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第48話 林檎と桜

 深川の金沢屋の奥座敷に、菱川ひしかわ師宣もろのぶは、手代たちに引きずられるように押し込められた。


 微かな岩絵の具の匂いが漂う座敷には、先に金沢屋の親分、丸木五郎がどっしりと座り、その下座には、若いながらもどこか品のある男が、静かに控えている。


 師宣は、その二人の男を、隠しきれない緊張の目で順番に探る。この店の主は丸木五郎のはずだが、師宣の直感は、なぜか下座の男にも注意を促していた。


 「…この二人、只者じゃねぇ」


 師宣は心の中で呟くと、すぐに畳におでこを擦り付けて、「確かに林檎を盗み食いしたことは間違いありゃせん。でも、たった一口で簀巻きというのはあんまりにも」と命乞いをする。


 丸木は低い声で「簀巻きねぇ。お前は金沢屋をなんだと思ってるんだ?」と聞く。


 師宣は顔を上げて、「そりゃぁ、儲けるためなら、なんでもやる極悪非道の」と言って、ハッと口を塞ぎ、「さ、さーせん」とまた深々と頭を下げる。


 丸木は「お前の言うことは間違っちゃいねぇ。だが、ただの果物の盗み食いで命を取るほど、金沢屋の番頭を小物だと思ってるのか?」と言い、横の若い男、つまり多賀一郎に目配せをする。


 一郎は、師宣が描いた林檎の素描を畳の上に開いて置いて、「菱川師宣くん、だっけ。君は見ていたんだよ」と絵の林檎の隣を指差す。


 師宣は自分で描いた絵を初めて見るように凝視して、林檎に添えられた一輪の枝を見て、「あっ」と声を漏らす。


「桜だ」


 それを聞いて一郎が黙って頷く。


 丸木は「一月になぜ桜が咲いている? なぜ林檎が食える? そこに気づかないのなら、お前は観察力のない、簀巻きにされても仕方ない、ただの盗っ人よ」とピシリと言う。


 師宣は「桜が咲くのはあとニヶ月は先。林檎が実るのは秋。これは、人の手で…ずらされてる…」とポツリと言葉を漏らす。


 一郎は「そう。この桜は『室咲むろさき(温室栽培)』で早く咲かせたものなんだ。林檎は逆に『氷室ひむろ』で冷やしていたのさ。人間が知恵と努力と失敗を重ねて実現した夢の作品なんだよ」と諭すように言う。


 「そっか、だから番頭さんはあんなに激怒したのか。てっきり極悪非道の商人だからって」


 「君は絵師として、すでに気づいていたんだよ。この林檎と桜の組み合わせが、日常ではなく、、『夢の景色』だってことにね」と一郎は言う。


 師宣は「そうか…!冬なのに、秋と春が一緒に存在する。悪徳商人の店先にも関わらず、このありえない瞬間を、俺っちはどうしても描き留めたかったんだ!」と声を上げる。


 「それが分かれば、なにも命まで取れとは命じねぇ」と丸木は言い、「だがな代償はきっちり払ってもらうぞ。なにせ俺は悪徳商人だからな」と睨みつける。


 師宣は震えながら「な、なんでしょうか」と尋ねる。


 丸木は「この男に身を預ける」と一郎を指差す。


 一郎は細く微笑み、「僕と契約しよう。僕の弟子になってくれないかい?」と言う。


 師宣は「こ、この方はいったい何者で?」と不安そうに丸木に聞く。


 「多賀朝湖ちょうこ。吉原の太鼓持ちだ」と丸木は短く言う。


 一郎が「君は良い目を持ってる。よろしくね、菱川師宣くん」と笑いかける。


 師宣は叫ぶ。


 「吉原?目?まさか俺っちの目を売り飛ばすつもりか?嫌だ!嫌だぁ!俺っちは太鼓持ちの弟子になんて絶対なりたくねぇ!」

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