「今日は、母上と父上のところに行きましょう!」
アマユラが張りきって宣言したその朝。銀白の髪を丁寧に梳かし、「冠」と呼ばれる朱金の前髪もばっちり整えている。
その足元に、ぴたりと寄り添うようにして歩いていたのは、妹・アミツキ。
白金の毛並みを陽にきらめかせながら、四つ足でぽてぽてと歩くその小さな背中には、薄桃色の鱗がきらりと浮かび、臙脂色の蹄が軽やかに音を立てていた。
「……ついてきてる?」
「うん、ぴとってくっついてる。大丈夫だよ」
兄のイツキが後ろを振り返ると、アミツキはアマユラの横腹にぴとっと体を押し当てて、歩調を合わせていた。
たてがみが揺れるたび、朱金の前髪(冠)がふわりと持ち上がり、真紅と琥珀のオッドアイがきらきらと輝く。
「母上のところ、きれいな光いっぱい見れるかな……」
とイツキがぽそり。
「うん! きっとアミツキも気に入るよ!」
アマユラは満面の笑みで振り返った。けれど、その先に待っていたのは――。
白緋と朱金が差し込む大理石の殿堂。その奥から、教育係のひとりが厳しい面持ちで現れた。
「アマユラ様。」
アマユラが背筋を伸ばす。
「はいっ!」
「“実務詠礼”の暗唱、三日目以降進んでおりませんね。……原因は?」
「えっ……それは……その……アミツキが、可愛すぎて……。」
「理由になりません。」
「うっ……。」
イツキは小さく息をつき、「ああ、これはアマユラ詰んだな」と悟った。
アミツキはその様子がわかっていないのか、アマユラの足元にくるりと尾を巻いて、「クゥ?」と鳴く。
その瞬間、堂の奥から母・アマカギが姿を現した。
銀白の長髪、朱金と白緋の装束、羽のような袖が揺れ、琥珀の瞳が静かに輝く。
「アマユラ。今日からは私が直に指導します。……見学ではなく、実習です。」
「へっ!? えっ、あの、でも、アミツキが……。」
「アミツキの面倒はイツキが見ます。貴女は貴女の務めをきちんとなさい。」
「……はいぃぃ……。」
しょんぼりと母のもとに向かって歩き出すアマユラ。
アミツキがそれを追おうとして、「キュゥ……!」と鳴くが、イツキがすかさず前に立つ。
「姉ちゃんはちょっと、特別レッスンなんだって。俺たちは父上のとこに行こっか。」
アミツキはしばらくアマユラの背中を見つめていたが、やがてくるりとイツキに体を寄せて歩き出す。兄の脇にぴとっと寄り添い、蹄の音をポクポク鳴らしながら。
「アマユラ、がんばれ~」と小声でイツキがつぶやいた。
後ろでは、アマカギの袖が静かに翻り、堂奥で光の羽がひらりと広がっていった。
母のもとへ連行――いや、連れていかれた姉の姿が見えなくなるころ、イツキとアミツキは静かな渡り廊下を歩いていた。
庭にそよぐ風が、池に浮かぶ蓮を揺らし、どこかの楼から琴の音がかすかに響いてくる。
目的地は父・イハナギが日々文書や律法を扱う、静寂の空間。
部屋の前に立つと、文官のひとりが扉を静かに開けた。
「イツキ様、アミツキ様、お通しします。」
中は一面、淡墨の帳と蒼銀の巻物が並ぶ空間。香がたかれ、水墨画のような雲龍の意匠が屏風に広がっている。
その中央、硯の前に座るのは父・イハナギ。漆黒の長髪を後ろに束ね、静かに筆を走らせていた。
イツキが一歩前に出て深く頭を下げる。
「父上、見学に参りました。……アマユラは、母上に捕まりました。」
一瞬、筆が止まり――ふっ、と笑みが漏れた。
「そうか……また可愛いさに負けて、勉学をおろそかにしたな、アマユラは。」
父はどうやらお見通しのようである。
「はい。」
イハナギが目を細めると、アミツキはまるで名を呼ばれたように「キュゥ!」と鳴いて、てててっ……と駆け寄っていった。
「来たか、アミツキ。」
イハナギは膝をぽん、と叩いた。アミツキはひょいと前脚を掛けて、父の膝へぴょこんとよじ登る。
「この香り、落ち着くか?」
「くぅ……♪」
イハナギは笑みを深め、淡銀の瞳でアミツキの毛並みを撫でるように見やった。
「では……イツキ、少しだけ手伝っていくか?」
「俺にですか?」
とイツキ。
「“ついで”だ。」
苦笑いしながらも、筆を受け取り、文案の一部を写す役を任されるイツキ。その隣では、アミツキが父の膝の上でじっと文字を見つめたり、書の流れに合わせて尾をぱたぱた揺らしたりしていた。
「これはね、決まりごと。みんなが喧嘩しないように、こうしましょうって約束してるんだ。」
