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第17話【束の間の休息】

 赤坂剛は、広間の隅に据えられた古びた椅子に腰を下ろし、湯呑みを両手で包み込むように持った。冷えた体を温めようとするその仕草の裏に、言い知れぬ警戒心が隠れていることを、本人自身もうすうす感じていた。


 ちら、と視線を向ける。


 暖炉の近く、涼夏という少女が小さく身を丸めて座っている。火の揺らめきに照らされたその横顔には、どこか“現実感”の乏しい翳りが見えた。



(……なんか、あの子、妙に静かすぎるよな)



 その近くでは、沙耶と柏原が並んで腰をかけて談笑している。沙耶は時折、湊の方をちらちらと見やりながら、少し緊張したような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべていた。


 赤坂は小さく鼻を鳴らす。


(ま、沙耶が楽しそうなら、それでいいんだけどな)


 お茶を一口すすると、ぬるくなった渋みが口に広がった。どこか落ち着かない夜だった。


 白鳥という男が、舞と涼夏を連れてこの館に来た──そう説明を受けたとき、赤坂の中でふとした“引っかかり”が芽生えた。理屈じゃない。もっと、肌の奥で感じるような……そう、“庶民的な勘”としか言いようのない違和感だった。



(あいつ……白鳥って奴。口ぶりは丁寧で紳士的だけど、なんか芝居がかってるっていうか……)



 気取った口調、隙のない所作。そういう人間が悪いとは限らない。だが、この“密室の館”では──そうした洗練された仮面が、逆に不気味に思えてくる。


 そんなことを考えていたとき、キッチンの方から、カタン……と何かが落ちるような音が微かに響いた。



「……?」



 耳をそばだてたが、すぐに静寂が戻ってくる。



(気のせいか? いや……)



 赤坂は身を起こし、湯呑みをテーブルに置いた。


 五感が、警鐘を鳴らしている。何かが、起きそうな気がしてならなかった。


 白鳥一誠は、脚を組み替えながら静かに湯を口に運んだ。薄暗い広間の灯りが、陶器の湯呑みに反射して微かな光を返す。表情には穏やかな微笑を浮かべていたが、その内側は決して静かではなかった。



(やはり、ここに来たのは──間違いではなかった)



 隣では、菊地舞が硬い表情でお茶を口にしている。対面のソファには、指宿涼夏が俯いたまま小さく身をすくめていた。


 舞と涼夏。それぞれに、招待状が届いていた。偶然駅で見かけた舞を伴って、この館に来たのは必然に近い選択だった。だが、その直後に館の前で指宿涼夏を見かけたとき──彼の中で、時計の針が一つ、音を立てて進んだ気がした。



(やはり、彼女は来たか)



 涼夏のことは知っていた。いや、意識の外に置ける存在ではなかった。あの日、あの事件で──自分が関わったすべての記憶のなかに、彼女の名は刻まれている。


 それでも今、彼女は何も語らない。ただ静かに、そこにいる。


 そして、もう一人──神村詩音という少女。どこか浮世離れした態度と、張りつめた言葉の選び方。口にする内容は理知的だが、時折、その奥に得体の知れない“空白”が見え隠れする。



(彼女は、何者だ……?)



 白鳥は、そんな疑念を抱きながら、何も語らない自分を保っていた。



「お茶、美味しいですね」



 舞がぽつりと呟く。



「こういうところで、こういう一杯をいただけるなんて……なんだか、不思議な気分です」



「確かに。まるで舞台の上の芝居のようだ。照明が落ちて、役者が揃い、舞台袖から“何か”が出てくるのを待っている……そんな夜ですね」



 自分でも皮肉めいた言葉だと思いながら、白鳥はゆるやかに微笑んだ。


 まるで、仮面をかぶるように。


 そうしなければ──この空間では、まともではいられそうになかった。




 菊地舞は、広間の隅のソファに腰を下ろしながら、手元の湯呑みに視線を落としていた。


 口元に笑みを浮かべるよう意識してはいたが、心の内はざわざわと落ち着かなかった。湯呑みに触れる指先には、わずかに汗が滲んでいる。


 理沙と柏原、沙耶の三人は、暖色のスタンドライトの下で穏やかに談笑していた。内容までは聞き取れなかったが、理沙がやや眉を下げて笑い、沙耶が「なるほど〜」と小さく声をあげる様子から、緊張をほぐす努力をしているのが伝わってくる。


