──濃霧の夜が、館をひときわ深く包み込んでいた。
廊下を進む湊たちの足音が、軋んだ床板にかすかに吸い込まれていく。
天井には剥がれた配線、壁には黒ずんだ染みと苔。ここがかつて迎賓館と呼ばれていたなど、想像もつかない。
先頭を行く柏原が、ふいに足を止めた。
「……匂うわね」
「血……ですかね」
理沙が小さく鼻を覆い、顔をしかめる。
湊は黙って頷き、懐中電灯の光を、廊下の突き当たりへと向けた。
床に染みついたような赤黒い跡が、扉の奥へと続いていた。
(始まった……)
館に足を踏み入れたときから、その予感はあった。けれど、いざそれが現実となると、空気すら変質して感じられる。
湊は扉に手をかけた。
「行こう。もう後戻りはできない」
ギィィ……と重たく軋む音とともに、扉が開いた。
その先にあったのは──天井から逆さ吊りにされた死体。
「う……っ!」
理沙が呻き声を漏らし、目を背けた。
倒れた椅子、散乱する書類、そして床に滴った血がつくり出す赤黒い文様。それは、まるで“見せつけるため”に配置された舞台のようだった。
「……藤堂、隼人」
柏原が低く名を口にする。
招待状に記載されていた人物。到着後、姿を見せなかった男。今、その死体が、舞台の幕開けを告げる役として“配置”されていた。
「手足を縛られ、口を塞がれ、逆さ吊り……これは、明確な殺意による殺害だ」
柏原が淡々と検分を始める。小型ライトで傷口や血痕を照らしながら、即座に状況を分析していく。
「争った形跡なし。即死に近いわ。吊された時点で、すでに……」
「殺されていた、ってことか」
湊が小さく息を吐き、視線を巡らせた。
その時、足下に1枚のカードが落ちていることに気がついた。
「これは・・・・・・」
「どうしたの、湊」
柏原が湊の様子に気がつき近づいた。
湊は、振り返らずに柏原に、拾ったカードを見せた。
そのカードは──
「──
「逆さづりだから、吊るされた男、か。悪趣味だな」
「タロットカード大アルカナの12。これは見立て殺人・・・・・・?」
「可能性は大きいだろう」
湊と柏原が死体の前でそんな話をしていたが、扉の外には、森崎が呆然と立ち尽くしていた。言葉を失ったまま、壁にもたれ、震える手で額を押さえている。
理沙は、崩れ落ちそうになる足元を湊に支えられ、ようやく意識をつなぎとめていた。
(この空間には……“意図”がある)
湊の脳裏に、神村詩音──いや、演出家・神楽鏡夜の姿がよぎる。
舞台の幕が上がった今、彼がどこかでこの惨劇を“演出”として眺めている、そんな気配があった。
柏原が立ち上がり、短く告げる。
「広間に戻って報告しましょう。全員にこの事実を知らせる必要があるわ」
「俺はここに残る。検証を続けたい」
湊の提案に、柏原が短く頷く。
「理沙と森崎は連れていく。あなたひとりで大丈夫?」
「問題ない」
柏原が理沙の肩を支え、森崎の腕を引きながら、慎重にその場を後にする。
湊は、再び死体に視線を戻した。
(この殺人は、演出だ)
照明の位置、死体の配置、血痕の広がり──すべてが「見せるため」に計算されている。
「……ここは、舞台の上だ」
呟いたその瞬間、背後の廊下から──
くす、くすくす……と笑うような声が聞こえた。
振り返る。
懐中電灯の光が、空間を切り裂くように走る。
だが、そこには誰もいない。
ただ、朽ちた壁と闇。
──それだけだった。
湊は、ゆっくりと懐中電灯を下ろした。
(“演出家”が見ている)
そう確信した。
その頃、広間では──
柏原が淡々と報告を終えたばかりだった。
羽鳥が静かに目を閉じ、神村が口元に手を当てて沈黙する。
「……これって、殺人、ですよね」
理沙の言葉に、誰も返せなかった。
赤坂が唸るように言う。
「チッ、こんな悪趣味な場所に呼びやがって……何が目的だよ、クソッたれが」
「目的、ね……」
神村が、ぽつりと呟いた。
「まるで、誰かが“劇”でもやってるようだと思いませんか?」
理沙が思わず聞き返す。
「劇……?」
「ええ。“配役”があって、舞台装置があって。今、私たちはその中で演じさせられてる」
その言葉に、空気がわずかにざわめいた。
羽鳥が神村の方をじっと見つめる。
「あなた、妙に冷静ね」
「看護師ですから。人が亡くなる現場に慣れているだけです」
「……あまり慣れない方がいい仕事よ」
