赤坂剛は、広間の隅に据えられた古びた椅子に腰を下ろし、湯呑みを両手で包み込むように持った。冷えた体を温めようとするその仕草の裏に、言い知れぬ警戒心が隠れていることを、本人自身もうすうす感じていた。
ちら、と視線を向ける。
暖炉の近く、涼夏という少女が小さく身を丸めて座っている。火の揺らめきに照らされたその横顔には、どこか“現実感”の乏しい翳りが見えた。
(……なんか、あの子、妙に静かすぎるよな)
その近くでは、沙耶と柏原が並んで腰をかけて談笑している。沙耶は時折、湊の方をちらちらと見やりながら、少し緊張したような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべていた。
赤坂は小さく鼻を鳴らす。
(ま、沙耶が楽しそうなら、それでいいんだけどな)
お茶を一口すすると、ぬるくなった渋みが口に広がった。どこか落ち着かない夜だった。
白鳥という男が、舞と涼夏を連れてこの館に来た──そう説明を受けたとき、赤坂の中でふとした“引っかかり”が芽生えた。理屈じゃない。もっと、肌の奥で感じるような……そう、“庶民的な勘”としか言いようのない違和感だった。
(あいつ……白鳥って奴。口ぶりは丁寧で紳士的だけど、なんか芝居がかってるっていうか……)
気取った口調、隙のない所作。そういう人間が悪いとは限らない。だが、この“密室の館”では──そうした洗練された仮面が、逆に不気味に思えてくる。
そんなことを考えていたとき、キッチンの方から、カタン……と何かが落ちるような音が微かに響いた。
「……?」
耳をそばだてたが、すぐに静寂が戻ってくる。
(気のせいか? いや……)
赤坂は身を起こし、湯呑みをテーブルに置いた。
五感が、警鐘を鳴らしている。何かが、起きそうな気がしてならなかった。
白鳥一誠は、脚を組み替えながら静かに湯を口に運んだ。薄暗い広間の灯りが、陶器の湯呑みに反射して微かな光を返す。表情には穏やかな微笑を浮かべていたが、その内側は決して静かではなかった。
(やはり、ここに来たのは──間違いではなかった)
隣では、菊地舞が硬い表情でお茶を口にしている。対面のソファには、指宿涼夏が俯いたまま小さく身をすくめていた。
舞と涼夏。それぞれに、招待状が届いていた。偶然駅で見かけた舞を伴って、この館に来たのは必然に近い選択だった。だが、その直後に館の前で指宿涼夏を見かけたとき──彼の中で、時計の針が一つ、音を立てて進んだ気がした。
(やはり、彼女は来たか)
涼夏のことは知っていた。いや、意識の外に置ける存在ではなかった。あの日、あの事件で──自分が関わったすべての記憶のなかに、彼女の名は刻まれている。
それでも今、彼女は何も語らない。ただ静かに、そこにいる。
そして、もう一人──神村詩音という少女。どこか浮世離れした態度と、張りつめた言葉の選び方。口にする内容は理知的だが、時折、その奥に得体の知れない“空白”が見え隠れする。
(彼女は、何者だ……?)
