ルーチェは玄関ホールでヴィルジールと別れ、迎えにきてくれたセルカとともに馬車に乗り込んだ。城の中心部である居館からソレイユ宮までは、ルーチェの足ではかなりの時間がかかるからだ。
「皇帝陛下との夕食会はいかがでしたか?」
「色々な話をお聞きすることができて、楽しかったです」
笑って答えるルーチェに、セルカは微笑み返す。
「素敵なひと時になられたようで、ようございました」
ルーチェははにかみながら頷き、胸元のペンダントに指を添えた。目を落とすと、小窓から差し込む月明かりを受けて、神秘的な輝きを放っていた。
ペンダントを贈った理由は分からないが、仕掛けがあると言っていた。いつの日のためなのかは分からないが、その日を見据えて作らせたのだろう。
(……頂いてばかりだわ)
ルーチェはヴィルジールからの贈り物を、指を折って数えた。名前、住居、青色のドレス、花市で買ってもらったお菓子と、何着ものドレス。直接ではないが、クローゼットに入っているその他の衣装や部屋の調度品も、彼の指示によって用意されたものだ。
とてもとても、両手の指だけでは数えきれない。
「セルカさん。ウィンクルムの花をご存知ですか?」
「存じております。確か、城の庭園に一年中咲いていたと思いますが」
ルーチェは瞳を輝かせながら、セルカの手を取った。
「明日、私をそこへ連れて行ってください…!」
セルカはルーチェからの申し出を不思議に思いながらも、躊躇うことなく頷いた。
オヴリヴィオ帝国の象徴とも云えるこの巨大な城には、城門と居館の間に美しい庭園がある。年に一度、その年の作物の実りに感謝を捧げるために、庭園を開放して民を招く行事の日以外では、庭師を除いた立ち入りが禁じられている。
だが、今回は特別に許しが出た。ダメ元で願い出たところ、ヴィルジールが「構わない」と返事をしたのだ。
付き添いのセルカとともに、ルーチェは庭園の門を開けた。鍵はつい先ほど、エヴァンから手渡されたものだ。
「庭園に来て、何をするつもりだ?」
ヴィルジールの命で護衛として来ているアスランが、なんとも言えない顔でルーチェを見ている。
ルーチェは花の図鑑から写した花の絵を手に、辺りを見回しながら歩いていた。
「ウィンクルムの花を探しているのです。種があったら、庭師の方に分けてもらおうかと」
「ウィンクルム? 年中そこら辺で咲いてるあの花を育てたいのか?」
城下の花屋に行って買った方が早い、とアスランが鼻で笑う。ルーチェは頬を膨らませながら、歩く速度を上げた。
「買ったものでは意味がないのです」
「どうして意味がないんだ?」
「それは、内緒です」
「……まさか花探しのために、俺を寄越したんじゃないだろうな」
アスランががっくりと項垂れている姿が新鮮で、ルーチェは笑った。
ウィンクルムの花は、庭園の中心部に生い茂っていた。ルーチェの腰ほどの高さの草丈に、小さな花を無数に咲かせている。花は白くて小さいが、とても愛らしいものだった。
(この花が、ウィンクルムの花…)
夢中になって観察していると、ルーチェへと向かって影が伸びてきた。視線を持ち上げると、花壇を挟んだ向こう側に男の人が立っていた。
「お客様とは珍しいものですな。それもウィンクルムを見に来られるとは」
男性は被っていた帽子を下ろすと、深々と頭を下げた。足元にはジョウロやハサミ、スコップといった植物の手入れ道具が入った箱がある。
「初めまして。ウィンクルムの花の種が欲しいのですが、貴方様は庭師の方でしょうか?」
「ええ、そうですよ。すぐにご用意いたしましょう」
男性は帽子を被り直すと、一番近くにある花を一輪手折った。そして器用に花弁を取り、顕になった黄色い膨らみを摘んで、軽く上下に振る。
すると、中から茶色い小粒の物が出てきた。
「これが種です。七日ほどで芽が出るでしょう。ウィンクルムはとても強く逞しい花でしてね、同じ場所に繰り返し咲き続けるのです」
ルーチェは両手で種を受け取り、セルカが広げてくれたハンカチに乗せて包み込んだ。
「ありがとうございます。庭師様」
後ろにいるアスランが「信じられない」と呟いたが、ルーチェは気にも止めずに笑顔でお礼を言い、他の花も眺めながら庭園を後にした。
ソレイユ宮に戻ったルーチェは、早速庭に出ていた。花を植えたいと言ったルーチェに、セルカもイデルも自分たちが代わりにやると申し出てきたが、ルーチェは笑顔で断った。
日頃の感謝と、これまでのお返しに、いちばん好きな花を贈りたいのだ。自らの手で育て、咲かせたものでなければ意味がない。
おろおろするイデルと、根負けしたセルカと笑い合いながら、ルーチェはウィンクルムの花の種を植えたのだった。
◇
──その夜、ルーチェは不思議な声を聞いた。
『──聖女よ。イージスのいとし子よ』
鈴のように涼しい声が、テラスの方から聞こえてきた。
ルーチェはベッドで目を閉じていたが、すぐに起きて布団を捲った。ブランケットを羽織り、声の主を探して歩き出す。
『──わたくしはここです。聖女』
声はやはりテラスからだ。閉じていたカーテンを開けると、ガラス扉の向こうには朧げな光が浮かんでいる。──正確には、柵の向こう側に。
鍵を開けてテラスに出ると、光の玉がルーチェの目の前にやってきた。
それは、今にも消えてしまいそうな、小さな光だった。
『よかった。声が届くようになったのですね』
「……前にも私を呼んだことがあるのですか?」
『ええ、あなたがこの地に来た日からずっと。何度も呼びかけたのですが、力を喪ったあなたに届けることは難しかったのでしょう。あの魔法使いが光を灯し、あなたも光を灯せるようになったことで、聞こえるようになったようですね』
ルーチェは胸元に手を手繰り寄せてから、光に手を伸ばした。
「あなたは…誰なのですか?」
光の玉はゆらゆらとしながら、ルーチェの手に乗った。感触はないが、その光はとてもあたたかい。
『わたくしは、あなたと同じ魂を持つ者。この地でずっと、あなたが訪れるのを待っていました』
「私と同じ魂を…?」
『ええ。わたくしはあなたであり、あなたはわたくしなのです』
ルーチェは意味が分からず、ブランケットを握る右手に力を込めた。
光の玉が右手から離れ、ルーチェのまわりをぐるりと一周する。今度は上から下へと動くと、ルーチェの顔の目の前で止まった。
『翼はどこへやったのですか』
「翼…ですか?」
『聖女の翼です』
「聖女には翼があるのですか? 私は空を飛べるのですか?」
光の玉がぐるぐると回りだした。かと思えば、ぶわっと風を吹かせて、ルーチェの髪を乱す。
『ああ、なんということでしょう。力を喪失しているだけでなく、翼もないとは』
光の玉が上下左右を忙しなく動きながら、あたふたと喋っている。その光景がおかしくて、ルーチェが口の端に笑みを滲ませた時。
激しい光が落ちたかと思えば、凄まじい爆風が起き、ルーチェを部屋の奥へと吹っ飛ばした。