羽鳥の言葉に、誰かが小さく息を呑んだ。
(それでも、この空間においては──)
“冷静さ”の方が、むしろ異常だった。
そのとき、再び館のどこかで音がした。
──カタン。
金属が落ちるような音。
全員が一斉に振り返る。
「確認しましょう」
柏原が短く言い、すぐに拳銃を懐に手を伸ばす。
「全員、行動は複数で。もう単独行動はさせない」
羽鳥と赤坂、神村と理沙がペアとなり、それぞれ逆方向の通路へ。
「沙耶、あなたはここに残って」
柏原の声に、沙耶が小さく頷いた。
その横顔には、まだ消えぬ不安と、しかし確かな決意が宿っていた。
(彼女は……鍵になる)
湊の言葉を思い出しながら、柏原は静かに廊下の先を見据える。
舞台は、すでに動き出している。
殺人劇の始まり。
次に“演じる”のは、誰なのか──
そして、“観客”を気取る者は、どこに潜んでいるのか。
静寂の中、闇は音もなく蠢いていた。
* * *
湊は、静かに階段の踊り場に立っていた。
先ほどの死体の光景が、脳裏に焼きついて離れない。
(何が“始まった”のか……いや、誰が“始めさせた”のか)
招待状の存在、館の構造、そしてあの血の文様。
すべてが、偶然ではあり得ない。あまりに“整いすぎている”。
湊はポケットから、例の招待状を取り出した。
角が朱に染まった封筒。その内側の紙には、ただ一行──
《白鷺館へお越しください。あなたは選ばれました。》
「選ばれた?」
その言葉の意味を、湊は改めて咀嚼する。
(我々は“呼ばれた”のではない。“配された”のだ)
そのとき、階下から誰かの声が上がった。
「誰か、廊下の窓が開いてる!」
赤坂の声だった。
湊は即座に踊り場を駆け下りる。
廊下の突き当たり、埃まみれの窓が、かすかに軋みを上げて揺れている。
「風か? いや……違う」
窓枠の下には、靴跡があった。
比較的新しい──少なくとも、彼らが入ってきた正面玄関からのものではない。
(つまり、別の“入り口”がある)
その事実に、湊の思考が鋭く跳ねた。
(逃げ道を塞ぎ、導線を限定し、そのうえで“発見”させるように殺人を配置する。
まるで、“閉じた劇場”だ)
背後に気配。
振り返ると、沙耶が不安げに立っていた。
「湊さん……ここ、何かいます。見えないけど、ずっと見られてる感じがして」
「……ああ。俺もそう感じていた」
沙耶はしがみつくように手を握った。
その手の冷たさに、湊ははっきりと“恐怖”を認識した。
彼女だけではない。理沙も、柏原も、森崎も。
すべての者が、すでに“この劇”の中に引きずり込まれている。
「必ず、守る。誰も、死なせない」
その言葉は、沙耶に向けられたものだったが、
同時に、自分自身への宣誓でもあった。
* * *
広間に戻る途中、湊は足を止めた。
扉の外、壊れかけた花瓶のそばに落ちていたのは、小さな破片だった。
陶器のかけら──そこに、赤黒い液体が付着している。
「……血?」
膝をつき、懐から取り出したハンカチで慎重に包む。
見覚えのない文様が断片的に残されていたが、全体像は不明だった。
(もしかすると、最初の殺人とは別の“兆し”かもしれない)
湊は静かに立ち上がり、再び広間へと歩を進める。
途中、ふと窓の外を見ると、濃霧の中で何かが動いた気がした。
人影のようで、人ではない。あるいは、ただの錯覚。
だが、湊の中で警鐘が鳴る。
(“見られている”だけではない。“誘導”されている)
その思いが確信に変わりつつある中、湊は神村詩音──いや、神楽鏡夜の存在を脳裏に浮かべた。
完璧すぎる応対、微笑みの角度、共感の言葉選び。
まるで、“感情”そのものを後付けで演出しているような……そんな印象があった。
(人は、恐怖に直面したときこそ、本性が出る)
けれど彼女は、ただの一度も“崩れ”を見せていない。
どれだけ血が流れようと、どれだけ誰かが取り乱そうと──その表情だけは、舞台の幕裏にいる“演出家”のごとく、静かに微笑んでいた。
そのことが、湊には何よりも“恐ろしい”と感じられていた。
(看護師だとは言っていたが……。もし、あの微笑が仮面なら……いつか、その仮面の下が剥き出しになる瞬間が、来るはずだ)
湊は、胸の内に冷たい決意を宿した。
たとえそれが誰であれ、この舞台を支配する者を──必ず暴き、幕を下ろすと。