館の広間には、奇妙な沈黙が流れていた。
紹介がひと通り終わったあとも、誰ひとりとして自ら話題を投げようとはせず、それぞれが所在なさげに周囲を見回している。
この空間に集められた七人──誰もが、“ただの偶然”でここに来たとは思っていない。否応なく互いを探るような視線を交わしながら、椅子に深く腰かける者もいれば、壁にもたれて口をつぐむ者もいた。
「……で、何が目的なんだ?」
重く沈んだ空気を破ったのは、赤坂典孝の声だった。
彼は腕を組み、粗野な口調の中に苛立ちを滲ませながら言った。「こんな気色悪い館に招待して、何がしたいんだ、俺たちをこんなふうに集めてよ」
「確かに、あまりに情報が足りないですね」
羽鳥綾子が冷ややかに応じた。スーツの袖口を整えながら、彼女は部屋の奥を一瞥する。「差出人不明、目的不明。少なくとも善意の集まりではなさそうです」
「……つか、俺は帰らせてもらうから」
森崎悠斗がうんざりした様子で立ち上がった。パーカーのポケットに手を突っ込みながら、彼は踵を返すように玄関方向へ向かおうとする。
だが、その動きを柏原旦陽が一言で制した。
「無理よ」
森崎がぎょっとして振り返る。柏原は淡々と窓の方へ懐中電灯を向けた。外は激しい風雨。窓ガラスがびりびりと震え、時折突風が瓦礫を巻き上げる音が響く。
「山道も崩れてるし、気象状況的にも今夜ここを出るのは現実的じゃないわ」
その言葉に、森崎は小さく舌打ちをしてソファに戻った。
誰もが理解した。この館は、すでに“閉ざされて”いる。
「……じゃあ、これって、本当に閉じ込められたってことですか……?」
理沙の声は震えていた。だが、誰も否定はしなかった。
湊は立ち上がり、懐中電灯の光で広間のあちこちを照らした。壁には黒カビが広がり、床は埃と破片に覆われている。そして、床の中央──まるで意図的に目立つように、赤黒い染みが残っていた。
それは、前夜に見た“血の文様”の一部だった。
(まだ誰かが、この館の中にいる。いや、最初から──全員の行動を見ている“者”がいる)
湊の直感がそう告げていた。
そのときだった。
──ぎぃ……。
奥の廊下から、古びた床板の軋む音が聞こえた。
三ツ葉沙耶が思わず湊の袖をつかむ。理沙は悲鳴をこらえるように口元を押さえた。
柏原がすっと立ち上がり、音の方向へ身体を向ける。緊張が一気に高まる。
「誰か……いるの?」
沙耶のか細い声が震えていた。
柏原は懐から拳銃を取り出し、静かに構える。「気配がある。私たち以外に、誰かが……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、再び──くすくす……という笑い声が、階段の奥から響いた。
男か女かすら分からない、年齢も掴めない。けれど、はっきりと“誰かがこちらを見て笑った”と分かる声音だった。
全員の視線が一斉に階段へと向く。
「……この空間、舞台みたいですね」
神村詩音がぽつりとつぶやいた。
誰もがその言葉に反応した。彼女は、あくまで自然に、まるで感想を述べるように言ったが──それはあまりにも冷静すぎた。
「舞台……?」
理沙が戸惑ったように聞き返すと、神村は静かに微笑んだ。
「ほら、役者が揃って、照明が落ちて、物語が始まる……そういう雰囲気、ありませんか?」
誰もが息を呑んだ。確かに、そうだった。まるで誰かが演出し、配役を与えたかのように、人々はこの館に呼び寄せられ、今、目の前で“演目”が始まろうとしていた。
湊は立ち上がり、部屋の隅の埃を指先ですくってみる。そこには、複数の靴跡が混じっていた。乾いたもの、湿ったもの、足の大きさも様々だった。
(俺たちのものじゃない)
「誰かが、ずっと先に来ていた。そして今も、どこかで俺たちを見ている」
再び、館のどこかで物音がした。
──カタン。
