山の裏に出られる抜け道から山道を下ると、大きな杉の木の脇に、僕(の水筒)が壊してしまった祠があった。水筒がここまで、磐座から飛んで落下したらしい。見上げても木々が邪魔して磐座は見えなかった。
古い白木は無残にも割れて細かい木屑が散っており、御幣は見当たらなかった。応急処置なのか、割れた木がひと塊にまとめられ、紙垂が付いた細い縄が元祠の周りを囲っていた。
「……見事に壊れてますね」
「すいません……」
僕は肩をすくめて謝った。子供たちの視線も心なしか冷たい。屈んで祠に顔を寄せた梅さんは、縄の外から祠を観察している。やはり、台座正面の石部分に何かが彫られていた。今度はまるで人形が踊っている様な模様だった。何を意味するのか全くわからないが、また番頭さんに書き取りをさせていた。
「この祠の修繕は、祭までに行われるそうですよ。御幣……オンベ様は無事だったんでしょうか?」
梅さんは、最後の質問を拓三さんに向けて訊いた。
「オンベ様は新たにされるそうだ」
梅さんは首を傾げて拓三さんを見る。
「この水神社にはご神職がいらっしゃらないですよね。ということは、黒河内さんが?」
「そうだ」
「なるほど。それで合点がいきました。黒河内家とこの村一帯はいわゆる
梅さんは、話に付いていけていない僕の表情を見ると簡単に説明してくれた。
「神社には通常、神職がいますね。あれは階級でもあり、定められた人が為ります。でも、村や町など小さい社には、地域の中で祭祀を行う役割を負う家や人がいることがあり、この組織を『宮座』と呼ぶのです。当番制で決めることもあります。まあ、学術的な定義と思ってください」
そこまで言って、ふと梅さんが拓三さんを見る。
「では、雪さんは? 彼女は親族ではありませんよね。彼女が負う神事の役とは何ですか?」
それを聞いた拓三さんの顔が、急に強張った。唇を結び眉の皺が深くなる。言葉を選んでいるような沈黙のあと、
「――特殊な役だ。『祟り』が起こるようになったあと、作られた。……それ以上は俺からは言えない」
拓三さんの表情は苦しそうで、どことなく悲しげだった。梅さんは大きな瞳で拓三さんを見つめ、それ以上は追及しなかった。
僕たちはそれから、幾分気まずい雰囲気になったが、子供たちに助けられ水神社一帯の他の祠を見て回った。案内してもらわないとわからないほどのか細い道を行き、すべての祠を巡る。大まかな方向と、台座の記号を確認すると、梅さんは納得したようだった。
「なるほど。だから四方向だったのですね。ようやくオンベ様のことがわかってきました」
「どんなことがわかったんですか?」
僕は好奇心から梅さんに訊いてみる。すると、昨日見た、不思議な笑顔を向けてきた。
「まだですよ。ちゃんと神事の前にはお話ししますから」
僕は、昨晩の話し合いの場でのことを思い出す。僕がこの村に来た理由などを話した後、訊いてみた。僕は、生贄になるしかないのか、と。
「いいえ」
毅然とした表情で梅さんは否定した。
「――私が父から仰せ使って来たのは、実は村長からの依頼だけではありません。この村で行われる祭、その祭祀で『人が消える』という噂が数年前から流れていたからです。周辺の村や町の人から、知人を通して同じような訴えが父の元にもたらされました。でも、閉鎖的な村に余所者が訪れるのは難しい。そんな時に村長から話が来たので、渡りに船だったのです。……村長も穏便に解決したい気持ちはあるのでしょう。しかし、実際に禍事が起こっているのを止めることもできない。私はそれを止め、あるべき姿に戻すために来ています」
梅さんが、村長を通じて父親から聞いた話は、この村で行われる祭は、『舟神事』の一種だという。山の中で何故舟なのか、と思うが、水害や田んぼなどに関する祭祀によくあるものらしい。――舟で村内を巡回し、罪や穢れを移したその舟を、川に流したり燃やしたりする。
それがどのように『祟り』や『禍事』を引き起こしているのか。それがわかれば、生贄などという話もなくなるでしょう、と言った。
「神様も、本来の祭りごとに戻してほしいと思っていらっしゃる。だからこそ、私がここにいるのです。藤木さんが来たのも、同じ理由ですよ」
そういう梅さんは、どこか神々しいような神秘的な笑みを浮かべていた。
――僕には、半分くらい話が見えなかったけれど、梅さんにしか見えないものがあるのだろう、と何となく感じた。そして、それを信じてみることにしたのだ。
全てを巡り終えると、梅さんは拓三さんに、この辺りには寺院がないのか、と訊いた。
「昔はあったみたいだが、住職が死んだあとは続かず、
「そうですか……」
梅さんが残念そうに言った。
「お寺がどうかしたんですか?」
「地域のお寺には、古い文献が残されていることが多いんです。なんせ、生き死にを扱っていますから。歴史も伝わっていることが多いので、調べものに持ってこいなんですよ」
と僕に話した。それを聞いた拓三さんは、
「それなら、隣町だがしっかりした図書分館がある。この辺りの歴史や文献などもかなり豊富にそろっているぞ」
と教えた。梅さんはそれを聞くと、住所や行き方を確認し、控えていた番頭さんに指示をして、調べものを依頼していた。この辺りの水害と歴史、祠の記号も調べてくるらしい。ついでに梅さんの父上に報告もするとのことだった。
(今更ながら、梅さんの家は何をしているんだろう……?)
