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第37話


 落ちたルーチェを受け止めたのは、さらさらとした感触の雪だった。冷たいはずのそれは、春の夜のようにほんの少しひんやりとするだけで、不思議と寒さを感じない。


「───怪我は?」


 ヴィルジールがルーチェへと手を差し出す。

 ルーチェは首を左右に振ってから、ヴィルジールの手に自分の手を乗せた。大きくて温かい手がルーチェの手を握り返し、力強く引き上げる。


「ちょっと、僕のことは無視?」


 すぐ後ろで、共に落ちたノエルが不服そうな顔で、服に付着した雪を払い落としている。


 ルーチェは羽織っていたブランケットをタオル代わりにと差し出そうとしたが、ヴィルジールに止められてしまった。彼はそのままルーチェを背に隠すようにして進み立つ。


「自業自得だろう」


「仕方ないじゃん。相手が悪かったんだから」


 ノエルは頬を膨らませながら、ヴィルジールを睨んでいる。その姿はルーチェと話す時よりも随分幼く見え、こんな状況だというのに微笑ましく思えてしまった。

 そこへ、慌ただしい足音が近づいてくる。


「──陛下ーー!!」


 振り返ると、エヴァンが駆けてくるのが見えた。彼の後ろにはアスランとセルカの姿もある。


「ジル!!」


「ルーチェ様!」


 ルーチェはセルカの傍に駆け寄り、無事を確かめ合った。セルカもルーチェと同じく部屋で休んでいたのか、使用人の制服ではなく寝間着姿だ。


「セルカさん…!お怪我はありませんか?」


「ございません。ルーチェ様は……傷が」


 セルカが痛ましげな顔をしながら、ルーチェの腕にそっと触れる。どこかで切ったのか、軽い切り傷から少しだけ血が出ていた。


「それで、例の聖女はどこだ?」


 アスランが剣を抜いて、ヴィルジールの隣に並び立つ。


「上だ」


 ヴィルジールの声で、全員が顔を上げる。ルーチェとノエルが落ちてきた天井穴から、悍ましい空気を纏うレイチェルがゆっくりと下降してきていた。


「ねぇ、どうして?」


 レイチェルの目がルーチェへと向けられる。菫色だった彼女の瞳は今は真っ赤に染まっていた。


「貴女にはあの方がいるのに、他の男の手を取ったのはどうして?」


「え……?」


 レイチェルの問いかけに、ルーチェはごくりと喉を鳴らす。


 あの方とは、誰のことだろうか。他の男とは──ヴィルジールのことだろうか。だが彼はルーチェが起き上がるのを助けてくれただけで、ルーチェもその優しさに甘えただけだ。


 この世の全てに絶望したような、感情のないレイチェルの眼差しがルーチェへと注がれている。その間に、まわりの壁や天井ががらがらと崩れ、嫌な音を響かせていた。


 そもそも彼女は何者なのだろうか。何故ルーチェを襲い、ノエルが直ぐに駆けつけることが出来たのか。下の階にヴィルジールが待機していたと思われるが、二人は彼女のことを知っていて──ルーチェが襲われることを予測していたのだろうか。


 ルーチェが無意識に一歩、足を前に踏み出したその時。

 思考を妨げるほどの冷気が、辺り一帯に漂った。


「貴様の用件は俺が聞く」


 恐ろしく冷たい声を吐いたヴィルジールが、煌々と光る氷の剣を手に進み出る。彼のそんな声を聞いたのは久しぶりで、ルーチェは目を大きく開いた。


 ──怒っている。それも途轍もなく。

 静かながら、明らかに怒気の滲んだ声だ。


「わたくし、貴方に用はないの。眠っててくださる?」


 赤く染まったレイチェルの目がヴィルジールへと向けられる。彼女は両手を広げ、細い竜巻のような風を起こすと、ヴィルジールへと向けて放った。


 だが、その風は凄まじい速さで降りてきた小さな光が遮断した。ルーチェを呼んだ光──聖女ソレイユの光が、ヴィルジールの盾となり、全てを消失させたのだ。


 突然目の前に現れた光を見て、ヴィルジールは目を見張っていたが、レイチェルはさほど驚いてはいないようで。


「……まあいいわ。わたくしの目的は果たしたから」


「果たしただと?」


 レイチェルは妖艶に微笑むと、ぶわりと風を起こして宙へと消えていった。


 ぷつりと、何かが切れた気がした。その不可解な感覚に、ルーチェの身体はぐらりと傾く。


 瞬時に気づいたヴィルジールがルーチェの腕を掴み、反対の手で抱き寄せてくれたが、それでもルーチェは立っていることができずに崩れ落ちた。


「どうした。気分が悪いのか」


 ルーチェは震える唇を開いた。


「…分かりません。何かが切れたような…消えた、ような…」


 頭の奥で、糸のようなものが切れた感覚がした。長時間何かをしていて、集中力が切れてしまった時と似ている。


 ルーチェと何かを繋いでいたものが、ぷっつりと切れた。いや、消えたという表現の方が正しいだろうか。


 脚に力を入れても、ゆっくりと呼吸をしても、心臓が悲鳴を上げるかのように脈打っている。その音は次第に遠ざかっていき、ついにはヴィルジールの顔まで朧げになっていった。


 頭の中をかき混ぜられ、覗かれていような。深い水底に吸い込まれ、そして引き摺り込まれるような感覚がルーチェを襲う。


「ルーチェ!」


 ヴィルジールがらしくない顔をしている。


「────」


 声が、音にならない。その名を呼んで、大丈夫だと伝えたいのに、彼の鼓膜を揺らすことはできなさそうだ。


「ルーチェ!一体どう───」


 何かに引き摺り込まれるように、ルーチェは意識を手放した。


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