「キュ……?」
「お前も大きくなったら、読むことになるよ。……父上の字が読めるといいな。」
アミツキは、イツキの手元を覗き込むように首を傾ける。
静かな時間が流れた。香と筆音、柔らかな父の声。アミツキのまどろむ気配。
やがて、イハナギが筆を置いて言った。
「せっかくだ、新年のときに選んだ三つの当主の元へも顔を出してくるとよい。親しくしていて損はない。イツキも相手をきちんと見れば苦手意識もなくなる。」
「え、あ~はい。……あ、父上は?」
「私はこのまま少し、文を整える。……アミツキを抱えてゆけるか?」
「任せてください。」
イツキはゆっくりと父の膝からアミツキを抱き上げる。アミツキは「クゥ……」と甘え声を漏らしながらも、イツキの腕の中に身を委ねた。
「では――三当主様によろしくお伝えを。」
「はい!」
二人の足音が静かに遠ざかり、再び「言霊の間」に墨の香と筆音が戻ってきた。
父のまなざしは、静かに巻物の端に戻っていた。
最初に訪れたのは――蒼銀の飛竜騎士団本営。
屋根を滑空する練習竜の影が、青空を切り裂く音とともに空を舞う。その静謐な空間の中央、騎士たちの訓練を見下ろす高座に、龍の翼を模した肩衣をひるがえす壮年の男が立っていた。
「……よう来たな、小さき神子とその案内人。」
冷ややかにも温かい声。ユハカゼは、澄んだ碧の瞳でふたりを見下ろしていた。
イツキはアミツキを抱き直し、ぺこりと頭を下げる。
「し、失礼しますっ……アミツキが“どうしても”って言って……あの、その……。」
「構わぬ。歓迎する。」
ひとつ手を振るだけで、背後の騎士たちが整列し、整然と場が整えられていく。
「……して、小さき神子よ。新年の選び、なぜ我を選んだ?」
問いにアミツキはくるりと顔を向け、ころころ笑って「くぅ!」と答える。
イツキが困ったように笑い、アミツキの額に自分のをくっつけ、そっと心を読む。
「……えっと……“おそらのうえにいる、やさしいにいに”……だそうです。」
「……空の上か。」
ユハカゼは、口元を少しだけ緩めた。
しばらくの静寂の後、彼はイツキに向き直る。
「また来るがいい。次は我が息子たちも交えてな。少しやんちゃだが、おまえたちとも気が合おう。」
そう言って、風のように去っていった。
次に向かったのは、王城の中庭。そこには一糸乱れぬ剣技が響き、白金の稽古衣が並ぶ。
「こらっ、構えが甘いぞ!」
鋭い叱責とともに、虎の瞳を持つ男が振り返った。護符を額に刻んだその人こそ、白虎の当主――ハクマロ。
「……おぉ。来たか。話には聞いていたが、本当に来るとはな。」
稽古場を中断し、彼は自ら手ずから二人を木陰に招く。
「しかし、どうしてうちなんかを……?」
その問いに、またアミツキが「きゅぅ」と笑う。イツキは額を寄せ、少しだけ首を傾げて通訳する。
「“つよくて にこにこしてる にいに”。……って。」
「……に、にこにこだと?」
あの白虎の猛将が、耳まで赤くなる。
「……笑ったところなんぞ見たことないだろうに不思議なことを言う。」
「でも……アミツキは見えたんだと思います。きっと……。」
そう言うと、ハクマロは一瞬沈黙し――そして、苦笑をひとつ。
「……たしかに。正月、剣の稽古中に、弟どもが倒れて雪だるまになってな。笑ったかもしれん」
そして、ぽんとイツキの肩をたたいた。
「今度はうちにも寄れ。息子たちを紹介する。」
最後に向かったのは、神託の塔。重々しい扉の先にある書院には、静けさと墨の香りが漂っていた。
仮面を机に置き、羽織を整えた黒髪の男が、瞳を上げる。
「……来たか。影が告げていた。」
ヨミカゲ。多くを語らぬ彼は、それでもふたりの来訪を待っていた。
アミツキは、まっすぐ彼の前に進む。黒羽を宿す男を、まるで夜の空をみるように見つめる。
「……ふむ。なぜ、我を選んだ。」
小さな額が、イツキに寄せられる。
「……“なんでも しってる しずかなにいに”。……だそうです」
「…………。」
ヨミカゲは無言で目を閉じた。そして、そっと手のひらにひとつ、神笥から小さな光玉を取り出す。それは、星のようにきらめいていた。
「……よく見ている。あの子は、闇も、光も、隠してなどいない。」
光玉をアミツキの代わりにイツキの手のひらに落とすと、彼はゆっくりと立ち上がる。
「次は、我が子らにもこの光を見せてやりたい。――来てくれ。彼らもまた、おまえを知るべきだ。」