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第34話


 青い花が揺れている。その花は城でしか咲かないという不思議な花で、棘がない薔薇のような見た目をしている。


 レインユールと呼ばれ、帝国の王族に親しまれてきたその花は、いつしか国の紋章になっていた。


「──で、大至急僕を呼び戻した理由って何?」


 レインユールの花が揺れる花瓶を見つめていたノエルの瞳が、ヴィルジールへと注がれる。


 青色のケープコートを羽織り、首元に帝国の紋章の装飾品を付けているノエルは、ヴィルジールからの依頼で帝国内の要所を回っていた。


「単刀直入に聞く。イージスの聖女は二人いるのか?」


「はあ?」


 どういうことかと、ノエルが目で訴えてくる。

 ヴィルジールはノエルの視線に首肯して、紙を突きつけた。


 それはイージス神聖王国の聖女を名乗った、レイチェルという少女に関する報告書だ。とは言っても、外見と謁見時の出来事が細やかに書かれているだけで、彼女に関することは何も記されていない。


 調べようにも、イージスというのは元より情報の少ない国だ。隣接している国だが、歴史を辿っても交流はなく、調査をさせるにしても無の大地と貸した国から得られる情報は皆無だ。


 ノエルは報告書からヴィルジールに視線を戻すと、真剣な顔つきで口を開いた。


「そのレイチェルって女に会わせて」


「あの女も聖女なのか?」


「それは分からない。だけどイージスの聖女は、あんたが拾ったルーチェで間違いないよ。五年間二人の側にいた、僕が証人だ」


 ノエルはきゅっと唇を引き結ぶと、ヴィルジールの執務机に両手をついた。


「イージスの聖女は、たったひとり。唯一無二の力を持っていた、ルーチェだけだ」


 霧を払うような、強く澄んだ声からは、嘘偽りは一切感じられない。


 ヴィルジールは息を呑んでノエルを見つめた。


 魔法大国・マーズが誇る神童であり、最年少で大魔法使いの座に着いたノエル。神秘的なヴェールに包まれた君主が治める国・イージスの聖王から祝福を受け、聖女のこともよく知る彼がそう言うならば、間違いないのだろう。


 ヴィルジールは立ち上がり、ノエルと向き直った。


「会うのは構わないが、もう一つだけ聞きたいことがある。──聖女の剣というものに、聞き覚えはあるか?」


「聖女の剣?」


 眉を顰めるノエルに、ヴィルジールは深く頷いた。


「ここ数日、夢の中である女が現れ、不思議なものを見た。どうやらその女はソレイユという名の聖女で、祖先と盟約を交わしたという」


 濡羽色の艶やかな髪と、美しい唇を思い出す。何故かルーチェと重なって見えたことも。


「聖女の剣というものは知らない。だけど、ソレイユという名には憶えがある」


 ノエルは口元に手を当てながら、静かな声音で告げる。


「聖女ソレイユは、イージス神聖王国のはじまりの聖女だ」


 ヴィルジールは一瞬息を止め、抱いた驚きを鎮めてからまた息を吸った。



 ルーチェが再びヴィルジールと会ったのは、あの日から三日後のことだった。


「お招きありがとうございます」


 空色のサテンロングドレスが揺れる。光沢があり、なめらかな肌触りが特徴的なこのドレスは、ヴィルジールと城下に行った時に仕立ててもらったものだ。


 何を着たらいいのか、何が似合うのか分からず困惑していたルーチェに、ヴィルジールが自らが布を選び、デザインを決めてくれた。


 ルーチェは指先でドレスの裾を掴み、すっかり馴染んだお辞儀を披露した。


「その色も悪くない」


 ヴィルジールはルーチェの肩に一度だけ触れた後、左肘を差し出してきた。そこへ右手を添えると、彼は居館へと向かって歩き出す。その足取りは、今日一日の疲れが溜まっているのか、それともルーチェに合わせているのか、とてもゆったりとしていた。


