細い身体が腕に沈む。初めは傾いたところを引き寄せ、支えていただけだったが、糸が切れたように動かなくなった。
突然意識を失ったルーチェを抱き止めるヴィルジールの手に、じりじりと力が籠る。本人は無意識のうちにやっていたようだが、エヴァンだけは気づいていた。
「陛下。とりあえずここを出ましょう。今にも崩れそうです」
ヴィルジールの肩にエヴァンの手が添えられる。間にいるアスランは剣を収め、崩れつつある天井を見上げた。
「おい、ジル。早く出るぞ」
「……外に出たら、至急宮廷医の手配をしろ」
「こんな夜中に呼びつけるなんて、嫌な雇い主ですねぇ」
エヴァンは笑いながらも、一同を先導するように駆け出した。その後にはルーチェを抱き上げたヴィルジール、セルカ、アスラン、ノエルと続き、崩壊していくソレイユ宮から脱出したのだった。
全員がソレイユ宮の外に出て、崩れていく建物を振り返った時。
どこからともなく小さな光が現れ、ヴィルジールの前で止まった。
「……なんだ?」
『わたくしです。王の子よ』
つい最近聞いたばかりの声に、ヴィルジールは眉を跳ね上げる。彼女には訊きたいことがいくつもあるが、ヴィルジールは今、意識を失ったルーチェを抱いている。
「……手短にしろ。早く医者に診せたい」
『そんなものにどうこうできる問題ではありません』
「怪我や病気でないと言いたいのか?」
ヴィルジールの質問に答えるかのように、小さな光の玉が眩しく発色する。そして、さらに大きく光ったかと思えば、その輝きの中から、夢で会った時と同じ姿のソレイユが現れた。
「……ねぇ氷帝。その人、誰?」
訝しげな顔をしているノエルが、透けているソレイユを見て目を丸くさせている。だが他の人間には彼女の姿が見えていないのか、エヴァンは瞬きを繰り返し、アスランは硬直している。
「そこに何かいるのですか?」
「おいエヴァン、馬鹿なことを言うな!いるわけないだろう!」
「いやだって、陛下とノエル様には見えているようではありませんか。喋ってますし。もしかしてオバ──」
「うわああああ!」
突然叫び声を上げたかと思えば、顔面蒼白になったアスランが倒れた。どんなに凶暴な獣が現れようと、冷静沈着に討伐してきた騎士だというのに。
「やれやれ、アスランは。こんなことで失神するとは」
「お前たちには見えていないのか?」
「ええ、全く。なーんにも見えませんし、聞こえませんよ。陛下が独り言を言うなんて、明日は大嵐かなあって思うくらい」
よいしょ、とエヴァンはアスランの肩を担ぐ。
「では陛下、私はお先に。あ、セルカ殿も行きましょう」
ヴィルジールが頷くと、エヴァンはアスランとセルカを連れて歩き出した。
ヴィルジールとノエル、ぐったりしているルーチェとソレイユの四人だけになると、ソレイユが赤い唇を開いた。
『わたくしの声は、聖者にしか聞こえません。その魔法使いには届いているようですが』
聖者という単語に、ヴィルジールは眉を寄せる。それは何だとでも言いたげに。
「祝福を…加護を頂いた人間が、少しだけ聖者の力を使えるのは知ってるけど。氷帝も聖者だったの? ていうかその女の人は誰?」
「聖女ソレイユだ」
ノエルは「ええ?!」と素っ頓狂な声を上げる。
ソレイユはノエルに優しく笑いかけると、ヴィルジールと向き直り、その腕に抱かれているルーチェを見下ろした。
『長い間、ずっと待っていたのです。この地の王とわたくしの魂が、再び巡り逢う日を』
この地の王──それ即ち、オヴリヴィオ帝国の皇帝のことだろう。ソレイユが祖先と盟約を交わしたという伝説は、王族ならば誰もが知っていることだ。
