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第15話「忍び寄る気配」

 外の雨音が、屋根を激しく叩いていた。風も勢いを増しているのか、時折、古びた窓枠ががたんと揺れる。


 湊と柏原は、静かにキッチンを通り抜け、奥の通用口へと向かっていた。理沙が感じた“風の気配”──その発生源を確かめるためだ。


 その途中、湊はふと立ち止まり、棚の上に視線を走らせた。



「……これ、見覚えあるか?」



 指さしたのは、棚の端に置かれた一本のペットボトルだった。市販されているミネラルウォーターのボトルで、ラベルもまだ新しい。中身も満タンだ。どこにも埃が積もっておらず、まるで昨日買ってきたかのような清潔さだった。



「おかしいわね。これ、理沙たちが持ってきたわけじゃないはず」


「だろうな。そもそも、誰が持ち込んだかというより──なぜここにあるのか、だ」



 湊はボトルを手に取り、わずかに傾けて中身を見た。水は澄んでいた。だが、それが余計に“この空間には不釣り合いなもの”に見えた。


 さらに奥、ガスコンロのあたりを柏原が見やる。



「それに、これもよ」



 コンロのバーナーの一つに、微かな煤と温もりの痕跡が残っている。



「最近、誰かが使った……」


「それ自体は問題ない。理沙や赤坂が、軽く暖を取っていた場面もあったからな」


「でも、そもそも──」


「……ガスは、とっくに止まってるはずなんだ」



 湊の声が、静かに沈む。



「水道もガスも電気も──十年以上前に廃止されている。白鷺館は、誰も住んでいない“廃墟”のはずだった」



 柏原が思わず辺りを見回す。


 天井の照明が、変わらぬ灯をともしていた。



「……電気も、通ってるのよね。今まで気にしてなかったけど、これは……」


「俺たちは、“当たり前”を疑わなかった。だが今のこれは、完全に異常だ」



 湊は再び歩き出すと、通用口の前で立ち止まった。


 重厚な鉄扉はしっかり閉じられているが、湊は取っ手に手をかけ、慎重に鍵の部分を観察する。



「内側の鍵……一度開けられた形跡があるな。擦れが新しい」


「埃の乱れも新しいわ。……誰かが最近、確実に触ってる」



 柏原が低く呟き、扉の下を指差した。



「足跡。……見て」



 懐中電灯の光の中、土間の表面に濡れた靴跡がいくつも刻まれていた。サイズも向きもまちまちで、いずれも乾ききっていない。



「外へ出た、もしくは中に入った誰かがいる。……しかも、“濡れたまま”だ」



 湊はしばらく黙り、やがて息を吐く。



「これは、犯人のものか。それとも……別の“何者か”か」


「つまり、“まだ見ぬ第三者”の存在の可能性もある、ってことね」


「可能性としては、十分にある。もっとも、外に出た可能性も、同じようにあるがな」



 湊は、土間についた跡を見ながら目を細めた。


 その瞬間、外で木の枝が壁に打ちつけられる音が響いた。風がさらに強くなっている。


 二人は目だけで意思を交わし、無言のまま次の調査地点へと向かっていった。


 湊と柏原は、キッチンを抜けた先にある風呂場へと足を踏み入れた。


 まず目に飛び込んできたのは、開きかけた窓から吹き込む雨粒だった。冷たい風が細かい水滴を浴室内に撒き散らし、タイルの床には淡く濡れた箇所がいくつも浮かんでいる。



「……開いてるわね、窓。これじゃあ、雨が入り放題じゃない」



 柏原が呟きながら、濡れた床を慎重に歩く。


 湯は張られていなかった。だが、それよりも異様だったのは、洗い場の棚に整然と並べられた三本のボトルだった。



「……これ……おかしいぞ」



 湊が声を潜め、手袋越しに一本のボトルを手に取る。


 シャンプー、コンディショナー、リンス。どれもが、ここ数年で新発売されたばかりの製品であり、この館が“廃墟”と化した時期とは明らかに一致しない。ラベルは剥がれておらず、ボトル表面も清潔そのものだった。



