『──君が私の聖女かい?』
春風のような声に誘われるように、──はまぶたを持ち上げた。
視界いっぱいに映ったのは、黄金色の髪を靡かせているとても美しい人だった。肌は透けるように白く、唇は薄く、瞳は碧く、彼の全てが美しくて息が漏れてしまう。
『あなたはだあれ?』
そう問うた──に、彼は驚いたように目を見張ると、小さく笑ってから手を差し出してきた。
『おや、私が分からないかい?』
『ええ、ちっとも。それよりここはどこなの? 私は父さんと母さんと一緒に、森にいたはずなのに…』
──は彼の手を取らずに、辺りをきょろきょろと見回した。
どうやら寝転んでいたようだ。目の前にいる美しい少年は──を迎えにきたのか、彼の後方には不思議な衣装を着ている人がたくさん居た。誰もがヴェールを被り、額飾りを着けている。
『聖王様。早く聖女様を神殿へ』
『分かっている。だが彼女は無理やり連れてこられ、困惑しているようだ。私が連れて行くから、君たちは先に戻っていてくれ』
『しかし、聖女様は…』
セイジョ、セイオウ、シンデン。知らない言葉に首を傾げていた──だったが、彼の後ろにいる人のひとりが縄を取り出したのを見て、反射的にその場から駆け出していた。
『──!聖女様が!』
逃げる──と、目を見開く黄金色の髪の美しい少年、そして彼を取り巻く白いローブを着た集団。
ここは何処で、彼らは何者なのだろうか。
◆
紐を解くように、ヴィルジールは本のページを捲っていた。今手にしている本で十一冊目になるが、欲しい情報はまだ得られていない。
十二冊目に手を伸ばすか否か、集中力を保つために一杯飲むか悩んだその時、部屋の扉が開いた。現れたのはノエルだ。
「うわ、まだ読んでたの?」
「何か問題があるのか」
「問題だらけだと思うけど。宰相さんがヒイヒイ言いながら仕事してるよ」
「問題ない。玉璽は預けてきた」
皇帝が玉璽を宰相に預──いや押し付け、読書に耽るとは何事だろうか。ノエルは苦笑をしながら、ヴィルジールに近づく。
「……聖女の具合は?」
「眠っている」
ヴィルジールは開きかけた本を閉じ、深く息を吐いた。
ふたりは今、ルーチェが眠っている部屋にいる。意識を失ったルーチェをここに運び込んでから、ヴィルジールは彼女が眠るベッドの傍らでひたすら本を読んでいた。
「……そっか」
ノエルは積まれている本を一冊手に取ると、ぺらぺらとページを捲る。これはイージス神聖王国に関する文献だが、ヴィルジールが今手に取っているのはオヴリヴィオ帝国の歴史のようだ。聖女ソレイユと初代皇帝ヴィセルクについて調べているのだろうか。
ノエルは本を戻し、ルーチェに近づいた。
レイチェルに襲撃された夜から三日が経つが、ルーチェは未だに眠っている。長い夢でも見ているのだろうか。
そっと手の甲に触れてみると、驚くほど冷たかった。
「目を覚ましたら、聖王様を捜しに行かれるのかな」
「さあな」
「さあなって…」
抑揚のない声で答えたヴィルジールを、ノエルは睨めつけるように見る。
目を覚ましたルーチェがどこに行こうと、何をしようと、どうでもいいのだろうか。──だとしたら、三日も付き添っているのは何故なのか。
「……ねぇ。僕をこの国に呼んだのって、結局は聖女のためだよね?」
ノエルはルーチェの手に触れながら、ヴィルジールに問いかけた。
ヴィルジールは手元の本から顔を上げ、ノエルと目を合わせる。相も変わらず無表情で、何を考えているのかは窺えなかったが、それが答えのような気がした。
「……竜が襲撃した日。ルーチェから発せられた光が空を覆い、それ以来魔物が出没しなくなった。調査に出向いた神官によると、破魔の結界が国全体に張られていると」
「それで?」
「その結界を調べてもらうために、マーズの長に大魔法使いを貸せと言っただけだが?」
「………はぁ」
ノエルはさらさらの髪をくしゃりと掻き上げた。
「そうだね、確かにあんたは結界を調べてこいと僕に言った。でもその前に、僕と聖女を引き合わせ、イージスについて尋ねてきたよね」
「それがどうした」
「どうしたじゃないでしょ」
ノエルはルーチェから手を離し、ヴィルジールとの距離を詰める。最低限の食事はしていたようだが、充分な睡眠は取っていないのか顔色は悪く、目の下には隈ができている。そうまでして調べ物を続けている理由が、ノエルは知りたいのだ。
「あんたは知りたいから聞いたんだよ。聖女のために」
ヴィルジールは何も言わずに目を逸らした。逃げるように立ち上がると、ノエルに背を向ける。だが俯く先にはベッドに横たわるルーチェの姿がある。
ノエルはその姿を見て、どうしようもなく苛立った。
「空っぽになった聖女に名前をあげたのはどうして? 住まいを与えたのはなんで? 街並みを見せた理由は?」
弾かれたようにヴィルジールは振り向いた。
限られたごく少数の人間しか知り得ないことを、ノエルは知っている。そして問いかけてきている。ヴィルジールがひとつも躊躇わずに差し出した理由を。
「助けに行ったのはどうして? 仕事を放り出してまで付き添ってるのはなんで?」
ヴィルジールはきつく眉を寄せる。ノエルの碧色の瞳を見つめたまま、ごくりと唾を飲み干して。
そうして、声を絞り出した。
「……分からない」
「分からないんだ。じゃあ自分の胸に問いかけながら、鏡を見てみるといいよ」
ノエルは吐き捨てるようにそう言うと、この国に来た時に着ていた赤いローブを翻し、部屋を出て行った。
扉の外で、ノエルは重苦しい溜め息を吐いた。
「心配で堪らないって顔してるのに、分かんないって…馬鹿でしょ」
気持ちを鎮めるようにゆっくりと息を吐いてから、ノエルは顔を上げる。そして指先で美しい魔法陣を描くと、その上に乗り、瞬く間に姿を消した。