物の隙間の谷間が、目に入ってくる。客の鼻息が荒くなる。


 胡蝶はくるっと身体をひねり、すっとその場で正座をして扇を置き、両手を畳につけて頭を下げ、「お目汚しの舞いでございました」と言う。


 主客は我にかえって、前のめりの姿勢を正して「見事なもんじゃ」と称えると、三味線を横に置いた一郎が拍手を始め、ほかの人たちも手を叩き出す。


 主客の武士の隣には、頭はツルッとしながら顔中髭だらけの達磨のような風貌の金沢屋丸木五郎がいて、いかつい顔で手を叩いている。


 主客は、出雲松江藩主の松平綱隆だ。松平は「いやいや、見事なり。金沢屋の親分さんの紹介で、ようやく噂に聞く胡蝶の舞を見ることができた。全然、予約ができんからのぉ」と喜ぶ。


 丸木は「十八万石の雲州様に頼まれたら、この男、金沢屋!」と片袖をめくって体毛だらけの太い腕を見せて、「どんなことでも叶えましょう」と大仰に言う。


 一郎は静かに三味線を片付け始める。


 松平が扇で口元を隠しながら、丸木の耳元で「このあと、胡蝶と、その、チョメチョメはあるだろうな」とささやく。


 丸木は「ガハハ。もちろんですとも。ここは吉原です。奥にしっぽりと布団を一揃え用意しております」と豪快に笑い、胡蝶に視線を送る。


 松平がそーっと胡蝶の顔を見ると、胡蝶は「お殿様、ワッチをもっと踊らせてくなんし」と艶っぽく同意を示す。


 松平は鼻を鳴らして「親分の頼み事は今度、下屋敷にて存分に話そう。今は静かに余韻を楽しみたいゆえ」と意味ありげに丸木を見る。


 丸木は「はい、わたくしめは用事がありますので、大門おおもんが閉まる前に帰らなければなりません。では、今夜はこれで失礼します」と席を立ち、座敷から出ていく。その後を一郎が背を丸めて付いていく。


 二人が階段を降りきった音を聞くと、胡蝶はそっと細い手を松平の手の甲に乗せ、「今夜はどうも、いい夜になりそうでありんす」と妖艶に微笑む。

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