からんころん、と。懐かしい音が聞こえる。だがそれが何の音だったのかは思い出せない。ただ漠然と、懐かしいという思いばかりが溢れている。
ふいに、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、ヴィルジールは目を開けた。
(──どういうことだ? ここは?)
何もない世界だ。触れられるものも、目に映るものも、全てが無。だが何かがヴィルジールを捕らえ、奥深くに引き摺り込もうとしている。それだけは分かっていた。
一歩先すら見渡せないほど真っ暗な闇の中、水の中に潜っているような声が繰り返され、ヴィルジールの身体に蔦のように絡みついてくる。気を抜いたら落っこちてしまいそうだ。
この夢から抜け出すにはどうしたらいいのか。絡みついてくる何かを振り払いながら、必死に声を上げる。
だがいくら動いても、目を凝らしても、そこは無でしかなく、ヴィルジールはさらに奥へ奥へと引き摺り込まれていった。
その時、声が聞こえた。ヴィルジールの名を呼ぶ声が。
──ヴィルジールさま。
ひとひらの雪のように儚げな声が、ヴィルジールを呼んでいる。
(───その、声は…)
暗闇の中、ヴィルジールは耳を澄ませた。花を揺らす風のような声を、一音も聞き逃さないように。
──ヴィルジールさま。
(……何故、呼ぶんだ)
自分を呼ぶ声は今も聞こえている。それが誰の声なのかも分かっている。だけど、何故呼んでいるのかが分からない。
だが、切々と響くその声に耳を傾けているうちに、右手があたたかいことに気づいた。
(────この、熱は)
右手を見ると、淡い光を纏っていた。あたたかくて優しいその光を、ヴィルジールは知っている。
光は右手を伝って全身へと広がっていき、ヴィルジールを包み込んでいった。
苦しかった呼吸が楽になった。身体から力を抜くと、目に映る世界が翼を広げるように光を放ち、鮮明になっていく。
ひときわ強い光を感じて、反射的に目を閉じ──そして開けた時。
ヴィルジールの目の前には、艶やかな黒髪を靡かせる美しい女性が佇んでいた。
『王の子よ。わたくしの声が聞こえますか?』
「…その王の子とやらが誰を指しているのかは分からないが、お前の声は聞こえている」
ヴィルジールは自由になった足を動かし、女性との距離を一歩詰めた。
『それはようございました』
とても美しい女性だ。澄んだ菫色の瞳に、雪のように白い肌、赤い花のような唇。今この場にエヴァンがいたら、間違いなく跪いて花束を差し出しているだろう。
「お前は誰なんだ?」
『我が名はソレイユ。遥か昔、この地の王と盟約を交わした者です』
ヴィルジールの問いかけに、謎の女性──ソレイユは、赤い唇を綻ばせながら答えた。
ソレイユという名に、ヴィルジールは眉を跳ね上げた。
その名を知らぬ王族はいない。ソレイユという名は、何百年も昔にオヴリヴィオ帝国に現れ、祖先と約束をしたという聖女の名だ。
「祖先が会ったという聖女か」
ソレイユは笑って頷くと、一度だけ後ろを振り返った。迫り来る何かとの距離を確認し、思わしくない結果だったのか──美しい顔が苦しそうに歪む。
『時間がないので、要件だけ伝えます。今すぐあの聖女をこの地から遠ざけなさい』
ヴィルジールの頭に、二人の顔が浮かぶ。陽だまりのように笑う少女と、造りもののような少女のふたりが。
「あの聖女とはどちらだ?」
『わたくしは彼女たちの名を知りません』
「……それではどちらなのか分からないんだが」
ソレイユは困ったように微笑んでいたが、何かを見つけたのか、ヴィルジールの右手を見遣った。
『貴方を想い、光を灯した者がまことの聖女です』
ヴィルジールは右手を見つめた。
右手に灯る熱は、まだ失われてはいない。夜空に聳える月のように、優しく寄り添ってくれている。
あたたかなその光からは、優しい気持ちが伝わってくる。雨上がりの空のように、初めて流れ星を見た時のように、世界が煌めいていることを伝えてくるかのように、ずっと。
『王の子よ。この地の王に託した、聖女の剣を捜しなさい』
「聖女の剣?」
ヴィルジールは顔を上げ、そして瞳を大きく動かした。ソレイユの身体が青い光を放ちながら、透けている。
『我が身と引き換えに生み出したあの剣ならば、聖者さえも滅することができます』
ぶわりと吹いた風が、ヴィルジールとソレイユの間を吹き抜ける。
『但し、使えるのは一度きり。その代償として何を失うかは分かりませんが、相手の魂ごと消滅させることができます』
聖女の剣も聖者も初めて聞く言葉だ。それがヴィルジールと何の関係があるのかは分からなかったが、剣には思い当たることがあった。
それは、ここ数日見ていた夢のことだ。
その夢とは、ひとりの少年が見ていた光景が映し出されていた。夢の中では白銀色の髪の女性が現れ、少年に一本の剣と包みを差し出してきた。それを少年が受け取ると、女性の髪は黒色に変わり、光の粉となって消えてしまう。
よい夢なのか、悪い夢なのか。何を伝えようとしていたのか分からない夢だったが、どうやらあの女性が今目の前にいるソレイユのようだ。
ソレイユは枯れる花のように笑うと、ヴィルジールの右手に触れた。
『王の子よ。あの日の約束を、必ず』
あの日の約束とは、いつの日のことだろうか。あの夢の出来事は、一体何百年前のことなのだろうか。なぜ彼女は、ヴィルジールを王の子と呼ぶのか。
謎は深まるばかりだが、右手に熱を灯し続ける存在に会うために、ヴィルジールは瞼を下ろした。