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第38話


 細い身体が腕に沈む。初めは傾いたところを引き寄せ、支えていただけだったが、糸が切れたように動かなくなった。


 突然意識を失ったルーチェを抱き止めるヴィルジールの手に、じりじりと力が籠る。本人は無意識のうちにやっていたようだが、エヴァンだけは気づいていた。


「陛下。とりあえずここを出ましょう。今にも崩れそうです」


 ヴィルジールの肩にエヴァンの手が添えられる。間にいるアスランは剣を収め、崩れつつある天井を見上げた。


「おい、ジル。早く出るぞ」


「……外に出たら、至急宮廷医の手配をしろ」


「こんな夜中に呼びつけるなんて、嫌な雇い主ですねぇ」


 エヴァンは笑いながらも、一同を先導するように駆け出した。その後にはルーチェを抱き上げたヴィルジール、セルカ、アスラン、ノエルと続き、崩壊していくソレイユ宮から脱出したのだった。


 全員がソレイユ宮の外に出て、崩れていく建物を振り返った時。


 どこからともなく小さな光が現れ、ヴィルジールの前で止まった。


「……なんだ?」


『わたくしです。王の子よ』


 つい最近聞いたばかりの声に、ヴィルジールは眉を跳ね上げる。彼女には訊きたいことがいくつもあるが、ヴィルジールは今、意識を失ったルーチェを抱いている。


「……手短にしろ。早く医者に診せたい」


『そんなものにどうこうできる問題ではありません』


「怪我や病気でないと言いたいのか?」


 ヴィルジールの質問に答えるかのように、小さな光の玉が眩しく発色する。そして、さらに大きく光ったかと思えば、その輝きの中から、夢で会った時と同じ姿のソレイユが現れた。


「……ねぇ氷帝。その人、誰?」


 訝しげな顔をしているノエルが、透けているソレイユを見て目を丸くさせている。だが他の人間には彼女の姿が見えていないのか、エヴァンは瞬きを繰り返し、アスランは硬直している。


