「あ、あのっ!」
沙耶が、いまの空気がいたたまれなくなったのか、話しかけてきた。
「どうした?」
「い、いえ。皆さん、気を張り詰めすぎているようなので、少し休憩したらどうかな、と思いまして」
沙耶にそう言われて、皆がハッとしたように空気が柔らんだ。
確かに、気を張り詰めすぎていたようだ。
地下からの帰還、他の探索箇所の確認。緊張する場面が続いていたことは確かだった。
「そうだな。少し休憩するか」
「あ、それなら、私お湯を沸かしてきます。さっき赤坂さんとキッチンに行ったとき、まだ火が点くことがわかったので」
湊が言うと、理沙がそれに呼応するように言った。
「ああ、頼む」
湊が言うが早いか、理沙は赤坂と一緒に再びキッチンへと向かっていった。
それからしばらく経ち、広間は沈黙に包まれていた。あれからどれほどの時間が過ぎただろうか。
誰もが考え込むように言葉を飲み込み、外の嵐の音だけが場を満たしていた。
やがて、それぞれがゆっくりと動き出す。
羽鳥はケガをした方の足をソファで投げ出し、程度を確認していた。柏原はノートPCの画面に何かを打ち込み始める。
理沙と赤坂は、台所の方から湯を沸かしたポットを手に、並んで戻ってきた。
沙耶だけが、背筋を伸ばしたまま、ぬいぐるみを抱いて壁際に座っている。
その傍ら──まるで誰にも気づかれていないかのように、神村詩音は静かに椅子に腰掛けていた。
両手を膝に揃え、背筋をまっすぐに伸ばした姿は、端正そのものだった。
湊は広間の入り口で立ち止まり、しばし彼女を見つめる。
神村の目線はどこか遠く、窓の向こうの闇を見つめているようだった。
完璧な姿勢。整った呼吸。過不足のない視線。
すべてが“整いすぎている”。
その佇まいは、自然体ではなかった。
むしろ台本に従って動く“舞台女優”のようで、息遣いすら演出の一部に思えた。
風の音が、壁を叩くように響いた。
その一拍ごとに、詩音のシルエットが揺れる。
だが彼女は、まるで“照明に照らされている側”の存在のように、どこまでも静かだった。
湊は音を立てずに歩み寄り、そっと声をかける。
「一条さん。どうかされましたか?」
「様子を見ているだけだ」
神村は穏やかな表情を崩さぬまま、小さく頷いた。
湊は隣に腰を下ろす。
「この状況に、君はどう感じている?」
「……そうですね」
神村は少しだけ間を置いてから答える。
「まるで──舞台のようです」
湊は眉を動かさず、視線だけをわずかに細めた。
舞台──。
その言葉の重みが、湊の中で反響する。
「舞台、か。君にとって、俺たちは“演者”だというわけか?」
「ええ。……きっと皆さんは、与えられた役割の中で精一杯に生きていらっしゃるのでしょうね」
微笑を浮かべたまま、神村詩音は言葉を続ける。
「“演者”は舞台の上に存在し、“観客”はその外側にいる……その違いです」
それは、自分自身は演じていない──という意味にも受け取れる言い方だった。
だが、湊の目には、彼女自身こそが“最も精密に演じている存在”に映っていた。
「それなら君はなんだ? 君は観客を気取っているが……その振る舞い自体、すでに“舞台の一部”だよ」
詩音は目を細めて笑った。
「……そうかもしれませんね」
外の風が一際大きく吹き荒れ、窓ガラスがびしりと鳴った。
一瞬、詩音がその音に反応してわずかに肩を揺らしたのを、湊は見逃さなかった。
「怖くはないのか?」
問いに対し、彼女はふっと目を伏せた。
「怖い、というより……不思議と、胸騒ぎがするんです」
「胸騒ぎ?」
詩音はわずかに首を傾ける。
「何かが……舞台の“演出”を越えようとしている。そんな気がしてならないんです」
その目には、どこか本気の色が混じっていた。
その言葉は、単なる比喩にとどまらず、湊の中に奇妙なざわめきを残した。
そのとき、不意に。
「……“越えようとしている”って、どういうことですか?」
澄んだ声が、背後から投げかけられた。
湊と詩音が顔を上げる。
振り返ると、沙耶が、ぬいぐるみを抱いたまま二人のすぐそばに立っていた。
いつの間に近づいてきたのか、その足音に誰も気づいていなかった。
詩音は驚いたように目を瞬き、それから柔らかく微笑んだ。
「ごめんなさい、沙耶ちゃん。ちょっと難しい話をしていただけなの」
沙耶はうつむいたまま、詩音の顔をじっと見つめている。
「さっきから……何をお話ししているんですか?」
その声音には、いつもの無垢な響きではなく、わずかな緊張が混ざっていた。
「大丈夫よ」
詩音は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「“舞台”の話をしていただけ。これは物語──みんなで力を合わせて、最後までやり遂げる演目のようなもの」
