目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第15話


 光を束ねたような髪が、風に揺られている。


「…生きて……生きていたんだね…」


 少年は碧色の大きな瞳から涙をこぼすと、ルーチェに駆け寄るなり強く抱きしめてきた。


「わ、わっ……!」


 突然のことに、ルーチェはどうしたらいいのか分からない。振り向いたらそこに居て、目が合ったかと思えば泣かれて、抱きつかれている。どうしたものだろうか。


「あ、あの……私を知っているんですか?」


 戸惑いながらも、一番知りたかったことを訊いてみると、少年がぱっと顔を上げた。濡れたその瞳は困惑したように揺れている。


「……もしかして、俺が分からない?」

「は、はい」


 ルーチェが頷くと、少年は慌てた様子でルーチェを放した。腕組みをしながらルーチェのことを上から下まで眺めると、今度は手元に口を当てている。


「私のことを知っているのですか?」


「知ってるよ。この世界で二番目に」


 まさかの返事に、ルーチェは目を真ん丸に見開いた。

 二番目ということは、ルーチェの知りたいことを全て知っているのではないだろうか。きっと、記憶のことも。


「……私の名前を、ご存知ですか?」


 ルーチェは右の手のひらを握りしめながら、震える声で問いかけた。


 赤色のケープが靡く。その下から覗いた同じ色の衣装には、金色の月の刺繍が入っている。どこかの国の紋章のようだが、イージス神聖王国のものではない、気がした。


「それは聖王様しか知らない。貴女の名前を呼べるのは、この世でただ一人だけだから」


 少年は寂しそうに笑うと、目元を乱暴に拭ってからルーチェと向き直る。


「俺はノエル。氷帝に呼ばれて、マーズから来た」

「マー、ズ…」


 マーズとはどこにあるのだろうか。ルーチェのことを知っている少年を、ヴィルジールが呼び寄せた理由は何だろう。


 何から訊けばいいか迷っていると、慌ただしい足音が近づいてくる。現れたのは、先ほど挨拶したばかりの使用人・ロイドだった。


「──ノエル様!ここにいらっしゃいましたか」


 ノエルは悪戯に成功した子供のような表情をすると、軽やかな足取りで外へと向かっていく。だが、門の手前で足を止めると、ルーチェを振り返った。


「……話の途中でごめん。色々と話したいことがあるけど、氷帝を怒らせたら面倒くさそうだから」


「ノエルさん…」


「しばらくこの国に滞在することになったから、また会えるよ。なんなら明後日にでも」


 ノエルは優しく笑うと、アーチの向こうへと消えた。



(わたしの名前を呼べるのは、ただひとりだけ)


 それ即ち、聖王しか知らないということだ。以前の自分とノエルの関係性は分からないが、ルーチェが生きていたことに涙を流して喜んでいたから、側にいた人なのかもしれない。


 ノエルは黄金色の髪に碧色の瞳をしていた。それは何度か瞼の裏で目にした美しい青年と同じだ。あの青年を聖王と仮定すると、ノエルさんとやらは血縁者か何かだろうか。


「聖女様。お部屋にご案内いたします」


 いつからそこにいたのか、セルカが柱の裏から姿を現す。ルーチェを見て少しだけ表情を緩めると、流麗なお辞儀をした。


「……セルカさん。今の方をご存知ですか?」


「御姿を拝見したのは初めてですが、マーズの大魔法使いかと。二日後に開催される式典に参列されるのではないでしょうか」


 ルーチェが首を傾げると、セルカは「まずはお部屋に」と言い、先導するように歩き出した。その背を追って歩みを進めると、美しい風景画が並ぶ廊下に出る。


「皇帝陛下は間もなく即位十年目を迎えます。その記念式典が二日後に開催されるのです。体調が良ければ聖女様も是非出席を、と先ほど案内の者が来ていたそうで」


「私のようなものが…良いのでしょうか?」


 セルカが一際豪奢な扉の前で立ち止まる。ドアノブに手を掛ける前に、彼女はルーチェを振り返るとピンと姿勢を正した。


「何を仰るのですか。貴女様は皇帝陛下の御命を救ったのですよ。先日の襲撃事件のことといい、破魔の結界といい、我ら帝国の民はどうお返ししたら良いか」


「ですが、あの竜はきっと、私を…」


 ルーチェは俯いた。ヴィルジールを救い、民の傷をも癒したことに感謝されても、そもそもその元凶となった竜はルーチェを襲いにきたのではないかと思っているからだ。


 あの竜はルーチェを知っていた。光を纏う黄金の竜は恐ろしく強く、誰もが怖れるというヴィルジールの命をも脅かしたのだ。


「……ルーチェ様」


 まだヴィルジール以外の人には呼ばれたことがない名を呼ばれ、ルーチェは顔を上げる。すると、穏やかな表情をしているセルカと目が合った。


「私もそのようにお呼びしてもよろしいでしょうか」


「セルカさん…」


「帝国を救ってくださった聖女様に、願いを乞うなど…身の程知らずなのは承知の上でございます」


 ルーチェは泣きたくなるような気持ちで、首を左右に振った。


 身の程知らずなのは自分の方だ。己のことも己の罪も、全てを忘れているルーチェにセルカは尽くしてくれている。たとえそれが、命令であったとしても。


「ルーチェと呼んでください」


 セルカは口元を綻ばせると、胸の下で手を重ね合わせながら頭を下げた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?