目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第36話


「っ………、な、何が…」


 背中を壁に強打したのか、身体を動かした瞬間に鈍い痛みが奔った。ルーチェは顔を顰めながら、けほけほと咳き込む。


『──聖女よ、大丈夫ですか!』


 飛ばされたルーチェを追ってきたのか、光が宙を動き回っている。


 ルーチェは喉元に手を当てながら頷く。壁に手をついて足に力を入れたが、立つことができなかった。自分の身体だというのに、上手く動かせない。


(──何が起きたの)


 やっとの思いで顔を上げると、テラスの前に人影があった。


 ルーチェは身構え、目を凝らす。立ち上る黒い煙の向こうから、誰かが近づいてきている。


「──やっと、貴女の顔を拝めるわ」


 歌うような声が何かを唱え、ルーチェの身体を壁に縫い付けた。抜け出そうにも体に力が入らず、どうすることもできない。


 しかし首から上だけは動かすことが出来たので、ルーチェは息を凝らすように、声の主へと視線を送った。


 そこにいるのは、黄金色の髪をたなびかせている美しい少女だった。ルーチェと同じ菫色の瞳が、底知れない光を放っている。


 少女は薔薇色の唇を横に引くと、荒れ狂う風をルーチェに向けて放った。


 さらなる衝撃を覚悟して、ルーチェが目蓋を閉じた時。


 まばゆい光がルーチェの目蓋の裏を満たしていった。


 驚き、目を見開いたルーチェの前には、燃え盛る炎の柱が立っていた。それはルーチェの盾となるように、今も燃え続けている。


 何故か熱くない──それどころか建物を燃やしてすらいない不思議な炎の向こうには、見知った少年の姿があった。


「──初めまして、レイチェルさんとやら。会えて嬉しいよ」


「───ノエルさん!」


 少女は弾かれたように跳び退り、一瞬で距離を取る。その美しい顔は苦々しく歪められ、今度は黒い煙を纏う槍を手にしていた。


 ノエルは少女へと向けて何発か炎を放つと、ルーチェの傍まで駆け寄る。


「怪我はない?」


「ありません、が…」


 ルーチェは自由が利かない身体に目を遣った。さきほど少女が唱えた呪文が光の輪を生み出し、それが杭となって、ルーチェの胸元、腹部、太腿、足首を縛り付けているのだ。


「………これは…」


 ノエルの表情が険しいものへと変わる。


「──ふふ、驚いた? 可愛い魔法使いさん」


 少女が槍を手に駆けてくる。ノエルはそれを易々と交わすと、一瞬で光の剣を出して、少女の槍にぶつけた。


「──どうやら貴女も聖女みたいだね」


「──ええ、そうよ。わたくしはイージス神聖王国の聖女」


「──ふうん。レイチェルなんて名前、聞いたこともなければ、神殿で見たこともないけど?」


 黒い槍と光の剣が交わり、幾度も金属音が響き渡る。


 少女──レイチェルはルーチェからノエルへと標的を変えたのか──或いは変えざるを得なかったのか、ふたりは激しい戦闘を繰り広げている。


「聖女はわたくしよ!」


 月明かりの下、土埃を舞い上げながら、レイチェルが槍を振り下ろす。


 ノエルはレイチェルの攻撃を軽く受け止め、受け流し、弾き返した。そして体勢を崩したレイチェルの首元に剣を突きつけると、殺気を含んだ視線で睨みつけた。


「これ以上僕を怒らせたら、殺すよ」


「それはわたくしの──」


「イージス神聖王国の聖女はあんたなんかじゃない。聖王様と運命で結ばれている、ルーチェだけだ」


 恐ろしく冷たい声音だ。ノエルがそんな風に話すのを、ルーチェは初めて目にする。


 静かながら、明らかに怒気の滲んだ顔つきに、レイチェルは怯えていたように見えた。 


 だが彼女は高らかに笑い出した。


「ならばわたくしを殺してごらんなさい! 聖王の加護を持つ者に、聖女の命を奪うことなど出来ないのよ!」


 ノエルの瞳の色が濃くなる。確かめるように手元を見ると、レイチェルに突きつけた剣が震えていた。


「………そういうことか」


 ノエルは剣を下ろすと、今度は全身に光を纏わせた。ルーチェを背に庇うようにして間に立ち、目も眩むような光を身体から発する。


「確かにあんたは、イージス神聖王国の聖女だね」


「……え…」


 思わず吐いて出たルーチェの声に、ノエルは勝気な微笑みで応えた。大丈夫だと、伝えるように。


「だけど、それは今じゃない。──レイチェル、あんたは何代か前の聖女だね?」


「だとしたら?」


 肩で息をしながら、レイチェルは歪んだ笑みを向ける。

 ノエルは右の手のひらをぎゅっと握りしめると、感傷に浸るように目を閉じた。


「あんたからはイージスの聖女と同じ、あの光が感じられるけど──その身体からは、まがい物の匂いがするよ。嫌な臭いで、吐きそうだ」


 ノエルのその言葉が、真実なのだろうか。


 レイチェルの美しい顔から表情が消え、赤い唇がわなわなと震えた。その一瞬、その瞬間。ルーチェを縛りつけていた光の鎖が、粉々に砕け散った。


 この時を待っていたのか、または狙っていたのか。ノエルが身を翻し、両手を広げてルーチェを抱きしめる。


 ノエルの背中越しに見たレイチェルは、ふたつの目から涙を落としながら、恐ろしい叫び声を上げた。


 人ではない、悍ましい声が響き渡る。耳を劈くような音で頭が割れそうになったが、ノエルがルーチェの片耳に触れた瞬間、ルーチェの耳から一切の音が消えた。


 建物が揺れ、壁が崩れ、身体がぐらりと傾く。床が抜け落ちたのだと気づいた時にはもう、目の先には硬い石の床があった。


(お、落ちるっ……!)


 ルーチェを抱きしめるノエルの腕が強まる。


「──くそっ、あの女っ…」

「ノ、ノエルさっ…」


 悔しげな顔をするノエルと、見慣れた床を交互に見てから、ルーチェはぎゅっと目を瞑った。


 どうか植えたばかりのウィンクルムの種が、傷つけられませんようにと。そう願って、身体に力を入れたのだが──。


「───約束の合図はどうした? 魔法使い」


 いるはずのない声がして、ルーチェは目を開ける。


 目蓋の向こうには、震えるほどの冷気をまとうヴィルジールが、怒りを露わにして佇んでいた。


 そしてルーチェの身体は、真っさらで柔らかい雪の上に落っこちた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?