目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第19話 職場見学

 「今日は、母上と父上のところに行きましょう!」


 アマユラが張りきって宣言したその朝。銀白の髪を丁寧に梳かし、「冠」と呼ばれる朱金の前髪もばっちり整えている。


 その足元に、ぴたりと寄り添うようにして歩いていたのは、妹・アミツキ。


 白金の毛並みを陽にきらめかせながら、四つ足でぽてぽてと歩くその小さな背中には、薄桃色の鱗がきらりと浮かび、臙脂色の蹄が軽やかに音を立てていた。


 「……ついてきてる?」


 「うん、ぴとってくっついてる。大丈夫だよ」


 兄のイツキが後ろを振り返ると、アミツキはアマユラの横腹にぴとっと体を押し当てて、歩調を合わせていた。


 たてがみが揺れるたび、朱金の前髪(冠)がふわりと持ち上がり、真紅と琥珀のオッドアイがきらきらと輝く。


 「母上のところ、きれいな光いっぱい見れるかな……」


 とイツキがぽそり。


 「うん! きっとアミツキも気に入るよ!」


 アマユラは満面の笑みで振り返った。けれど、その先に待っていたのは――。


 白緋と朱金が差し込む大理石の殿堂。その奥から、教育係のひとりが厳しい面持ちで現れた。


 「アマユラ様。」


 アマユラが背筋を伸ばす。


 「はいっ!」


 「“実務詠礼”の暗唱、三日目以降進んでおりませんね。……原因は?」


 「えっ……それは……その……アミツキが、可愛すぎて……。」


 「理由になりません。」


 「うっ……。」


 イツキは小さく息をつき、「ああ、これはアマユラ詰んだな」と悟った。


 アミツキはその様子がわかっていないのか、アマユラの足元にくるりと尾を巻いて、「クゥ?」と鳴く。


 その瞬間、堂の奥から母・アマカギが姿を現した。


 銀白の長髪、朱金と白緋の装束、羽のような袖が揺れ、琥珀の瞳が静かに輝く。


 「アマユラ。今日からは私が直に指導します。……見学ではなく、実習です。」


 「へっ!? えっ、あの、でも、アミツキが……。」


 「アミツキの面倒はイツキが見ます。貴女は貴女の務めをきちんとなさい。」


 「……はいぃぃ……。」


 しょんぼりと母のもとに向かって歩き出すアマユラ。


 アミツキがそれを追おうとして、「キュゥ……!」と鳴くが、イツキがすかさず前に立つ。


 「姉ちゃんはちょっと、特別レッスンなんだって。俺たちは父上のとこに行こっか。」


 アミツキはしばらくアマユラの背中を見つめていたが、やがてくるりとイツキに体を寄せて歩き出す。兄の脇にぴとっと寄り添い、蹄の音をポクポク鳴らしながら。


 「アマユラ、がんばれ~」と小声でイツキがつぶやいた。


 後ろでは、アマカギの袖が静かに翻り、堂奥で光の羽がひらりと広がっていった。


 母のもとへ連行――いや、連れていかれた姉の姿が見えなくなるころ、イツキとアミツキは静かな渡り廊下を歩いていた。


 庭にそよぐ風が、池に浮かぶ蓮を揺らし、どこかの楼から琴の音がかすかに響いてくる。


 目的地は父・イハナギが日々文書や律法を扱う、静寂の空間。


 部屋の前に立つと、文官のひとりが扉を静かに開けた。


 「イツキ様、アミツキ様、お通しします。」


 中は一面、淡墨の帳と蒼銀の巻物が並ぶ空間。香がたかれ、水墨画のような雲龍の意匠が屏風に広がっている。


 その中央、硯の前に座るのは父・イハナギ。漆黒の長髪を後ろに束ね、静かに筆を走らせていた。


 イツキが一歩前に出て深く頭を下げる。


 「父上、見学に参りました。……アマユラは、母上に捕まりました。」


 一瞬、筆が止まり――ふっ、と笑みが漏れた。


「そうか……また可愛いさに負けて、勉学をおろそかにしたな、アマユラは。」


 父はどうやらお見通しのようである。


 「はい。」


 イハナギが目を細めると、アミツキはまるで名を呼ばれたように「キュゥ!」と鳴いて、てててっ……と駆け寄っていった。


 「来たか、アミツキ。」


 イハナギは膝をぽん、と叩いた。アミツキはひょいと前脚を掛けて、父の膝へぴょこんとよじ登る。


 「この香り、落ち着くか?」


 「くぅ……♪」


 イハナギは笑みを深め、淡銀の瞳でアミツキの毛並みを撫でるように見やった。


 「では……イツキ、少しだけ手伝っていくか?」


 「俺にですか?」


 とイツキ。


 「“ついで”だ。」


 苦笑いしながらも、筆を受け取り、文案の一部を写す役を任されるイツキ。その隣では、アミツキが父の膝の上でじっと文字を見つめたり、書の流れに合わせて尾をぱたぱた揺らしたりしていた。