金属が落ちるような、あるいは扉の鍵が外れたような音。
「確認する」
湊はそう言い残し、柏原と共に奥へ進んでいく。
他の者たちは広間に残され、不安と緊張の中でそれぞれが視線を交わす。
理沙の心臓は早鐘のように鳴っていた。言葉は出なかったが、疑念だけは確実に膨らんでいく。
(この中に……犯人がいるかもしれない)
誰もが疑わしく見えた。
その視線の中で、神村詩音だけがまるで“自分が観客である”かのような静けさで、全体を見渡していた。
湊は、奥の廊下で扉の一つをゆっくり開けた。中には誰もいなかった。だが、わずかに窓が開いており、冷たい空気が流れ込んでいる。
──これは、演出だ。
誰かが、意図的に“異常”を見せつけている。
「これは、事件だ」
湊は確信を持ってそう口にした。
「そして俺たちは、既にその“舞台の上”に立たされている」
その言葉は、誰に向けられたものでもなく、ただ館の空気そのものに向けて発せられたようだった。
舞台の幕は、既に上がっている。
次に動くのは、誰なのか。
そして、その最初の犠牲者は──
もう、決まっているのかもしれなかった。
──湊の視線は、広間の中を丁寧にスキャンするように巡っていた。
些細な仕草、目線の揺らぎ、指先の癖──そのひとつひとつが、今後の判断材料になる。湊にとって、殺意の有無よりも、“ここに集められた理由”の方が重要だった。
なぜこの七人なのか。なぜ今、このタイミングなのか。そして、どこから“演出”が始まっていたのか。
「一条さん……」
理沙の声が耳に届いた。
「……どうして、こんなことが……」
震える声だった。だが、湊は返さなかった。今は、答えを与えるときではない。
柏原もまた、同じように考えているようだった。彼女は拳銃を構えたまま、気配を読むように廊下を見つめている。
(誰かが、試している……俺たちが、どう動くかを)
館の奥から、またしても音が響いた。今度は、微かな“ささやき声”のように思えた。
「くすっ……」
女の声。だが、現実味がない。まるで録音された音声のように、感情のない音。
(これは“仕掛け”だ。まるで舞台の演出効果のように──)
神村詩音が、ふと沙耶の肩に手を置いた。
「大丈夫。私は、あなたの味方よ」
優しい笑みだった。だがその目は、どこか遠くを見ていた。まるで、沙耶を“守る演技”をしているような。
──違和感。
湊は、それを“役割の演技”と感じていた。
神村は看護師として完璧すぎる。理想的な優しさ、冷静さ、共感の示し方。そのすべてが“教科書通り”であり、“人間らしさ”の不安定さが見えない。
(演技だ。完璧すぎる)
「ねぇ……」
沙耶が、ぽつりとつぶやいた。
「この人……どこかで会った気がするの……」
湊の心に、強い警鐘が鳴った。
沙耶の無邪気な記憶──それはときに、探偵よりも鋭く核心に近づく。
「どこで?」
「覚えてない。でも……前に、白い病院で……」
神村の表情が、その瞬間だけ硬直した。
だが次の瞬間には、微笑みを張りなおしていた。
湊は確信した。
──この館に集められたのは偶然ではない。
“誰かの物語”の続きを演じさせるために、この場所と人間が選ばれたのだ。
探偵としての直感が、そう囁いていた。
その時、湊の脳裏に、かつての“神隠し事件”の記憶が蘇っていた。
あれも、何の前触れもなく、複数人が忽然と姿を消した事件だった。共通していたのは、現場に残された“足跡”と、謎の言葉が書かれた紙片。
その時も、湊はこうして見えない誰かに“演じさせられている”感覚を覚えた。
今回の白鷺館も、同じだ。
何者かが、明確な意図をもって“人間の行動”を制御しようとしている。
だが、あの時とは決定的に違う点がある。
──今度は、“観客席”に戻るつもりはない。
沙耶を守る。
理沙を巻き込ませない。
そして、自分がこの幕を下ろす。
湊の心に、静かだが確かな決意が灯った。