「セシル様は領地に戻られたのですか?」


 ワイングラスを掲げてから、ふたりは会話を始めた。

 ルーチェがヴィルジールの体調を気遣う内容から始まり、ヴィルジールの口からは今日は料理長が腕を奮ったことや、新人の料理人が緊張のあまりに皿を何枚も割ったことが出てきて、ルーチェは笑みを零していた。


「ああ。セシルはノクスルーネという領地を治めている。領主は領地を何日も留守にすることはできないからな」


「ノクスルーネ…。それは遠いのですか?」


「近くはないな。ノクスルーネは帝国一果実の実りがよい、水と緑の地だ」


 ヴィルジールは皿の隅にある赤い丸い実にフォークを突き刺すと、目線の高さまで上げた。


「このセーブの実がノクスルーネ産だな。野菜の類に入るが、果物のような口当たりだ」


 ルーチェはヴィルジールの手元を見てから、自分の皿にも視線を落とした。丸く赤いそれは、親指と人差し指で作る輪っかくらいの大きさだ。


「それはヴィルジールさまのお好きな食べ物ですか?」


 ルーチェの質問に、ヴィルジールは意外そうな顔をした。


「嫌いではないが…特別好きというわけではない」


「でしたら、何がお好きなのですか?」


 質問の意図が分からないというふうに、ヴィルジールが怪訝そうに眉を寄せる。


 ルーチェは顔を綻ばせながら、セーブの実にナイフを入れた。


「以前、ヴィルジールさまも同じことを訊かれたではありませんか。特別美味しいと感じた味は何か、どんな色が好きか、好きな花の品種は何かと」


「それは……記憶を失う前のルーチェを知るために、必要だったからだが」


 言いながら、ヴィルジールは目をしばたたかせていた。何でこんなことを言わされているのかとでも言いたそうだ。


「わたしも同じです。ヴィルジールさま」


「同じ? 何がだ」


 至極真面目な顔つきでいるヴィルジールに、ルーチェは笑いかける。


「知りたいから、お尋ねしたのです。ヴィルジールさまのことが」


 名前と居場所をくれ、この国の景色を見せてくれた人。なんてことのないような顔で、ルーチェの胸をいっぱいに膨れ上がらせてみせた彼のことが知りたいと、ルーチェは思っているのだ。


 彼のことを知れれば、いつか恩返しをする時──怒らせてしまうようなものを贈ることはないだろうから。


 ヴィルジールは少しの間黙ってルーチェを見ていたが、やがてうなずいてフォークを置いた。


「ワインと、柔らかい肉が好きだ。色は……分からないが、派手なものは好きじゃない」


 ルーチェは頷きながら、切り分けたセーブの実を頬張る。食感は葡萄を皮ごと食べた時に似ているが、味は酸味と甘味のバランスが絶妙で、とても好きな味だった。


「花は、ウィンクルムが好きだ」


「ウィンクルム?」


 それはどんな花かと尋ねるルーチェに、ヴィルジールはそれ以上のことを語らなかった。


 食事を終えると、ルーチェはいつかの日のようにテラスへ連れ出された。彼はジャケットの内側から長細い箱を取り出し、ルーチェの目の前で開けてみせる。


「受け取れ」


 蓋を開けて差し出されたそれには、鮮やかな青色の宝石のペンダントが入っていた。


 声ひとつ発せずに、宝石に見入っているルーチェを見下ろすヴィルジールの瞳には、柔らかい光が滲んでいる。


「特別に作らせたものだ。ちょっとした仕掛けをしてある」


「仕掛け、ですか?」


「ああ。その時が来たら分かる」


 ヴィルジールはペンダントを取り出すと、ルーチェの背後に回り、慣れない手つきでチェーンを繋いでいった。


「……ありがとうございますっ…」


 ルーチェはヴィルジールを振り返り、胸元で輝く楕円形の青い宝石に触れながら、彼の顔を見上げる。


 名前を贈られた時とは違う気持ちが、胸いっぱいに広がっている。今この瞬間がとても幸せでたまらなくて、胸がくるしくなった。

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