(……本当に、そうかしら)
ルーチェはヴィルジールを噂のような人物だと感じたことはない。初めは冷たい印象を受けたが、それは眼差しや淡々とした物言いからくるものであって、彼の人間性は決して冷淡ではないと思っている。
避難民に衣食住を提供していたり、竜が城下を襲撃してきた時は自ら赴き、民を避難誘導するよう部下に指示もしていた。ルーチェに新しい名前をくれたのも彼で、この国に居て良いのだとも言ってくれた。
そんなふうに他人に心を配れる人を、冷酷で無慈悲な人間だと思えるだろうか。
ルーチェの視線に気づいたのか、ヴィルジールが体ごと向き直る。
「どうした」
「いえ、何でもございません」
「何でもないのに、人の顔を見ていたのか」
ヴィルジールの顔が近づく。薄い唇は少しだけ横に引かれ、ルーチェを覗き込む青い瞳は柔さを纏っていた。
初めて見る表情が、ヴィルジールの顔に浮かんでいる。微笑と呼ぶにはくすぐったいが、それが一番近いように思う。
「あ……その…」
ルーチェは口を開いたり閉じたりしてから、視界の片隅に映る露店を指差した。
「あのお店が気になったのです」
ヴィルジールの目がルーチェが指差す方へと動く。
「花菓子か。ならば行こう」
本当は、ヴィルジールのことを考えていたから、見てしまっていたのだと言うべきだったかもしれない。だけれど、ルーチェは胸の奥にしまい込んだ。
そういうことは、言ってはいけないような気がした。
とりあえずにとルーチェが選んだお店では、花菓子というものが売っていた。花を使って作られたお菓子らしく、塩漬けにされた花が添えられているものから、練り込まれているものなど色々とあると売り子が教えてくれた。
どれもこれも、初めて見るものばかりだ。ルーチェは瞳を輝かせながら、可愛らしく包装されているものを手に取る。
「…それが気に入ったのか?」
ルーチェの手のひらにあるのは、花びらが練り込まれている焼き菓子だ。焦げ茶色で横長く、お洒落にリボンが掛けられている。
「可愛いなあと。でも、こっちも可愛いです」
右手には焦げ茶色のものを、左手に貝殻の形をしたものを手に取っているルーチェは、どちらが良いか頭を悩ませた。きっとどちらも美味しいだろうが、二個は多い。
「両方買えばいいだろう。店主、これとそれを」
どちらにしようか悩むルーチェを余所に、ヴィルジールが紙幣を店主に突き出す。
「ヴィ、ヴィルジール様っ…!ひとつで充分です」
ふたつ食べるつもりも、買ってもらうつもりもなかったというのに。
「日持ちのする菓子だ。別の日に食べればいい」
ヴィルジールは口角をうっすらと上げると、ルーチェの頭の上に手を置いた。
「ありがとうございますっ…」
「花菓子程度で感激されるとは」
次の場所に行くのか、ヴィルジールが腕を差し出してくる。
ルーチェは買ってもらった焼き菓子をポシェットに入れ、笑顔をこぼした。
それからヴィルジールはルーチェを今流行りのカフェに連れて行くと、食べるのが勿体ないくらい美しいケーキを食べさせた。
ひと息ついた後は、人気デザイナーの仕立て屋で、普段使いのものからパーティー用のドレスまで注文を、宝石店ではルーチェの瞳の色に合わせた美しい装飾品を。
ルーチェは何もしていないのに受け取るわけには、と全て断ろうとしたが、ルーチェの好きなものが知りたいからという理由で押し切れられてしまった。
特別美味しいと感じた味は何か、どんな色が好きか、好きな花の品種は何か。ルーチェが何かに触れたり見たりするたびに、ヴィルジールは紐を解くように問いかけてきた。
城下町の名所を堪能し尽くした頃、空は橙色に染まっていた。夕映えの空を見上げるルーチェの左側にはヴィルジールが、右腕には清廉な色合いの花束がある。
白い花が好きだと言ったルーチェに、ヴィルジールが贈ったものだ。城に届けさせるよう彼は手配しようとしていたが、これだけは自分で抱えて持って帰りたいとルーチェは言った。
「……あ」
ふとルーチェの足が止まる。
「どうした」
「あの建物に寄ってもいいでしょうか?」
ルーチェの目線を辿るように、ヴィルジールが目を動かす。その先にあるのは孤児院だ。
ヴィルジールは「なぜ急に」と言い出しそうな顔をしていたが、それを待たずに歩き出したルーチェに腕を引かれ、そこに向かうことになった。
オヴリヴィオ帝国には孤児院が多い。国土は広く、潤沢な資源を有しているが、最高権力者である皇帝に恵まれなかった為、ここ何十年と国政が安定していなかった。
気分次第で金も人も振り回し、憂さ晴らしに戦争を仕掛ける皇帝のせいで、親を失った子供が多い。だが、十年前からは減少傾向にある。ヴィルジールが皇帝となってからだ。
「──お姉ちゃん、名前は?」
「ルーチェよ」
孤児院に着くなり、ルーチェは瞬く間に子供たちに囲まれていた。共に居たヴィルジールの側に子供が寄らないのは、近づき難い雰囲気を晒し出しているからだろうか。
「ルーチェは、どこから来たの?」
「お姉さん、字は書ける?」
好奇心が旺盛な年頃の子供たちが、ルーチェに続々と質問をしている。彼ら一人ひとりに目線を合わせながら、笑顔で返していくルーチェの姿を、ヴィルジールは塀に背を預けながら眺めていた。
突然孤児院を訪れたルーチェとヴィルジールを、年嵩の女性が優しい笑顔で出迎えた。二人の身形を見れば、貴族階級以上の人間であることは明らかだったが、彼女は何も言わずに見守っていた。
子供たちと駆け回っているルーチェは、陽だまりのような笑顔を浮かべている。その姿は普段よりも幼く見え、ヴィルジールは軽く目を瞠りながら見入っていたが、次第に慣れていった。
──きっと、記憶を喪う前のルーチェは、無邪気に笑う少女だったのだろう。
ヴィルジールはルーチェを見つめながら、緩々と目元を和らげていった。