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第38話 胡蝶の現実

◇延宝二年(1674年) 江戸・吉原


 吉原の大門おおもん外にある金沢屋が借りた屋敷で、多賀一郎と金沢屋丸木五郎が酒を飲んでいる。


 今、大門の中で、胡蝶が出雲松江藩主の松平綱隆を相手にしていることを思い、丸木は「あねさん…」と目頭を押さえる。


 一郎は「前座の僕たちが出来るのは、布団の中であっけなく終わらせるために、うんと盛り上げて、始まる前に興奮の極みに持っていくことだけ」と虚空を見つめ、「それぞれが全力を出し切る。それしかないんだ」と言う。


 丸木は、一郎の言葉ぶりに、どこか板倉に通じる冷酷さを感じて、「まさか」と頭をぶんぶんと振り、酒を煽る。


 丸木は自分が女々しく泣いたりしているから、一郎が冷徹にならざるを得ないのだと考え、自分の頬を思いきり拳で殴る。


 風貌通りの凄みのある表情に戻った丸木は、「すべて目論見通りに進みましたな。あの御仁、どれだけつか。せいぜい三こすり半かもしれませんぞ」と高笑いする。



 引け四つの鐘が鳴る前に、胡蝶は妓楼二階の自室に帰っていた。一人、文机に向かって、物思いにふける。


 「今日は早く済んだわ。三回も求められたけど、いずれもすぐに終わった。帰り際に『今度はもっと頑張る』って言ってたけど、頑張らなくて良いっての」と独り言をつぶやく。


 座ったまま振り返り、壁に掛けた赤い衣の少女の絵を眺める。


 握った右手の指を人差し指から順番に開いていく。


 一年、二年、三年、四年。


 久しぶりに、いいことと悪いことそれぞれを数えてみようと思う。


 「芭蕉先生は相変わらずだけど、一郎さんと金沢屋はいつも、申し訳なさそうに私を見てる。背中で感じる視線で分かるんだ。でもね、本当なんだよ、この四年、私は充分幸せだった。いいことのほうは、たぶん片手では足りないや」と言いながら、自然に溢れ出る涙を拭う。


◇胡蝶の一人語り


 一つ目。今日の夕方、練り歩きをしていると急に雨が降ってきた。


 当たり前だけど、吉原は雨でも休みにならない。最初から雨が降っていれば、太夫は足が汚れないように、二人の男衆が轆轤ろくろ縄を輿こしのようにしてエッホエッホと運ばれる。


 今日は急に雨が降り始めた。太鼓持ちの一郎さんが私の前でさっと膝をつけて背中を見せる。私がその背中に飛び乗ると、一郎さんは立ち上がって駆け出す。


 後ろから慌てて大きな傘を手にした遣り手はばあが追いかけてくる。私はそっとおでこを一郎さんの首の後ろにつける。温かい。永遠よりも長く感じた、ほんのわずかな時間。


 二つ目。板倉重常しげつねは一年ごとに江戸に現れるけど、一年経てばまた消える。奏者番を相変わらず狙ってるらしいが、今年も七月半ばに伊勢亀山へ行った。こっちにいる間は二週間ごとに私が文を出して来訪を乞い願うのは同じ。来たら来たで、やることは相変わらずめちゃくちゃだ。だけど、女将が「くれぐれも身体に痕の残ることは止めて」と強く言うので、身体への責めは軽くなった気がする。私が慣れただけかもしれないけど。


 三つ目。鈴鹿の村々では毎年のように飢饉が起きてるらしい。金沢屋は、板倉が前任藩主まで続けてきた大庄屋制を止めて、藩直轄の経営にしたことが裏目に出てると分析していたけど、実際はどうだか分からない。故郷が飢饉に苦しむのを、いいことに数えるのは、さすがに気持ちよくないから、数え直す。


 改めて三つ目。妹分の初音はつね格子こうし女郎に昇格した。二年前に、本当の年齢にしているから、今は十九歳。年季明けまであと六年。相変わらず和歌や本には関心がないけど、絵についてはここのところ興味を持ってるようだ。まぁ、多賀朝湖直筆の新作を毎月のように見てるんだから、それはそうなるだろう。


 四つ目。先月、すごいことが起きた。狩野探幽が私を指名して客として来た。もちろん、吉原の客として、すごいわけじゃない。本当にすごいことが起きたんだ。探幽先生は三日前に亡くなられたから、いいことに数えていいか分からないけど、ことには出来ない。五つ目以降を数えなくてもいいくらいの出来事。


 誰かに聞いてもらいたいけど、その夜のことは探幽先生、私、一郎さんの三人だけの秘密なんだ。


 独り言で語るなら、この秘密を話しても良いよね。

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