延宝三年(一六七五)一月 江戸 深川の金沢屋
十八歳の絵師と名乗った菱川
忠太は絵を一瞥するなり、「下手だな」と鼻で笑って、絵だけを雑に丸木五郎に手渡す。
丸木は内心、忠太の絵への雑な扱いに眉をひそめながら、両手でゆっくりと絵を広げ、「確かに上手くは見えないな。だが動きのない林檎なのに、グラグラしてる感じがする、この不安定さはなんだ?」と多賀一郎に丁寧に絵を渡す。
受け取った一郎は、墨の匂いが立ち上る白黒の絵を両手で慎重に掲げて、しばらく凝視する。やがて、左右や上下に傾きを変えながら時間を忘れたかのように没頭して見入る。
一郎の頭の中では、林檎が赤く色づき、甘酸っぱい芳香を放ちながら、ゆらゆらと台の上で揺れ始める。
一郎は絵から視線を外し、「ふーっ」とひと息つくと、師宣に問う。
「君、絵師というからには、わざとこう描いてるんだよね」
師宣は「もちろんさ」と胸を張る。
一郎は、「林檎一つを色々な方向から観察して、それぞれの視点を一つの絵に盛り込む。それだけでなく香りや形までも別の要素にして入れようとしてるみたいだ。強引すぎるけど、こんな絵を見たことがない」とうめく。
丸木が絵を覗き込み、「グラグラと感じる不安定さはそういうことか?」と言う。絵にさほど興味の無い忠太は「ただの拙い絵にしか見えませんが」と口を挟む。
調子に乗った師宣が「分かる人には分かるね。オレは林檎の絵で江戸を変える男さ」と言うと、丸木がギロリと睨み、「林檎と一緒に江戸の海に沈めてもいいんだぞ」とピシリと言う。
一郎ははっとして、「ヒシカワって、二年前の寛文十二年に刊行された『武家百人一首』の版木下絵の作者かい?」と尋ねる。
師宣は、「そうっす、オレの名前が初めて出た本だよ、お兄さん詳しいね」と嬉しそうに答える。
一郎は、「覚えてる。こんな多視線の絵じゃなかったけど、うまく人物の一面を切り取っていた構図は印象に残ってるよ」と言う。
師宣が「だろぉ?」とふんぞり返ると、一郎は「でも、かなり絵の技術は下手だった」とすかさず言う。師宣はガクッとし、忠太がそれを見てニヤリとする。
丸木は「お前、本当に絵師なのか?」と聞くと、師宣は「へぃ。その本の駄賃が出たんで、去年、故郷の房総から江戸に移って本格的に絵師としてやっていこうと。でも…」と言い淀む。
「でも、なんだ?」と丸木はさらに問う。
師宣は、「江戸の宵越しの銭は持たないっていうのが格好良くて、それを地でやってるうちに紙を買う銭も無くなりまして…」と声を小さくする。
一郎は、「じゃあ、この多視線の素描は、意識的というより、紙がないから一枚に全部描こうとしたってこと?」と聞く。
師宣は頭をかきながら、「ご明察でさぁ」と答える。
一郎は続ける。「君、独学だよね」
「ご明察でさぁ」と師宣は繰り返す。
一郎は丸木に目線で合図を送る。
丸木は頷き、「忠太! 奥座敷に、もう一度、『悪巧みの会』の準備をしろ」と命じる。
師宣は「なんすか、悪巧みって? もしかしてオレを簀巻きにする計画ですか?」と慌てる。
忠太は「そうかもな。覚悟しろ」とニヤリとすると、丸木の方を向いて「すぐにご用意します」と答え、二人の手代が師宣の両腕をガシッと抑える。
師宣は「本当です!オレはいずれ林檎の絵で江戸を変える絵師になるんです」と、話の通じそうな一郎に向かって懇願するが、一郎は「君は林檎の絵では江戸を変えられないさ」と冷たく言って背中を向ける。
一郎は、師宣に聞こえない声で「林檎以外の絵で江戸を、いや日ノ本を変えるかもしれない」と呟くと、丸木に従って奥座敷へと戻っていく。