白鳥は、そんな疑念を抱きながら、何も語らない自分を保っていた。
「お茶、美味しいですね」
舞がぽつりと呟く。
「こういうところで、こういう一杯をいただけるなんて……なんだか、不思議な気分です」
「確かに。まるで舞台の上の芝居のようだ。照明が落ちて、役者が揃い、舞台袖から“何か”が出てくるのを待っている……そんな夜ですね」
自分でも皮肉めいた言葉だと思いながら、白鳥はゆるやかに微笑んだ。
まるで、仮面をかぶるように。
そうしなければ──この空間では、まともではいられそうになかった。
菊地舞は、広間の隅のソファに腰を下ろしながら、手元の湯呑みに視線を落としていた。
口元に笑みを浮かべるよう意識してはいたが、心の内はざわざわと落ち着かなかった。湯呑みに触れる指先には、わずかに汗が滲んでいる。
理沙と柏原、沙耶の三人は、暖色のスタンドライトの下で穏やかに談笑していた。内容までは聞き取れなかったが、理沙がやや眉を下げて笑い、沙耶が「なるほど〜」と小さく声をあげる様子から、緊張をほぐす努力をしているのが伝わってくる。
(……私も、ああして話に加われたら、もう少し安心できるのかな)
けれど、それができなかった。
白鳥さんは、今は少し離れた椅子に腰をかけて、手帳のようなものを開いている。時折、周囲を観察するように視線を巡らせているけれど、舞に話しかけてくることはなかった。
(……さっきはあんなに自然に声をかけてくれたのに。今は……まるで“ひとり”みたい)
胸の奥に、じわりと冷たい孤独が染み込んでくる。知っている人がそばにいるのに、距離がある。声をかけられない。そんな妙な“隔たり”が、ますます舞の不安を強めていった。
(……でも、今さらどうして“こんな場所”に招待されたんだろ)
自分でも、はっきりとした理由が思い出せない。
何か心当たりがあるようで、ないような──もやのかかった記憶。まるで、何かを“見た”ことがあるような気がするのに、それが何だったのかが思い出せない。
それに、気のせいかもしれないけど、ずっと誰かに見られている気がする──そんな感覚が、胸の奥に小さく、鋭く突き刺さっている。
周囲をちらりと見渡す。
暖炉の前には、涼夏が座っている。真っ直ぐ前を見ているようだが、どこか視線の焦点が合っていないように見えた。彼女の近く、少し離れた位置には詩音が腰を下ろしていた。髪を肩に流し、背筋を正したまま、動く気配を見せない。
二人の間には、沈黙があった。
言葉がないからこそ、空気が重い。舞はそっと唇を引き結び、湯呑みを持ち直した。
そのとき──視界の端で、何かが動いた。
詩音が立ち上がったのだ。
ゆっくりと、まるで時間の流れが変わったかのような滑らかさで。舞は思わず体を強張らせた。
(えっ……?)
振り返るわけではない。だが、その動きが、まるで自分の“心の中”まで見透かしてくるような気配をまとっていた。
(今、私の方を見ていた……?)
舞は湯呑みをそっと膝に戻し、背筋を伸ばす。
雨の音が、窓の外からひたひたと染み込んでくる。誰も気づかぬうちに、時刻は午前二時に近づいていた。
広間から続く、洋館の一室──使用人用だったのか、いくぶん狭く質素な寝室に、薄い毛布が一組だけ敷かれていた。
その中央に横たわる高峰凜は、捻挫した足を少し浮かせるようにしながら、静かに天井を見つめている。雨の音が、窓越しに静かに鳴り続けていた。
「痛み、どう?」
傍らに座った小田切翔馬が、心配そうに問いかける。
「……大丈夫。さっきよりは、少しマシになったよ」
そう答える凜の声はか細いが、それでも気丈に振る舞おうとしているのが伝わってくる。
「もう一度、湿布替えとこうか? 冷えてるうちのほうが効くだろ」
「ううん、まだいい。……ありがとう、翔馬」
そう言って凜は、少しだけ笑みを浮かべた。だがその笑顔の奥には、不安が色濃く滲んでいた。
「それにしても、さ……」
翔馬がふと呟く。
「この館、やっぱ妙だよな。中はやけに綺麗だし、水もガスも通ってるし……それに、ヤカンもピカピカだった」
