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第46話 延宝三年(1675年)

 ◇延宝三年(1675年)一月 江戸・深川の金沢屋


 年が明けたばかりの江戸の下町、深川の町には、冷たい浜風が吹き抜けていた。そんな下町の一角で、廻船問屋金沢屋が経営する商店は、今日も活気を放っていた。店先に並ぶ各地から届いた珍しい品の数々が、商いの賑わいを告げている。


 人払いした奥座敷に、多賀一郎が、金沢屋丸木五郎の描いた絵を両手で掲げながら、じっと見つめている。


 丸木もまた、緊張した様子で正座をして絵の師匠を見つめている。


 画面一杯に、ぽってりとした肉太の筆致で「鬼」が描かれている。


 頭には角、口元には牙が生え、顔は真っ赤に塗られ、ギョロリとした大きな目をした鬼は、旅の虚無僧の格好で、右手に大きな団扇を持ち、左手を腰に当てて立っている。その姿は、おどろおどろしいはずなのに、どこか滑稽な印象を与える。


 そして、なによりもその絵には、丸木がこれまで描いてきた、周到に構想されながらも、どこか臆病な線で描かれていた「丁寧な絵」とは、全く異なる力が宿っていた。


 一郎は、絵を掲げたまま、静かに口を開いた。


 「金沢屋さん。これまでの絵は、一枚一枚、丁寧に慎重に、言ってみれば臆病な線でした。でも、この絵は…」


 丸木は身体をわずかに震せながら、師の言葉を、一言も聞き漏らすまいと、凝視している。


 「…構図は考えたものとズレているかもしれない。いや、おそらく構図を考えずに筆を走らせたのでしょう。それが、なんとも気持ちのいい筆遣いになっています。とうとう…金沢屋さんの画風ができましたね」


 丸木は涙をブワリと浮かべて頭を深々と下げ、「朝湖ちょうこ先生、ありがとうございます。金沢屋、弟子を続けさせていただき、本当に良かったです」と感激する。


 一郎は「弟子」を優しく見つめながら、「これこそが僕には描けない戯画ぎがだ」と心の中で思う。


 心中を表には出さず一郎は、「誰かに見せたくなる力がある。東海道の宿場でお土産にしてみたら売れるかもしれませんよ」と言うと、丸木は大きく手を振って、「人に見せるなど、滅相もない。ただの商人のたわむれの絵です」と遠慮する。


 丸木は一郎から返された絵を脇に置くと、悪人面に戻り、「わたくしめの楽しみの時間はこれくらいにしまして、本題の悪巧みについて相談しましょう」と低い声で言う。


 「親分の『悪巧みの会』の人払いの監視を終えました。まもなくいらっしゃるかと」と、金沢屋の若い手代が、店先の番頭に報告する。


 番頭は、右目に刀傷のある、厳つくも、引き締まった身体の男だ。


 「ご苦労さん。親分が月に一度、気持ちをほぐされる唯一の日だ。ちゃんと人払いは徹底しただろうな」とギロリと鋭い目つきで言う。


 手代は「へい。お茶とお菓子を山と積んで、あとは一刻(二時間)は誰も近づかせるな、ですよね」と言うと、番頭は頷く。


 手代は「あのぉ、一つお聞きしても」と聞くと、番頭はギロリと見ながら、「なんだ?」と言う。


 手代は「『悪巧みの会』とはなんでしょうか? なぜ吉原の太鼓持ちと二人きりなのですか?」と若さ故か遠慮なく質問する。


 番頭の右目の刀傷が、わずかに笑い皺に変わる。番頭は「金沢屋で『悪巧み』なんぞ毎日行われてるのにと言いたいのか?」と聞くと、手代は「へぇ」と頷く。


 番頭は「あれはなぁ、親分一流の照れってやつよ。月に一度だけ、普段は手駒として使っている太鼓持ちに、絵を教わるんだが、その時だけは主従が逆転する。親分が太鼓持ちに頭を下げる姿を、俺たちに見せるわけにはいかねぇ。だから、人払いして絵を習ってるわけさ」と親分への深い忠義心を滲ませて言う。


 手代は「親分が絵を描くっていうのがピンと来ないんですが」と言うと、番頭はさほど怒るわけではなく、「バカ野郎め。親分はな、あぁ見えて、和歌や古典にも詳しい教養のある方なんだぞ」と叱る。


