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第40話 狩野探幽と夜ふかし

◇延宝二年(1674年)九月 日待の夜 吉原


 吉原の揚屋茶屋の座敷で、狩野探幽たんゆうは「胡蝶太夫たゆうよ。ワシはお前さんと絵について語り合いたいんじゃ」と優しく言うやいなや、胡蝶の返事も待たず、すぐにもとの怪人のような表情になり、「よし!今夜は日待ひまちじゃ。太夫の部屋で朝まで語り合うぞ」と立ち上がり、座敷を出て、ズカズカと階段を降りていく。


 「狩野探幽が私と絵について語り合いたい?」と夢心地の胡蝶が我に返るとすでに探幽は居ない。ハッとして多賀一郎のほうを見ると、両手の手のひらを上に向けて肩をすくめる。


 胡蝶は慌てて立ち上がると、太夫の長い着物の裾をはしょり、階段を転げるように降りて、高い下駄でつまずきそうになりながら、「探幽先生!」と後を追いかける。


 普段は見ることのない太夫の「駆けっこ」に仲之町往来の客たちから「なんだ? なんだ?」と声が上がる。



 妓楼「茗荷みょうが屋」の一階。探幽がギロリと女将を睨みつける。女将は声を震わせながら、「確かに朝まで太夫を予約していただいておりますし、今夜は朝日を待つ神事『日待ひまち』です。ただ、その場は先ほどの座敷に用意しておりますので、どうぞお戻りいただき…」と勇気を振り絞る。


 その時、暖簾のれんをぱっと払った胡蝶が「いいの。私が部屋に誘ったの」と息を切らしながら言う。


 探幽は少し目尻を下げ、「そういうことじゃ」と草履ぞうりを脱ぐ。


 女将が「あっ、あの。くれぐれも身体に痕を残すようなことだけは」と声をかけると、階段に向かっていた探幽はピタリと止まり、振り向いて女将の目を見て、「ふむ、その心配はもっともじゃ」と言う。女将はホッとして「ご理解いただいて」と頭を下げる。


 探幽は「ワシがそんなことをしないように、監視役として太鼓持ちの多賀朝湖ちょうこも居させることにする」と問答無用で言うと、暖簾の外に向かって「一郎!」と怒鳴りあげた。


 「さっさと案内しろ。どの部屋か分からん! 女将、日待だから酒は要らん。出がらしの濃い茶と行灯あんどんをあるだけ持ってこい!」と大声で言うと、階段を登り出した。その後を、胡蝶と一郎が慌てて追いかける。



 二階の胡蝶の部屋。窓際にあった文机を中央に移動させ、部屋の四隅に行灯が置かれ、夜にしてはかなり明るい室内に、腕を組む探幽がドカッと座っている。文机を挟んで、またも怒られる子供のように、胡蝶と一郎が机の大きさに合わせて肩を寄せ合って正座をしている。


 探幽は「なぜ正座をしとる? 夜は長いぞ、足を崩せ」と命じる。


 二人は足を崩しながら、一郎が部屋の端に寄ろうとすると、探幽は「ちゃんと並んで座っておれ!」とピシャリと言う。


 探幽は壁に掛かった一郎が描いた「赤い衣の少女」を見やると、「なるほどのぉ。一郎に『人間の谷を渡る風』を描かせたのは、胡蝶太夫、お主だったということか」と聞く。胡蝶と一郎は同時に頷く。


 探幽は「夜は短し、ワシの命も短し。さっそく絵について語り合おうか」と前のめりになって、机に肘をつく。


 「胡蝶太夫よ」と言った探幽に、胡蝶は「胡蝶、とお呼びください」とキッパリと言う。


 「よし、では、胡蝶。お主は、狩野探幽の絵をどうみる?」と尋ねる。


 胡蝶はごくりと唾を飲み込み、「狩野派は装飾性豊かで濃厚ですけど、探幽先生の絵は、特に余白を生かして、すっきりとして軽快で、あか抜けています」と言う。


 一郎が慌てて「あか抜けって、せめて瀟洒しょうしゃって言った方が」と言うと、探幽は笑いながらそれを制し、「良い、良い、実に良い。胡蝶、続けてくれ」と目を細める。


 胡蝶は「この画風はきっと誰にも止められない、いえ、止まらないわ。いずれ探幽先生の画風そのものが、狩野派であると言われるようになる。あとになって見れば『狩野派は探幽前と後で一変した』と評されるようになると思います」と言う。


 探幽は満面の笑みになりながらも、眼光は鋭く、「ふむ。では、名古屋城上洛殿の儒教の『帝鑑図ていかんず』が将軍への当てつけ、という見立てについても、聞かせてくれ」と問う。


 胡蝶は「それは…本当に適当に言っただけなのです。実物を見たわけでもありませんし。でも、四年前に、探幽先生の絵を生で見て、探幽先生にあるのは、朱子学ではない、もっと古い儒教。いえ、違うわ。たぶん老荘思想があるんだと、今は思っています」と言う。


 名古屋城の絵のことを知らない一郎は目をぱちくりとさせる。


 探幽は白くて長い仙人のような顎髭に手を伸ばすと、しばらく無言のままそれをいじる。


 そして口を開く。


 「胡蝶よ、正解じゃ。絵には、実の部分と余白との調和が重要じゃ。なんでも白黒、正と負に単純に分けようとする朱子学では理解できないだろうがな。調和は老荘思想の理想であるとともに、矛盾する陰と陽すらも合一する。それがワシの調和じゃ」


 一郎が「陰と陽…」と小さい声で繰り返す。


 探幽が「胡蝶、お主は陰陽いんよう(両性具有)じゃな」と言うと、胡蝶は一瞬息を呑み、この日、初めて探幽から目をそらす。


 探幽もまたこの日初めて慌てた口調になり、「お、お主が陰陽であることは、誰からも聞いてはおらぬぞ。座敷でお主のことをよく見ていた。女以上に女であると思い、やがて陰陽だと感じたんじゃ」と説明する。


 「じゃが、ワシが感じたのは、お主が男と女の間という意味ではない。男と女という境界の谷の、はるか上の空を調和しながら舞うもの、それがお主、胡蝶じゃと感じたんじゃ」と続ける。


 胡蝶が「私が男女の境界の上を…舞っている…」と繰り返すと、自然と両目から涙が溢れ出す。


 探幽が「異なるものを、さらに高みで調和させる。それがワシの理解している老荘思想であり、ワシの絵じゃ」と言うと、胡蝶は目をぬぐいながら、「すみません。そこまでは勉強しておりません」と鼻をすすりながら答える。


 「なぜ謝る。謝らないといかんのは、我ら二人の会話に付いていけない一郎じゃ、ガハハ」と探幽は笑い出す。


 一郎は「付いていけなくて、すみません」と頭を下げ、太鼓持ちらしく大げさに机へ額を擦り付ける。


 だが、一郎の目からも涙が溢れ、机の上を濡らす。一郎自身、この涙のわけが、探幽が胡蝶を理解してくれたことの喜びなのか、それとも二人が見えている世界を自分だけが分からないことの悲しみなのか分からずに、ただ涙していた。

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