「うん。……私、少し気持ち悪くて」
「気持ち悪い?」
「うん……なんか、誰かに見られてるような感じがして。寝てても、ずっと誰かの視線が……」
凜の声が震えた。翔馬は一瞬言葉に詰まり、そして立ち上がる。
部屋のカーテンを引き、外の暗闇を遮断すると、静かに言った。
「大丈夫。ここには俺がいる。お前を一人にはしないから」
その言葉に、凜はかすかに微笑んだ。
だが──胸の奥に巣食う、不気味な違和感は、まだどこかでざわめいていた。
あなた:
広間の隅、暖炉の前にある古びたソファに腰を下ろし、柏原旦陽は湯気の立つカップを片手にしていた。
その隣には、理沙と沙耶がいる。肩を寄せるようにして、三人は静かな会話を交わしていた。
「なんか、今だけは普通の夜みたいですね」
沙耶が、カップの紅茶を見つめながらぽつりと呟いた。
柏原は微笑んだ。
「そうね。こういう時間をちゃんと確保できてるのは、大事なことよ」
理沙が小さく頷く。
「……でも、もう三人も亡くなってるんですよね。本当に、嵐の前の静けさというか」
「そうね。でも、こういうときほど、落ち着いて状況を見ることが大事なの。思考が散らかると、判断を誤るわ」
柏原の口調は柔らかいが、その瞳はどこか遠くを見据えていた。
理沙は、それに気づいたように声を落とした。
「何か、考えてます?」
「少しだけね。……変なのよ、この館」
「変って?」
「例えば、電気が通ってる。水道も。新品の食器も、シャンプーや歯ブラシも。廃墟にしては綺麗すぎる。整いすぎてるのよ」
「……誰か、住んでるってことですか?」
沙耶の声が小さく震えた。
柏原は頷かなかった。ただ、カップの縁を指でなぞるようにしながら呟く。
「それは分からないわ。今のところ、その可能性も、捨てきれない、ってだけ。けど、あえてそれを“見せている”ようにも思える。誰かが、私たちを試している──そんな気がしてならないの」
理沙と沙耶は、同時に息をのんだ。
沈黙が、再び三人の間に訪れる。
だが、その沈黙は決して不快なものではなかった。焚き火のように、静かで、けれどどこか熱を孕んだものだった。
夜の静寂に包まれた白鷺館。
広間の隅にある、一段高い読書スペース。そのテーブルに、湊は一人腰を下ろしていた。手元には書きかけのノート。けれど、ペン先は動かない。
(なにかが……足りない)
事件、館の構造、そして人の動き。そのすべてに、ひとつずつは“異常”ではないが、繋げると違和感が残る。それを言語化できずに、思考は空回りしていた。
誰もいない上階から、かすかな軋みの音。だが、湊は顔を上げなかった。
(今のは──本当に“音”だったか?)
神経が過敏になっている。雨音、木材の収縮、風の通り道。全てが疑わしくなるほど、感覚は研ぎ澄まされていた。
時計の音が、やけに耳についた。
あと五時間ほどで、夜が明ける。
この数時間の間に、“何か”が起きる。その確信だけが、湊の中にあった。
(犯人の狙いは殺人だけじゃない。なら、何を見せようとしている?)
湊の脳裏に、指宿涼夏と神村詩音の姿が浮かぶ。
黙して語らぬ者と、ひたすらに舞台を強調する者。あの2人の奥には、何が隠されているのか。
「……眠れないのね」
後ろから声がした。
柏原だった。静かに歩み寄り、隣の椅子に腰を下ろす。
「みんな、一応寝るってさ。無理やりだけど」
「ああ。俺はもう少しだけ考えておく」
「ふうん」
柏原は手にしていたカップを湊の前に置いた。湯気が立ちのぼる。ハーブティーの香りが、微かに辺りに漂う。
「すまない」
「礼なんかいらない。こっちだって、気が休まらないんだから」
二人の間に沈黙が落ちる。
しかし、それは不快なものではなかった。むしろ、これまでの混乱が静かに整理されていくような、そんな“夜の間”だった。
「……嫌な予感がするんだ」
湊の呟きに、柏原も同じように頷いた。
「私も。夜明けまでに、まだ何かが起こる。……そんな気がしてならない」
湊は視線を外の闇に向ける。
白鷺館は、今も静かだった。
だが──その静寂の裏に、確かに“歪み”がある。