「では……悪い役の方もいるんですか?」
沙耶の問いに、広間の空気がわずかに凍りついた。
誰もがその言葉の裏に、直感的な不安を感じ取ったのだ。
詩音はふっと瞼を閉じた。
「……そうね。でも、“悪役”にも役割があるわ。それが舞台というものだから」
「では……“悪役”は、どんな人なんですか?」
沙耶の目が、湊と詩音を交互に見つめる。
その眼差しは澄んでいて、しかしどこか、何かを見抜こうとするような力があった。
湊は息を飲み、言葉を飲み込んだ。
それきり、誰も言葉を継がなかった。
まるで、沙耶の問いかけが“何か”を呼び寄せてしまうことを、誰もが本能で恐れているかのようだった。
広間には再び静寂が戻り、雨音と風の唸りだけが外から届いてくる。
その音が、さっきよりもずっと強く、そして……不自然に聞こえた。
湊は耳を澄ませた。
風の音に混じって──何かが、どこかで、軋んでいる。
梁か、柱か。それとも扉の金具か。
だが、さっきまではこんな音はしていなかったはずだ。
「……この音、さっきまでしてたか?」
湊の呟きに、理沙が眉をひそめて答える。
「してなかったと思う。少なくとも私は、気づかなかった」
羽鳥が警戒するようにあたりを見回す。
「二階の廊下か? それとも、……外か?」
皆の視線が、広間の扉と、階段の方へと注がれる。
風の音とは明らかに異なる、“建物の中”から響く不快な軋み──。
それが、誰かの足音のようにも、あるいは呻き声のようにも聞こえた。
そのとき、不意に。
照明が一瞬、ふっと揺れた。
誰かが息を呑む音が聞こえ、沙耶がぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
嵐は、さらに激しさを増していく。
だが、この館の中で起きている“何か”は、それとは別の、確かな意志を持って迫っていた。
湊が立ち上がり、柏原と赤坂に目配せをする。
「二階だ。様子を見に行くぞ」
二人が頷き、それぞれ懐中電灯と簡易ナイフを手に取る。
理沙が心配そうに湊を見るが、彼は小さく微笑んで言った。
「広間は頼む。羽鳥さんと沙耶ちゃんをお願い」
「わ、分かりました。気をつけてください」
理沙が答える。
羽鳥はソファに身を預けたまま、黙って頷いた。
湊たちは静かに広間を後にし、階段を上がっていく。
踏みしめるたびに、古びた木の軋む音が響く。
二階の廊下は、わずかに湿気を含んだ空気が漂っていた。
足元の板が鳴るたびに、背後に何かの気配を感じるような、妙な圧迫感がある。
柏原が先頭で廊下を進み、赤坂が背後を警戒しながらついてくる。
と、その時。
柏原が突然立ち止まった。
「……これ、見て」
壁の一部に、濡れたような痕跡が点々と続いている。
赤坂が懐中電灯を向けた先には、暗褐色に変色したような染みが不規則に付着していた。
湊が近づいてしゃがみ込み、指先でそっと触れる。
「……血じゃないな。ぬめりがある。油? いや、何かの……体液か?」
柏原が周囲を警戒するように目を細めた。
「こんなもの、誰が……」
三人は無言のまま、廊下の奥に視線を向ける。
その先には、いくつかの扉と、薄暗い突き当たりが待っていた。
静寂が、逆に耳を打つ。
──何者かが、そこに“いた”のかもしれない。
しかし、今はただ、異様な痕跡だけが残されていた。
広間に戻った湊たちを、理沙が無言で迎えた。
沙耶は変わらずぬいぐるみを抱いたまま座っており、羽鳥は足を投げ出してソファにもたれていた。
神村詩音は、相変わらず沈黙の中で微笑みを浮かべている。
湊は一つ息を吐いて、言う。
「異常はなかった。だが……おかしな痕跡が残っていた」
柏原も頷きながら補足する。
「血ではなかったけど、粘り気のある液体が壁に付着していたわ。あれは自然にできるものじゃない」
赤坂は言葉少なに、「気味が悪かった」とだけ口にした。
理沙が眉をひそめる。
「誰かの“演出”だとしたら……何のために?」
「恐怖を煽るためだろう」
湊は即答したが、その声には明らかな疲労が滲んでいた。
「俺たちが怯えれば怯えるほど、“それ”の思う壺なんだろう」
広間の空気が、じわじわと重くなる。
灯りの下にいながらも、誰もがまるで暗がりにいるような錯覚を覚えた。
詩音がぽつりと呟く。
「“演者”が本当に怖がったとき……“舞台”は動き出すんですよ」
誰も、その言葉に返すことができなかった。
外の嵐は、なおも収まる気配を見せない。
──まるで、この館が、“次の幕”の準備をしているかのように。