「……中身、半分ほど減ってるな。軽い」


「誰かが使ってるってことね」


「ああ。キッチンでもそうだったが、ガス、水道、電気……いずれも生きてる。そして今度は、これだ」



 湊はボトルを棚に戻し、低く呟く。



「……つまり、“最近までここに住んでいた誰か”がいた可能性がある」



 柏原が眉をひそめ、再度風呂場全体を見渡す。


 外から吹き込む風が、濡れたカーテンをわずかに揺らした。


 湊は、もう一度シャンプーのラベルを見下ろし、目を細める。


(──だが、一体“誰が”住んでいた? このシャンプーは男物。だが、隣のリンスとコンディショナーは明らかに女性向け。香りも、質感も違う。一人の人間が使うにしては、あまりにチグハグで統一感がなさすぎる……)


 まるで、複数人の生活の痕跡。あるいは、男女どちらかに“擬態”しようとしたかのような不自然な選択。


 湊の背筋を、冷たいものが這い上がった。



「──“廃墟のはずの館”で、誰かが今も生活している」



 その言葉の重みに、ふたりの間に沈黙が落ちる。


 雨の音だけが、一定のリズムで風呂場を満たしていた。


 風呂場を出ようとしたそのとき、湊はふと視線を横に滑らせた。


 洗面台の鏡。湿気にぼやけた反射の中、そこにある“違和感”が湊の足を止めた。


 鏡は曇っていないはずだった。だが、表面にはうっすらと指の跡が残っていた。数字のようにも、記号のようにも見える──かすれた円形のなぞり痕。曖昧で意味の取りにくいそれは、まるで“何かを伝えかけて、途中でやめた”ような形をしている。