そんな疑問が芽生えた僕は、すべて終わったら訊いてみようと思った。
そんなわけで僕たちと番頭さんは、山を下りると別行動をすることになった。僕たちは子供たちと一緒に遊びつつ、少し遅めの昼ご飯を食べた。
僕はこの村に来て、初めてのんびりと周囲を眺める時間がとれたようだった。子供たちに囲まれて、野山や田畑、その間に点在する家々を眺めると、どこにでもありそうな普通の村だった。よく晴れた七月の日差しは暑く、木々を通る風が汗を冷やしてくれる。
僕は暫し、この村に来た理由や起こったことを忘れてぼんやりした。
束の間、のんびりとした時間を過ごした僕たちは、子供たちを家に送ることになった。先頭は拓三さんで、子供たちを挟んで僕と梅さんが続いて歩く。
差し掛かった道が丘を越えて下り坂になった時、向こうから白い軽トラが走ってくるのが見えた。しかも、かなりのスピードだ。
僕たちが道の脇に避けたところ、車は直前で急ブレーキで止まり、窓から男が身を乗りだして大声を上げた。
「大変だ! 拓三! 急いで子供たちを家に帰すんだ!」
何事かと僕たちが顔を見合わせていると、その男が続けた。
「えらいことになった……。禍事……祟りが! 祟りが起こったんだ!」
それを聞いた拓三さんの顔色が変わった。
「
「駐在さんは」
「もう連絡したが、
そんなことを話し終え、男はまた車を発進しスピードを出して去っていった。
子供たちはすっかり怯えて、お互いの手を取っていた。
「子供たちを取りあえず集会所に。親たちもそれどころじゃなくなるから」
拓三さんは強張った顔でそう言うと、子供たちと僕たちを促して小走りになった。
「な、何があったんですか?」
「……多分、恐れていた『祟り』だよ。あんたたちは騒ぎになるから来ない方がいいだろう」
そう言った拓三さんに、
「いいえ」
梅さんが強い声を出す。
「私たちも行きます。そういう決まりですから。いいですね?」
僕の顔を見て、付いてこい、という表情をする。僕は気を飲まれて、頷くしかなかった。
拓三さんはため息をつき、後悔しても知らんぞ、と小さく呟いた。
子供たちを村の集会所にいた女性に預けると、拓三さんと共に、ある家に向かった。
そこは、裏が雑木林になった民家だった。この村によくある、道路の横に田んぼが続く先から私道が伸び、坂を上るその道がそのまま家の敷地になっている。家の前は広く駐車スペースで、玄関脇に縁側があり、その大きな窓は開けっぱなしになっていた。
すでに数人の人だかりができていたが、広い敷地は遮るものがなく、昼間の明るい日差しの中、それは僕たちの目に飛び込んできた。
――その玄関の雨除けの庇の太い柱に、
広げられた両手は、細い縄が手首を縛って左右に伸び、まるで大の字のような姿勢を取らされていた。縄は、つい先ほど見た、紙垂が付いた細縄と同じようなものに見えた。
――そして、その男の胸に突き刺さっていたのは、幣が血に染まった長い御幣だった。