(……私も、ああして話に加われたら、もう少し安心できるのかな)


 けれど、それができなかった。


 白鳥さんは、今は少し離れた椅子に腰をかけて、手帳のようなものを開いている。時折、周囲を観察するように視線を巡らせているけれど、舞に話しかけてくることはなかった。



(……さっきはあんなに自然に声をかけてくれたのに。今は……まるで“ひとり”みたい)



 胸の奥に、じわりと冷たい孤独が染み込んでくる。知っている人がそばにいるのに、距離がある。声をかけられない。そんな妙な“隔たり”が、ますます舞の不安を強めていった。



(……でも、今さらどうして“こんな場所”に招待されたんだろ)



 自分でも、はっきりとした理由が思い出せない。


 何か心当たりがあるようで、ないような──もやのかかった記憶。まるで、何かを“見た”ことがあるような気がするのに、それが何だったのかが思い出せない。


 それに、気のせいかもしれないけど、ずっと誰かに見られている気がする──そんな感覚が、胸の奥に小さく、鋭く突き刺さっている。


 周囲をちらりと見渡す。


 暖炉の前には、涼夏が座っている。真っ直ぐ前を見ているようだが、どこか視線の焦点が合っていないように見えた。彼女の近く、少し離れた位置には詩音が腰を下ろしていた。髪を肩に流し、背筋を正したまま、動く気配を見せない。


 二人の間には、沈黙があった。


 言葉がないからこそ、空気が重い。舞はそっと唇を引き結び、湯呑みを持ち直した。


 そのとき──視界の端で、何かが動いた。


 詩音が立ち上がったのだ。


 ゆっくりと、まるで時間の流れが変わったかのような滑らかさで。舞は思わず体を強張らせた。



(えっ……?)



 振り返るわけではない。だが、その動きが、まるで自分の“心の中”まで見透かしてくるような気配をまとっていた。



(今、私の方を見ていた……?)



 舞は湯呑みをそっと膝に戻し、背筋を伸ばす。


 雨の音が、窓の外からひたひたと染み込んでくる。誰も気づかぬうちに、時刻は午前二時に近づいていた。


 広間から続く、洋館の一室──使用人用だったのか、いくぶん狭く質素な寝室に、薄い毛布が一組だけ敷かれていた。


 その中央に横たわる高峰凜は、捻挫した足を少し浮かせるようにしながら、静かに天井を見つめている。雨の音が、窓越しに静かに鳴り続けていた。



「痛み、どう?」



 傍らに座った小田切翔馬が、心配そうに問いかける。



「……大丈夫。さっきよりは、少しマシになったよ」



 そう答える凜の声はか細いが、それでも気丈に振る舞おうとしているのが伝わってくる。



「もう一度、湿布替えとこうか? 冷えてるうちのほうが効くだろ」



「ううん、まだいい。……ありがとう、翔馬」



 そう言って凜は、少しだけ笑みを浮かべた。だがその笑顔の奥には、不安が色濃く滲んでいた。



「それにしても、さ……」



 翔馬がふと呟く。



「この館、やっぱ妙だよな。中はやけに綺麗だし、水もガスも通ってるし……それに、ヤカンもピカピカだった」



「うん。……私、少し気持ち悪くて」



「気持ち悪い?」



「うん……なんか、誰かに見られてるような感じがして。寝てても、ずっと誰かの視線が……」



 凜の声が震えた。翔馬は一瞬言葉に詰まり、そして立ち上がる。


 部屋のカーテンを引き、外の暗闇を遮断すると、静かに言った。



「大丈夫。ここには俺がいる。お前を一人にはしないから」



 その言葉に、凜はかすかに微笑んだ。


 だが──胸の奥に巣食う、不気味な違和感は、まだどこかでざわめいていた。

あなた:




 広間の隅、暖炉の前にある古びたソファに腰を下ろし、柏原旦陽は湯気の立つカップを片手にしていた。


 その隣には、理沙と沙耶がいる。肩を寄せるようにして、三人は静かな会話を交わしていた。



「なんか、今だけは普通の夜みたいですね」



 沙耶が、カップの紅茶を見つめながらぽつりと呟いた。


 柏原は微笑んだ。



「そうね。こういう時間をちゃんと確保できてるのは、大事なことよ」



 理沙が小さく頷く。



「……でも、もう三人も亡くなってるんですよね。本当に、嵐の前の静けさというか」



「そうね。でも、こういうときほど、落ち着いて状況を見ることが大事なの。思考が散らかると、判断を誤るわ」



 柏原の口調は柔らかいが、その瞳はどこか遠くを見据えていた。


 理沙は、それに気づいたように声を落とした。



「何か、考えてます?」


「少しだけね。……変なのよ、この館」


「変って?」


「例えば、電気が通ってる。水道も。新品の食器も、シャンプーや歯ブラシも。廃墟にしては綺麗すぎる。整いすぎてるのよ」



「……誰か、住んでるってことですか?」



 沙耶の声が小さく震えた。


 柏原は頷かなかった。ただ、カップの縁を指でなぞるようにしながら呟く。



「それは分からないわ。今のところ、その可能性も、捨てきれない、ってだけ。けど、あえてそれを“見せている”ようにも思える。誰かが、私たちを試している──そんな気がしてならないの」



 理沙と沙耶は、同時に息をのんだ。


 沈黙が、再び三人の間に訪れる。


 だが、その沈黙は決して不快なものではなかった。焚き火のように、静かで、けれどどこか熱を孕んだものだった。




 夜の静寂に包まれた白鷺館。


 広間の隅にある、一段高い読書スペース。そのテーブルに、湊は一人腰を下ろしていた。手元には書きかけのノート。けれど、ペン先は動かない。



(なにかが……足りない)



 事件、館の構造、そして人の動き。そのすべてに、ひとつずつは“異常”ではないが、繋げると違和感が残る。それを言語化できずに、思考は空回りしていた。


 誰もいない上階から、かすかな軋みの音。だが、湊は顔を上げなかった。



(今のは──本当に“音”だったか?)



 神経が過敏になっている。雨音、木材の収縮、風の通り道。全てが疑わしくなるほど、感覚は研ぎ澄まされていた。


 時計の音が、やけに耳についた。


 あと五時間ほどで、夜が明ける。


 この数時間の間に、“何か”が起きる。その確信だけが、湊の中にあった。



(犯人の狙いは殺人だけじゃない。なら、何を見せようとしている?)



 湊の脳裏に、指宿涼夏と神村詩音の姿が浮かぶ。



 黙して語らぬ者と、ひたすらに舞台を強調する者。あの2人の奥には、何が隠されているのか。



「……眠れないのね」



 後ろから声がした。


 柏原だった。静かに歩み寄り、隣の椅子に腰を下ろす。



「みんな、一応寝るってさ。無理やりだけど」


「ああ。俺はもう少しだけ考えておく」


「ふうん」



 柏原は手にしていたカップを湊の前に置いた。湯気が立ちのぼる。ハーブティーの香りが、微かに辺りに漂う。



「すまない」


「礼なんかいらない。こっちだって、気が休まらないんだから」



 二人の間に沈黙が落ちる。


 しかし、それは不快なものではなかった。むしろ、これまでの混乱が静かに整理されていくような、そんな“夜の間”だった。



「……嫌な予感がするんだ」



 湊の呟きに、柏原も同じように頷いた。



「私も。夜明けまでに、まだ何かが起こる。……そんな気がしてならない」



 湊は視線を外の闇に向ける。


 白鷺館は、今も静かだった。


 だが──その静寂の裏に、確かに“歪み”がある。



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