 湊は無言でスマートフォンを取り出し、慎重に撮影する。


 そのまま、洗面台の上に並んだ生活用品へと視線を移した。


 白いプラスチック製のコップ。そこには、赤と青、二色の歯ブラシが並んで立てかけられている。



「……二本?」



 柏原も気づいたように眉をひそめた。



「さっきのシャンプーの件といい……やっぱり、ここには“複数人”の痕跡があるわね」


「それが、過去の名残なのか。それとも──“今”のものなのか、だ」



 湊は棚の隅へと手を伸ばし、何かをそっと取り出す。


 銀色の本体が、湿気を含んだ光を鈍く反射する。



「それに、これを見ろ」



 湊は、タオルの影に隠すように置かれていたカミソリを差し出した。



「これは……ひげ剃り?」


「ああ。しかも、刃に残っている石鹸カスがまだ乾ききっていない。──最近、誰かが使った形跡がある」



 湊の声が低く沈む。


 雨音が強まる中、窓の隙間から再び冷たい風が吹き込んだ。


 誰もいないはずの館。その一角に残された、確かな生活の名残。


 湊は洗面台の前で一度だけ振り返り、目に焼きつけるように全体を見渡した。



「……ここには“今も”誰かがいる。少なくとも、ほんの数日前までは確実にいた」



 その言葉が落ちた瞬間、空間に静かすぎる沈黙が満ちた。




 *   *   *




 広間に戻ると、空気が微妙に変わっていた。


 理沙と沙耶が、不安げな表情で立っていた。赤坂は椅子から立ち上がり、湊たちの様子をうかがう。



「……お帰り。何か、あったか?」


「異常が、いくつかあった。後で共有する」



 湊が短く答えると、理沙が一歩前に出る。



「湊さん……さっき、部屋の中が急に“冷えた”んです。まるで、空気の一部が凍ったみたいな感覚で……」



 沙耶も小さく頷いた。



「私も。……息が白くなった気がして」



 詩音は黙ったままソファに座っていたが、視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。



「……見られてる気がする」



 静寂が落ちる。


 柏原が眉をひそめ、周囲に警戒の視線を走らせた。



「……物理的な侵入者だけとは限らない。そういう“気配”ってやつも、あるかもしれないわね」



 だが、湊は詩音の声色と表情に、ごくわずかな“芝居がかった演技”を感じ取っていた。


 湊は、椅子に腰を下ろすと手帳を取り出し、静かにページを繰り始めた。


「……情報を整理しよう」


 誰にでもなくそう呟いてから、湊はこれまでの被害者の状況を順に振り返っていく。


「藤堂隼人──首を吊られた状態で発見。遺体の傍には、“The Hanged Man(吊るされた男)”のカードがあった」


 ページをめくる音が、広間の静寂にやけに大きく響いた。


「森崎悠斗──館内で逆さ吊りにされた遺体。“The Fool(愚者)”のカードが添えられていた。自由、愚かさ、あるいは“踏み出す者”の象徴だ」


 柏原が隣で静かに目を細める。


「そして、羽鳥綾子。磔にされた状態で発見。傍らには、“The Hermit(隠者)”のカード」


「ああ。孤独な探求者、真実を求めて闇に踏み込む者……。羽鳥さんは、誰よりも冷静に真実に迫っていた。犯人にとって、それが──“罰すべき行為”だったのかもしれない」


「三人とも、タロットの“大アルカナ”に沿って演出されている。つまり、これは明確な意思に基づいた“連続見立て殺人”だ」


 湊は頷きながら、手帳からタロットカードの一覧を記したメモを広げた。


「“吊るされた男”、“愚者”、“隠者”──順番こそばらばらだが、選ばれたカードには意味がある。模倣ではない。“意図”がある」


 そのとき、理沙が戸惑ったような面持ちで手を挙げた。


「あ、あの……湊さん」


「どうした?」


「その……藤堂さんって、首を吊って亡くなってましたよね?」


「ええ、そうね。でも、それがどうかしたの?」


 柏原が軽く首をかしげる。理沙は一瞬言いよどんでから、続けた。


「い、いえ。ただ……“吊るされた男”って、本来は“逆さ吊り”のカードなんです。片足を上に、もう片足を折り、頭を下にしてる……。普通の首吊りとは、少し違うんじゃないかと」


 湊は手帳から顔を上げた。その場の空気がわずかに揺れる。


「……確かに、そうだ……」


 口元に手を添え、沈思するように呟く。


「俺たちは、これまで“見立て殺人”だという前提で推理を組み立ててきた。だが……まさか、その前提が──間違っていたのか……?」


「いいえ。恐らく間違ってないわ」


 静かに、だが力強く、柏原が応じる。


「ど、どういうことだよ?」


 黙って聞いていた赤坂が口を挟む。


 柏原は湊に向き直り、小さく頷いた。


「──“逆位置”と考えたら?」


「逆位置?」


「ええ。タロットには“正位置”と“逆位置”がある。意味が反転するの。たとえば“吊るされた男”なら、正位置では“自己犠牲、洞察、精神的な成長”だけど、逆位置では“混乱、罠、身動きが取れない状況”といった否定的な意味に変わる」


 湊の目がわずかに見開かれる。


「森崎と羽鳥の現場にあったカードは、すべて正位置だった。だが──藤堂の場合、カードは“逆さま”の状態で置かれていた。あの時は気に留めなかったが……」


「つまり、藤堂さんだけ“逆位置のカード”で意味づけされていた可能性がある……?」


「ああ。『吊るされた男』でありながら、“逆さ吊りにしない”という演出。それ自体が、“逆位置”の象徴だった……」


 広間の空気が、さらに静まり返った。


 犯人は、タロットの構造すらも巧妙に読み解き、“正逆”の意味を使い分けている──そう理解した瞬間、誰の顔にも、ほんのわずかな戦慄が浮かんでいた。


 沈黙が落ちた広間に、ゆっくりと割り込むように、詩音の声が響いた。



「では、その藤堂さんの遺体は──“罠”ということでしょうか?」



 その一言に、場の空気が一瞬で凍りついた。


 理沙が不安げに視線を泳がせ、沙耶は小さく身をすくめる。赤坂が椅子の肘掛けに手を添え、わずかに身を乗り出した。柏原はじっと詩音の顔を見つめ、何かを計るように沈黙を保っている。


 湊は手帳の角を指先でなぞりながら、しばし思考の沈黙を守った。



「……その可能性はある」



静かに、しかし確信めいた口調でそう答える。



「“混乱”“罠”“拘束”──逆位置の『吊るされた男』が意味するのは、そういった状態だ。それに見合うように遺体を演出し、傍らには逆さまのカード。……すべては“見せるため”の仕掛けだったのかもしれない」


