──夜の帳が、山を静かに包み込んでいた。
車を降りた三人は、舗装の剥がれた旧道を踏みしめながら、言葉少なに山道を進んでいく。
湊、理沙、柏原
──それぞれの足取りは重く、それでいて迷いはなかった。
冷たい空気が肌を刺す。
風はなく、ただ濃霧が音を吸い込み、あたりを不気味な静寂で包んでいた。
「……ここ、本当に館があるんですよね?」
理沙の声が、霧の中で震える。
湊は無言のまま、前方を見据えて歩を止めない。
柏原が背後から短く答えた。
「あるわ。十数年前まで、確かに“そこ”に存在していた。白鷺家の館
──白鷺館」
やがて、霧の向こうに崩れかけた巨影が現れた。
白鷺館。
屋根は崩れ、窓は砕け、外壁は苔と泥に覆われている。
かつて“白き迎賓館”と称されたというその姿は、今や見る影もない。
「ようこそ
──って感じじゃないわね」
柏原がぼそりと呟き、門柱の文字に目をやる。
そこには、錆びたプレートにかろうじて読める文字。
《白鷺館 私有地 無断立入禁止》
湊が無言で門に手をかけると、軋んだ音を立てながら金属製の扉が開いた。
その向こうからは、まるで生き物のように濃密な闇が滲み出していた。
三人は黙って門をくぐる。
足元の石畳はひび割れ、雑草が好き放題に伸びている。
それでも、館は確かにそこに在った。
「……何年も放置されてるのに、崩れずに残ってるなんて」
理沙が息を呑むように呟いた。
「“残されていた”のか、“残していた”のか……」
湊の声は低かったが、その意味は重い。
やがて、玄関前に到着する。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
まるで、あらかじめ訪問者を受け入れる準備がされていたかのように。
ギ……と音を立てて開いた扉の奥からは、腐敗した空気と湿気、そして何か焦げたような臭いが漏れてきた。
「……人の気配はない、けど」
柏原が周囲を見回しながら言う。
懐中電灯で照らされた館内。
埃に覆われた家具、破れたカーテン、壁にはびこる黒カビ。
だが
──その光景の中でもっとも異様だったのは、床一面に描かれた“何か”だった。
「……これ、血……ですか……?」
理沙が目を見開いて立ち尽くす。
床には、赤黒く乾いた液体で幾何学的な紋様が描かれていた。
その中心には、奇妙な文が刻まれていた。
《血を流せ。そうすれば、扉は開かれる。》
「……ただの悪趣味ならいいんだけど」
柏原が低く呟き、床に片膝をついて文様を指先でなぞった。
「まだ完全には乾いてない……せいぜい数日ってところね。誰かが、最近ここに来た」
湊が、床の文様を見下ろしたまま、小さく息を吐く。
「“舞台”はすでに整っている、ってことか」
三人の視線が自然と奥へと向かう。
そのとき
──くすくす、と笑うような音がした。
「……今の、聞こえましたか?」
理沙が恐る恐る声を出す。
湊は懐中電灯を構え、音の方へ向けて照らす。
だが、そこには誰もいなかった。
ただ、朽ちた壁と闇があるだけ。
「笑い声だった……確かに。誰かが、いる」
柏原が懐から小型の拳銃を取り出す。慎重な動作だったが、その瞳には明確な警戒心が宿っていた。
湊は懐から封筒を取り出した。
白く、角に朱が滲んだその紙には
──
《白鷺館へお越しください。あなたは選ばれました。》
「“選ばれた”……ってことは、誰かが私たちを“知っている”ってことだよね」
理沙が不安げに言葉を継ぐ。
「理沙の言う通りだ。これは偶然じゃない。意図的な招待だ」
湊の声に、柏原も頷いた。
「警察にさえ“届かないように”仕掛けられた手紙。それ自体が、異常よ」
三人は室内を慎重に進んだ。
破れたソファ、倒れたランプ、壁際に散らばる書類の断片。
中には、かつての住人の生活の痕跡を感じさせるものもある。
「……誰かの、日記……?」
理沙が拾い上げた紙切れには、かろうじて“しらさぎ”の文字が残っていた。
「後でまとめて確認しましょう。今は奥を見ておきたい」
湊が前に出る。
埃を踏むたび、床板が軋む音が静寂に響いた。
闇の中、誰かの気配が確かにあった。
まるで、舞台袖から俯瞰してこちらを見ている“演出家”のように。
「……ここは、事件の中心になる」
湊がそう呟いたとき、玄関の扉がひとりでに軋み始めた。
その音に、三人の背筋がぴんと張る。
「今夜は、長くなりそうね」
柏原が静かに呟いた。
館の天井から、わずかに埃が舞った。
見えない誰かが、幕を握る手を少しだけ動かしたような錯覚。
三人の影が、廊下の奥へと伸びていく。
その先に待つのが罠か、謎か、あるいは演出された死か
──
まだ、誰にもわからなかった。
だが、確かなことがひとつだけあった。
──ここは、舞台だ。
そしてその幕は、もう
──上がってしまったのだ。
──そして、物語は静かに、その胎動を始めていた。
──そして、物語は静かに、その胎動を始めていた。
湊は、ゆっくりと懐中電灯の先を床に向けた。
埃の層に、複数の靴跡が刻まれているのが見えた。
「これ……俺たちのものじゃない」
「じゃあ……他に誰か、いるってことですか?」
理沙が怯えた声で問う。
柏原がしゃがみ込み、足跡の向きを確かめる。
「この大きさ……男性のものね。複数人。おそらくは
──」
柏原が言い終えるより早く、どこか遠くの部屋で
「コン」
と乾いた物音がした。
三人が同時に顔を上げる。緊張が一気に張り詰めた。
「行きましょう。静かに。声は出さないで」
湊が先頭に立ち、ゆっくりと音のした方向
──西棟の通路へと歩を進めた。
壁にはかつて高級感があっただろう装飾が施されているが、今はひび割れ、黴に蝕まれ、ただの朽ち果てた箱にすぎなかった。
(誰が、何のためにここへ導いたのか)
湊の思考は、冷静にその可能性を探る。
あの“招待状”が一人に向けられたものでないならば
──同じように導かれた“他者”がいるということだ。
そして、それは単なる偶然の集まりではない。
──計画だ。舞台装置としての、この館。
それは誰かが描いた筋書きのもとに、私たちを並ばせようとしている。
その筋書きを読み解くこと。それが探偵の役割。
湊は灯りの先にある扉の取手へと手を伸ばした。
「いいですか?」
柏原が頷き、理沙が緊張で息を呑んだ。
──カチリ。
扉は、鍵がかかっていなかった。
ゆっくりと開いたその奥には、暗がりの中に形だけが残されたベッドと、粉々に砕けたガラスの破片が散らばっていた。
そして、その床にもまた
──赤黒い染み。
「ここでも、何かが……?」
理沙が声を出す直前、湊が右手を挙げて制した。
「理沙、足元
──血痕を踏むな」
「っ……ご、ごめんなさい……」
柏原が懐から小さな袋を取り出し、そこから使い捨ての手袋を三人に配った。
「素手で触るのは厳禁。……これはもう、“事件”と見て間違いないわ」
「つまり、犯人は
──もうこの館の中にいるということですね」
湊の声は、すでにその結論に至っていた。
そして、その“誰か”は、おそらくすでに
──三人をどこかから“見ている”。
それは、確信だった。