今の皇帝はヴィルジールだが、その前にも何十人と居たというのに。彼女の声が届いたのは、ヴィルジールだけなのだろうか。だとしたら、それは何故なのだろうか。
ソレイユは美しい微笑みを飾ると、ルーチェの頬に触れた。
『この子はわたくしであり、わたくしはこの子なのです』
「生まれ変わりだとでも言いたいのか」
『それに近いでしょう。今のわたくしは、残留思念のようなものです』
ソレイユが纏う光が、じりじりと弱くなっていく。
初めてソレイユと言葉を交わした時、彼女は時間がないと言っていた。何百年という月日を待っていたからなのか、元より消えつつあるものだったからなのかは分からないが。
ソレイユは左手でルーチェの頬を、右手でヴィルジールの頬に触れ、懐かしむように、愛おしむように撫でると、最後の力を振り絞るかのように唇を開ける。
『遥か昔、この地の王と約束をしたのです。いつか巡り巡ったわたくしの魂が、この地を訪れたら……聖女の剣を返すようにと』
「その聖女の剣というものを、俺は聞いたことがない」
ソレイユは微笑みを浮かべながら、ゆったりと首を左右に振る。そして二人から手を離すと、胸の前で両手を重ね、目蓋を下ろした。
『王の子よ。わたくしと約束を交わした者の名はヴィセルク。青い瞳の美しい少年でした』
ヴィルジールは目を見張った。
──ヴィセルク。それはこのオヴリヴィオ帝国の初代皇帝と同じ名前だ。彼の治世は、何百年どころか千まで遡る。
黒色の睫毛が揺れる。ソレイユはうっすらとまぶたを持ち上げ、憂うような表情でルーチェを見た。
『翼をどこへやったのかと思えば……あれと引き換えに、あなたはこの国に結界を張っていたのですね。レイチェルとやらに破られてしまいましたが』
ルーチェには翼があったのだろうか。ともすると、空を飛べたのだろうか。意味が分からずヴィルジールは困惑していたが、ノエルはその意味を理解していたようで。
「……ソレイユ様。聖女にとって、翼はとても大切なものだと聞いています。それは来たる日に使うものだと」
『ええ、そうですね。わたくしの後の聖女たちも、そのようにしていたはずです。ですが、たとえ引き換えにしてでも──守りたいものがあったのではないでしょうか』
ノエルの瞳が揺れる。彼もソレイユも、痛ましげにルーチェを見つめている。
『王の子よ。聖女を降ろしてください』
ヴィルジールは黙って頷き、ルーチェをゆっくりと降ろした。
冷たい夜風が、ルーチェの白銀色の髪を揺らす。髪で隠れていたのか、肩や腕には痣や傷があった。レイチェルに襲われた時のものだろう。
ソレイユが音もなくルーチェに近づく。白い右手を頬に添え、左手でルーチェの手を握ると、こつんと額を合わせた。
『運命の聖女よ。わたくしの残りの力をあなたに捧げます。これできっと、あなたの聖王の居場所が分かるようになるはずです』
ルーチェを挟んだ向かい側にいたノエルが、がくっと膝をついた。縋るような目でソレイユを見ながら、碧色の瞳を潤ませる。
「ソレイユ様…!聖王様の居場所が分かったら、聖女は記憶も力も取り戻せますかっ…?!」
ふ、とソレイユが消えそうな微笑みを飾る。そして身体中からまばゆい光を発すると、ルーチェを包み込んだ。
溢れんばかりの光がこぼれ、ヴィルジールとノエルまでもを覆う。この世の全ての闇を掻き集めても、彼女の光には敵わないだろう。それほどまでに、はじまりの聖女であるソレイユの光はとても強く、神秘そのものであった。
『どうか、聖王とともに、わたくしの剣で──あの方を、救ってください』
ソレイユはルーチェに向かってそう囁くと、呆然と光の束を見つめていたヴィルジールへ目を向ける。彼女はこの上なく美しく微笑みながら、瞬きをするように消えた。