「そこに何かいるのですか?」


「おいエヴァン、馬鹿なことを言うな!いるわけないだろう!」


「いやだって、陛下とノエル様には見えているようではありませんか。喋ってますし。もしかしてオバ──」


「うわああああ!」


 突然叫び声を上げたかと思えば、顔面蒼白になったアスランが倒れた。どんなに凶暴な獣が現れようと、冷静沈着に討伐してきた騎士だというのに。


「やれやれ、アスランは。こんなことで失神するとは」


「お前たちには見えていないのか?」


「ええ、全く。なーんにも見えませんし、聞こえませんよ。陛下が独り言を言うなんて、明日は大嵐かなあって思うくらい」


 よいしょ、とエヴァンはアスランの肩を担ぐ。


「では陛下、私はお先に。あ、セルカ殿も行きましょう」


 ヴィルジールが頷くと、エヴァンはアスランとセルカを連れて歩き出した。


 ヴィルジールとノエル、ぐったりしているルーチェとソレイユの四人だけになると、ソレイユが赤い唇を開いた。


『わたくしの声は、聖者にしか聞こえません。その魔法使いには届いているようですが』


 聖者という単語に、ヴィルジールは眉を寄せる。それは何だとでも言いたげに。


「祝福を…加護を頂いた人間が、少しだけ聖者の力を使えるのは知ってるけど。氷帝も聖者だったの? ていうかその女の人は誰?」


「聖女ソレイユだ」


 ノエルは「ええ?!」と素っ頓狂な声を上げる。


 ソレイユはノエルに優しく笑いかけると、ヴィルジールと向き直り、その腕に抱かれているルーチェを見下ろした。


『長い間、ずっと待っていたのです。この地の王とわたくしの魂が、再び巡り逢う日を』


 この地の王──それ即ち、オヴリヴィオ帝国の皇帝のことだろう。ソレイユが祖先と盟約を交わしたという伝説は、王族ならば誰もが知っていることだ。


 今の皇帝はヴィルジールだが、その前にも何十人と居たというのに。彼女の声が届いたのは、ヴィルジールだけなのだろうか。だとしたら、それは何故なのだろうか。


 ソレイユは美しい微笑みを飾ると、ルーチェの頬に触れた。


『この子はわたくしであり、わたくしはこの子なのです』


「生まれ変わりだとでも言いたいのか」


『それに近いでしょう。今のわたくしは、残留思念のようなものです』


 ソレイユが纏う光が、じりじりと弱くなっていく。


 初めてソレイユと言葉を交わした時、彼女は時間がないと言っていた。何百年という月日を待っていたからなのか、元より消えつつあるものだったからなのかは分からないが。


 ソレイユは左手でルーチェの頬を、右手でヴィルジールの頬に触れ、懐かしむように、愛おしむように撫でると、最後の力を振り絞るかのように唇を開ける。


『遥か昔、この地の王と約束をしたのです。いつか巡り巡ったわたくしの魂が、この地を訪れたら……聖女の剣を返すようにと』


「その聖女の剣というものを、俺は聞いたことがない」


 ソレイユは微笑みを浮かべながら、ゆったりと首を左右に振る。そして二人から手を離すと、胸の前で両手を重ね、目蓋を下ろした。


『王の子よ。わたくしと約束を交わした者の名はヴィセルク。青い瞳の美しい少年でした』


 ヴィルジールは目を見張った。

 ──ヴィセルク。それはこのオヴリヴィオ帝国の初代皇帝と同じ名前だ。彼の治世は、何百年どころか千まで遡る。


 黒色の睫毛が揺れる。ソレイユはうっすらとまぶたを持ち上げ、憂うような表情でルーチェを見た。


『翼をどこへやったのかと思えば……あれと引き換えに、あなたはこの国に結界を張っていたのですね。レイチェルとやらに破られてしまいましたが』


 ルーチェには翼があったのだろうか。ともすると、空を飛べたのだろうか。意味が分からずヴィルジールは困惑していたが、ノエルはその意味を理解していたようで。


「……ソレイユ様。聖女にとって、翼はとても大切なものだと聞いています。それは来たる日に使うものだと」


『ええ、そうですね。わたくしの後の聖女たちも、そのようにしていたはずです。ですが、たとえ引き換えにしてでも──守りたいものがあったのではないでしょうか』


 ノエルの瞳が揺れる。彼もソレイユも、痛ましげにルーチェを見つめている。


『王の子よ。聖女を降ろしてください』 


 ヴィルジールは黙って頷き、ルーチェをゆっくりと降ろした。


 冷たい夜風が、ルーチェの白銀色の髪を揺らす。髪で隠れていたのか、肩や腕には痣や傷があった。レイチェルに襲われた時のものだろう。


 ソレイユが音もなくルーチェに近づく。白い右手を頬に添え、左手でルーチェの手を握ると、こつんと額を合わせた。


『運命の聖女よ。わたくしの残りの力をあなたに捧げます。これできっと、あなたの聖王の居場所が分かるようになるはずです』


 ルーチェを挟んだ向かい側にいたノエルが、がくっと膝をついた。縋るような目でソレイユを見ながら、碧色の瞳を潤ませる。


「ソレイユ様…!聖王様の居場所が分かったら、聖女は記憶も力も取り戻せますかっ…?!」


 ふ、とソレイユが消えそうな微笑みを飾る。そして身体中からまばゆい光を発すると、ルーチェを包み込んだ。


 溢れんばかりの光がこぼれ、ヴィルジールとノエルまでもを覆う。この世の全ての闇を掻き集めても、彼女の光には敵わないだろう。それほどまでに、はじまりの聖女であるソレイユの光はとても強く、神秘そのものであった。


『どうか、聖王とともに、わたくしの剣で──あの方を、救ってください』


 ソレイユはルーチェに向かってそう囁くと、呆然と光の束を見つめていたヴィルジールへ目を向ける。彼女はこの上なく美しく微笑みながら、瞬きをするように消えた。

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