 「これはね、決まりごと。みんなが喧嘩しないように、こうしましょうって約束してるんだ。」


 「キュ……?」


 「お前も大きくなったら、読むことになるよ。……父上の字が読めるといいな。」


 アミツキは、イツキの手元を覗き込むように首を傾ける。


 静かな時間が流れた。香と筆音、柔らかな父の声。アミツキのまどろむ気配。


 やがて、イハナギが筆を置いて言った。


 「せっかくだ、新年のときに選んだ三つの当主の元へも顔を出してくるとよい。親しくしていて損はない。イツキも相手をきちんと見れば苦手意識もなくなる。」


 「え、あ~はい。……あ、父上は?」


 「私はこのまま少し、文を整える。……アミツキを抱えてゆけるか?」


 「任せてください。」


 イツキはゆっくりと父の膝からアミツキを抱き上げる。アミツキは「クゥ……」と甘え声を漏らしながらも、イツキの腕の中に身を委ねた。


 「では――三当主様によろしくお伝えを。」


 「はい!」


 二人の足音が静かに遠ざかり、再び「言霊の間」に墨の香と筆音が戻ってきた。


父のまなざしは、静かに巻物の端に戻っていた。




 最初に訪れたのは――蒼銀の飛竜騎士団本営。


 屋根を滑空する練習竜の影が、青空を切り裂く音とともに空を舞う。その静謐な空間の中央、騎士たちの訓練を見下ろす高座に、龍の翼を模した肩衣をひるがえす壮年の男が立っていた。


 「……よう来たな、小さき神子とその案内人。」


 冷ややかにも温かい声。ユハカゼは、澄んだ碧の瞳でふたりを見下ろしていた。


 イツキはアミツキを抱き直し、ぺこりと頭を下げる。


 「し、失礼しますっ……アミツキが“どうしても”って言って……あの、その……。」


 「構わぬ。歓迎する。」


 ひとつ手を振るだけで、背後の騎士たちが整列し、整然と場が整えられていく。


 「……して、小さき神子よ。新年の選び、なぜ我を選んだ?」


 問いにアミツキはくるりと顔を向け、ころころ笑って「くぅ!」と答える。


 イツキが困ったように笑い、アミツキの額に自分のをくっつけ、そっと心を読む。


 「……えっと……“おそらのうえにいる、やさしいにいに”……だそうです。」


「……空の上か。」


 ユハカゼは、口元を少しだけ緩めた。


 しばらくの静寂の後、彼はイツキに向き直る。


「また来るがいい。次は我が息子たちも交えてな。少しやんちゃだが、おまえたちとも気が合おう。」


 そう言って、風のように去っていった。



 次に向かったのは、王城の中庭。そこには一糸乱れぬ剣技が響き、白金の稽古衣が並ぶ。


 「こらっ、構えが甘いぞ!」


 鋭い叱責とともに、虎の瞳を持つ男が振り返った。護符を額に刻んだその人こそ、白虎の当主――ハクマロ。


 「……おぉ。来たか。話には聞いていたが、本当に来るとはな。」


 稽古場を中断し、彼は自ら手ずから二人を木陰に招く。


 「しかし、どうしてうちなんかを……?」


 その問いに、またアミツキが「きゅぅ」と笑う。イツキは額を寄せ、少しだけ首を傾げて通訳する。


 「“つよくて にこにこしてる にいに”。……って。」


 「……に、にこにこだと?」


 あの白虎の猛将が、耳まで赤くなる。


 「……笑ったところなんぞ見たことないだろうに不思議なことを言う。」


 「でも……アミツキは見えたんだと思います。きっと……。」


 そう言うと、ハクマロは一瞬沈黙し――そして、苦笑をひとつ。


 「……たしかに。正月、剣の稽古中に、弟どもが倒れて雪だるまになってな。笑ったかもしれん」


 そして、ぽんとイツキの肩をたたいた。


「今度はうちにも寄れ。息子たちを紹介する。」



 最後に向かったのは、神託の塔。重々しい扉の先にある書院には、静けさと墨の香りが漂っていた。


 仮面を机に置き、羽織を整えた黒髪の男が、瞳を上げる。


 「……来たか。影が告げていた。」


 ヨミカゲ。多くを語らぬ彼は、それでもふたりの来訪を待っていた。


 アミツキは、まっすぐ彼の前に進む。黒羽を宿す男を、まるで夜の空をみるように見つめる。


 「……ふむ。なぜ、我を選んだ。」


 小さな額が、イツキに寄せられる。


 「……“なんでも しってる しずかなにいに”。……だそうです」


 「…………。」


 ヨミカゲは無言で目を閉じた。そして、そっと手のひらにひとつ、神笥から小さな光玉を取り出す。それは、星のようにきらめいていた。


 「……よく見ている。あの子は、闇も、光も、隠してなどいない。」


 光玉をアミツキの代わりにイツキの手のひらに落とすと、彼はゆっくりと立ち上がる。


 「次は、我が子らにもこの光を見せてやりたい。――来てくれ。彼らもまた、おまえを知るべきだ。」



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?