目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第16話 産まれたての子猫

次の日、彼は上機嫌で仕事から帰ってきた。


「イルぅ、君のおかげで残業なしで帰れたよ〜!」


と帰ってきて早々、俺に抱きついてくるレベルには機嫌がいい。俺はそんな彼の言動を訝しげに思い、


「ご主人様、らしくないね。お酒でも飲んだ?」


と尋ねてみた。


「いいや、あったんだよ!凶器が!!」


彼は驚喜してそう言うが、何の事かわからない俺には狂気の沙汰にしか思えない。


「へぇ、そうなんだね……」


「イルの言っていた通りだ。凶器を隣人にプレゼントしてた」


そう言っては俺にまた抱きついて、俺の胸に目を細めながら頬擦りをしている。あぁ、昨日言ってた俺の仮説が当たったのか。やっと、合点がいった。


「じゃあ、何かご褒美くれる?」


俺はこの機を逃さず、しれっとおねだりしてみた。すると彼は、その言葉を待っていたかのようにニヤっと笑って、


「じゃーん!イルと一緒に飲もうかと思って、お酒を買ってきたんだ」


とワインボトルを見せられた。俺はそんなのよりもレイラが欲しいんだけどね。なんて想いは押し殺して、


「わあ、ご主人様!一緒に飲もう!」


って尻尾振る犬のように喜んだ。


夕飯のステーキとともに赤ワインを嗜む。ちょっとしたパーティをしている気分になった。


「イル、美味しい?」


「とっても美味しいよ。ご主人様」


彼はお酒にとても弱いのか、ワイングラス一杯で頬を赤らめていた。まあ、見た目からして飲めそうにない、赤ちゃんみたいな見た目をしているが。


「イルぅ、ふふっ、一緒にぃ……」


なんて言いながら食べ終わった皿を退けて、ダイニングテーブルを枕にして、眠りにつこうとしている。


「ご主人様、もう酔っちゃったの?」


こんな無防備な姿を見せられると、俺の頬も次第に赤く染まっていく。脳内で色んなシュミレーションをしてはそれを否定しまくって、煩悩に抗ってステーキにナイフを突き刺した。


「はぁ、あちゅい……」


細かく息をする彼の額が汗ばんでいる。とても苦しそうな顔をしている。息の詰まるような彼のシャツの第一ボタンを外してあげた。すると、上がった呼吸が整っていき、気持ちよさそうに寝始めた。


「ご主人様ぁ、そこで寝ると身体痛くするよ?」


と言っても彼は「ん〜」と唸るだけで動こうとはしない。だから、俺がその身体を持ち上げて、近くのソファまで移動させてあげた。その汗ばんで顔に張り付いた髪の毛をそっと指で避けて、俺は唇を噛んだ。


あぁ、このままキスしちゃいたい。


それが俺のどす黒い心の中にある本音だった。けれど、昨日から頭の中で逡巡することと言えば、彼に行為を迫って泣かれたことだ。きっと欲望に負け、このままキスをしてしまえば、また彼を泣かせることになるに違いない。俺はそれでもしたいという欲望をどうやって発散したらいいのかわからなくて、一日三本という約束を破って、四本目の煙草に火をつけた。


「クラクラする、煙草の匂い……」


彼が寝ぼけ眼で俺を捉える。


「あ、これ三本目ね」


咄嗟に嘘を付いてその場をやり過ごそうとしたのも無意味。彼は俺から煙草を取り上げようとする。猫じゃらしで遊んでいる猫のように。


「煙草。健康に悪いって、いつも言ってんじゃん……」


「ふふっ、じゃあ、奪ってみなよ」


と俺が煽ると、彼はソファから転げ落ちて、産まれたての子猫のような四つん這いのよちよち歩きで俺の方に向かってくる。危なっかしくて可愛い。


「ちゅかまえた!」


一歩たりとも逃げていない俺の足首を掴むと満足げに笑ってる。そんな酔っ払いの彼が俺は可愛くてしょうがない。


「すぅーーーっ、はぁ」


深いため息をつくように煙草を味わった。もっと俺をその快楽物質で満足させてくれ。


「イルぅ、煙草……」


俺の足元で寝っ転がって、空を掴んでは俺の煙草に手が届かないことを嘆いている。馬鹿みたいに滑稽だ。


「もう吸い終わるよ」


と灰皿に煙草を潰して、足元で寝っ転がっている彼を、しゃがんで上から覗き見てみた。


「あれ、煙草はぁ?」


と今度は俺の顔をぺたぺたと触って、煙草がないことを不思議そうにしている。


「んんっ、もう捨てたよ」


その手を邪魔に思いながら、そう告げると


「ふふっ、そっかあ!イル、偉いねぇ!」


といつものオーバーリアクションで可愛がるように俺の頭をぽんぽんと撫でた。その笑顔が可愛すぎて、ダメだった。


「じゃあ、そんな俺はご褒美貰ってもいいよね?」


俺が彼に顔を近づけると、彼はあからさまに俺の口元を狙って、手で覆ってきた。それは完璧な拒絶反応だった。


「……嫌だ」


その一言が俺に重くのしかかる。またやってしまった。また欲望に負けてしまった。そんな自己嫌悪でいっぱいになって、罪滅ぼしのように彼の髪を優しく撫でた。


「レイラ、ごめんね。今日は一緒に寝られない」


そう言って、また彼をソファで寝かせると、俺は寝室のベッドへとダイブした。そして、あまり寝付けないまま、窓から朝日が差し込んだ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?