「誘導……?」



 理沙が小さく呟いた。



「ああ。“これは見立て殺人だ”と、俺たちに思い込ませるように仕組まれた罠。つまり、最初の殺人そのものが、“見せ物”として構成されていた可能性がある」


「つまり、藤堂の死自体が“観客に向けたメッセージ”ってわけか」



 赤坂が低く呟くが、すぐに眉をひそめた。



「でもよ、仮に罠だったとしたら、その後の森崎と羽鳥の死体んところに、正位置っつったっけか? そのカードが置かれてたのはおかしくねーか? お前の言うように、最初の死が“誘導”のためだったなら、もう見立てる必要はねーだろ。十分誘導されてんだしよ」



湊はその言葉に頷いた。



「……確かに、筋は通っている。だが逆に考えれば、こうも言える」



 彼はゆっくりと視線を上げ、広間を見渡した。



「最初の殺人が“導入”だったとしたら? 見立て殺人という“物語”を始めるための──いわば、“開幕の一幕”だったとしたら」


「物語……?」


「そう。“芝居”だ。演出された死、演出されたタロット、演出された空間……すべてをひとつの“物語”として構成するために、藤堂の死は第一の演目だった。そこから先は、演出の深化と拡張。カードはその章を彩る“題名”のようなものだ」



 柏原が腕を組み、静かに呟いた。



「……つまり、“誘導”じゃなくて、“構成”。一つの殺人を“起承転結”の“起”にしたってこと」


「おそらく、犯人は“観客”がここにいる前提で動いている。俺たちが推理し、迷い、真相に迫ろうとする──その過程すら、彼にとっては“演出”の一部なんだ」



 詩音が目を伏せたまま、静かに息を吐いた。



「……観客の反応まで、計算済みってわけですね」



 その言葉を引き取るように、赤坂が低く唸った。



「てことはだ、今までに三人殺されてる。これが“起承転結”の物語ってんなら──あと一人、殺されるってことか?」


「その可能性は、あり得る」



 湊がそう答えたと同時に──


 ぎいっ、と、どこか遠くで木材が軋む音がした。


 理沙と沙耶が、びくりと肩を震わせ、恐怖に顔を寄せ合う。


 だが湊は、あくまでも静かに、言葉を続けた。



「だが……“結”が一人の死で済むとは限らない。もっと悲惨な結末も、十分にあり得る」


「十分、悲惨な結末……。爆発……」



 柏原がぽつりと呟いた。


 湊は、その横顔を見ながら、深く、静かに頷いた。



「ば、爆発ってよ。今までにそんな危険なモン見つかってねーだろ?」



 赤坂が訝しげに声を上げる。


 だが、湊の表情は変わらない。低い声で返す。



「いや。十分に危険なものはあった」


「……なんだよ、それ」


「覚えてないか? お前と理沙が二人でキッチンに行ったときだ」



赤坂が目を見開く。



「ま、まさか……ガス、ですか?」



理沙も、小さく息を呑んだ。



「その通りだ。廃墟のはずのこの館で、ガスが生きている。あのコンロが使えるということは、少なくとも供給系統が維持されている。……明らかに異常だ」


「つまり、“使えるように整えられていた”ってことね」



 柏原が呟く。



「水も電気もガスも揃ってる。……あまりに都合が良すぎる。最初から、誰かがここで“何かを起こす”ために整備したと考えた方が自然だ」


「なんなのよ、それ……」


 と理沙が小さく震える。


「爆発、ってことは……ガスが館内に充満してたら……」


「可能性は否定できない。俺たちはすでに、“舞台”の中にいる」



 湊が、言い切るようにそう告げた、そのときだった。


 ──ピンポーン。


 場違いなほどに軽い電子音が、静寂の中に響き渡る。


 広間に、緊張が再び、鋭く張り詰めていく。



「な、なんだ!?」


「落ち着け、赤坂。……インターホンだ」


「そ、そうか……って、落ち着けるか!? 何でこんな時間に人が来るんだよ!」



 赤坂が、時計を指さして吠えた。


 壁の掛け時計は、深夜──午前零時をわずかに回ったあたりを示している。


 そして再び、


 ──ピンポーン。


 同じ音が、もう一度。


 それは、明らかに“誰かが扉の前にいる”という合図だった。


 誰も動けずにいた。


 ただ、その無機質な音だけが、館に新たな“訪問者”の存在を知らせていた。


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