「っ………、な、何が…」
背中を壁に強打したのか、身体を動かした瞬間に鈍い痛みが奔った。ルーチェは顔を顰めながら、けほけほと咳き込む。
『──聖女よ、大丈夫ですか!』
飛ばされたルーチェを追ってきたのか、光が宙を動き回っている。
ルーチェは喉元に手を当てながら頷く。壁に手をついて足に力を入れたが、立つことができなかった。自分の身体だというのに、上手く動かせない。
(──何が起きたの)
やっとの思いで顔を上げると、テラスの前に人影があった。
ルーチェは身構え、目を凝らす。立ち上る黒い煙の向こうから、誰かが近づいてきている。
「──やっと、貴女の顔を拝めるわ」
歌うような声が何かを唱え、ルーチェの身体を壁に縫い付けた。抜け出そうにも体に力が入らず、どうすることもできない。
しかし首から上だけは動かすことが出来たので、ルーチェは息を凝らすように、声の主へと視線を送った。
そこにいるのは、黄金色の髪をたなびかせている美しい少女だった。ルーチェと同じ菫色の瞳が、底知れない光を放っている。
少女は薔薇色の唇を横に引くと、荒れ狂う風をルーチェに向けて放った。
さらなる衝撃を覚悟して、ルーチェが目蓋を閉じた時。
まばゆい光がルーチェの目蓋の裏を満たしていった。
驚き、目を見開いたルーチェの前には、燃え盛る炎の柱が立っていた。それはルーチェの盾となるように、今も燃え続けている。
何故か熱くない──それどころか建物を燃やしてすらいない不思議な炎の向こうには、見知った少年の姿があった。
「──初めまして、レイチェルさんとやら。会えて嬉しいよ」
「───ノエルさん!」
少女は弾かれたように跳び退り、一瞬で距離を取る。その美しい顔は苦々しく歪められ、今度は黒い煙を纏う槍を手にしていた。
ノエルは少女へと向けて何発か炎を放つと、ルーチェの傍まで駆け寄る。
「怪我はない?」
「ありません、が…」
ルーチェは自由が利かない身体に目を遣った。さきほど少女が唱えた呪文が光の輪を生み出し、それが杭となって、ルーチェの胸元、腹部、太腿、足首を縛り付けているのだ。
「………これは…」
ノエルの表情が険しいものへと変わる。
「──ふふ、驚いた? 可愛い魔法使いさん」
少女が槍を手に駆けてくる。ノエルはそれを易々と交わすと、一瞬で光の剣を出して、少女の槍にぶつけた。
「──どうやら貴女も聖女みたいだね」
「──ええ、そうよ。わたくしはイージス神聖王国の聖女」
「──ふうん。レイチェルなんて名前、聞いたこともなければ、神殿で見たこともないけど?」
黒い槍と光の剣が交わり、幾度も金属音が響き渡る。
少女──レイチェルはルーチェからノエルへと標的を変えたのか──或いは変えざるを得なかったのか、ふたりは激しい戦闘を繰り広げている。
「聖女はわたくしよ!」
月明かりの下、土埃を舞い上げながら、レイチェルが槍を振り下ろす。
ノエルはレイチェルの攻撃を軽く受け止め、受け流し、弾き返した。そして体勢を崩したレイチェルの首元に剣を突きつけると、殺気を含んだ視線で睨みつけた。
「これ以上僕を怒らせたら、殺すよ」
「それはわたくしの──」
「イージス神聖王国の聖女はあんたなんかじゃない。聖王様と運命で結ばれている、ルーチェだけだ」
恐ろしく冷たい声音だ。ノエルがそんな風に話すのを、ルーチェは初めて目にする。
静かながら、明らかに怒気の滲んだ顔つきに、レイチェルは怯えていたように見えた。
だが彼女は高らかに笑い出した。
「ならばわたくしを殺してごらんなさい! 聖王の加護を持つ者に、聖女の命を奪うことなど出来ないのよ!」
ノエルの瞳の色が濃くなる。確かめるように手元を見ると、レイチェルに突きつけた剣が震えていた。
「………そういうことか」
ノエルは剣を下ろすと、今度は全身に光を纏わせた。ルーチェを背に庇うようにして間に立ち、目も眩むような光を身体から発する。
「確かにあんたは、イージス神聖王国の聖女だね」
「……え…」
思わず吐いて出たルーチェの声に、ノエルは勝気な微笑みで応えた。大丈夫だと、伝えるように。
「だけど、それは今じゃない。──レイチェル、あんたは何代か前の聖女だね?」
「だとしたら?」
肩で息をしながら、レイチェルは歪んだ笑みを向ける。
ノエルは右の手のひらをぎゅっと握りしめると、感傷に浸るように目を閉じた。
「あんたからはイージスの聖女と同じ、あの光が感じられるけど──その身体からは、まがい物の匂いがするよ。嫌な臭いで、吐きそうだ」
ノエルのその言葉が、真実なのだろうか。
レイチェルの美しい顔から表情が消え、赤い唇がわなわなと震えた。その一瞬、その瞬間。ルーチェを縛りつけていた光の鎖が、粉々に砕け散った。
この時を待っていたのか、または狙っていたのか。ノエルが身を翻し、両手を広げてルーチェを抱きしめる。
ノエルの背中越しに見たレイチェルは、ふたつの目から涙を落としながら、恐ろしい叫び声を上げた。
人ではない、悍ましい声が響き渡る。耳を劈くような音で頭が割れそうになったが、ノエルがルーチェの片耳に触れた瞬間、ルーチェの耳から一切の音が消えた。
建物が揺れ、壁が崩れ、身体がぐらりと傾く。床が抜け落ちたのだと気づいた時にはもう、目の先には硬い石の床があった。
(お、落ちるっ……!)
ルーチェを抱きしめるノエルの腕が強まる。
「──くそっ、あの女っ…」
「ノ、ノエルさっ…」
悔しげな顔をするノエルと、見慣れた床を交互に見てから、ルーチェはぎゅっと目を瞑った。
どうか植えたばかりのウィンクルムの種が、傷つけられませんようにと。そう願って、身体に力を入れたのだが──。
「───約束の合図はどうした? 魔法使い」
いるはずのない声がして、ルーチェは目を開ける。
目蓋の向こうには、震えるほどの冷気をまとうヴィルジールが、怒りを露わにして佇んでいた。
そしてルーチェの身体は、真っさらで柔らかい雪の上に落っこちた。