 「三年前に、俺がとんでもない跳ねっかえりでやんちゃをしていた時、旗本奴はたもとやっこと揉めて、巻きにして大川に沈められそうなときに助けていただいたのが親分よ」


 「へぇ、その話は何回もお聞きしてます」と言う手代に、「ちっ。何回だって親分の素晴らしさは聞いたほうがいいんだよ」と言うと、番頭は続ける。


 「そんな俺を拾ってくれた親分は、とにかく文を読め、古典を読め、和歌を読めってね。それを信じてひたすら文を読み続けたら、帳面も数字も分かるようになり、今ではこの金沢屋の番頭よ」と胸を張る。


 「そうですか。でもこの間、親分に『なんで古典を読むんですか』とお聞きしたら、『吉原で女にもてるためよ』とおっしゃってましたが」と手代が言うと、番頭は「お前はだから駄目なんだよ。親分のお言葉にはすべて深い意味があるんだよ。『悪巧みの会』も、悪巧みをするなんて文字通りのはずはないだろ」とドヤっとした顔をする。


 手代は「あの、もしかして、番頭さんの後ろに掛かってる七福神が乗った宝船の絵って、親分が描いた絵ですか」と指を指す。


 番頭は振り向いて、「あぁ、そうだ」と言う。


 手代が「正直、つたない絵ですね」と率直に言うと、番頭は「てめぇ!まぁ、だが、上手くは無いわな。なんでも出来る親分だが絵だけは拙い。そこが男としての魅力じゃねぇか」と睨む。


 その時、店先で、別の手代が、荒い息を吐きながら叫んだ。


 「この野郎! 売りもんの林檎をつまみ食いしやがった!」


 ガタイの良い手代が、まだあどけなさの残る顔をした若い男の襟元を掴み上げ、番頭の前に引きずってくる。男の片手には、かじりかけの林檎が握られていた。


 番頭は刀傷のある顔をしかめて、若い男に「おい、坊主。金沢屋の品物に手を付けてただで済むと思うなよ」と睨みつける。


 若い男は「ひぃ、す、すいやせん。オレ、林檎の絵を描いていたら、あまりにうまそうなので、気づいたらつい手が伸びちまって」と平身低頭する。


 番頭は「林檎の絵を描いていた?」と、手代に聞く。


 「へぃ。確かに最初は離れたところから林檎を描いていました。だんだん近づいてきて、色々な角度から林檎を眺めながら、絵を描き続けてると思ったら、急に手に取ってパクっと」


 番頭は「そんなの理由になるわけねぇだろう! こいつ金沢屋を舐めてるな、おい、簀巻きにして海に放り込んでこい!」と命じると、手代の二人は頷いて、若い男の両腕を取る。


 若い男は慌てて「本当に心から、さーせん。全然舐めてませんって。なんとか話の通じる方はいらっしゃいませんか? あっ、その絵! 宝船の絵、実に良い線があるっすね。こちらを描かれたのがお店のお偉いさまなら…」と言う。


 番頭はあらためて振り返って絵を見てから、「どこに良い線があるだって? おべんちゃら言いやがって!」と怒鳴る。


 その時、「忠太!なんだ騒がしいな。俺の絵がどうしたって?」と、丸木が現れる。その後ろには一郎が背を丸めて付き従ってる。


 忠太と呼ばれた番頭はさっと頭を下げて、「親分、お疲れ様です。店先の林檎をつまみ食いした野郎を締め上げてるだけです。親分の手を煩わせることではございません」と説明する。


 若い男は「お、親分さんっすか、この七福神の宝船を描かれたのは? 実に良い線があるっすね」と必死に訴える。


 丸木は後ろを振り向き、顎で一郎に指示する。一郎はひょこひょこと壁に掛かった宝船の絵を持ってくる。


 丸木は「どの線だ?」と聞くと、若い男はすぐに「この線と、こちらの線、あとこことか」と指差す。


 確かに、四年半前、かつて狩野派の画塾で一郎が丸木の拙い絵に「ここにこうちょっと」と描き加えた細い線だった。丸木と一郎は目を合わせて無言で同意の意を伝え合う。


 丸木はどかっと床に座ると、「簀巻きにする前に、名前と年齢、職業くらいは聞いておこうか」と尋ねる。


 若い男は必死に言いつくろう。


 「オレは菱川吉兵衛、十八歳っす。菱川師宣もろのぶの画名で、ちんけな風俗画の絵師をしてます」

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