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第40話


 カーテンの隙間から差し込む陽光が、ルーチェの顔を照りつけている。その光は囚われたように扉を見つめているヴィルジールの影も伸ばしていた。


 ノエルが消えた扉から、足元の影へ。そして眠り続けるルーチェを振り返り、ヴィルジールは眩しげに目を細めた。


 ルーチェの白い肌が日に焼けないよう、カーテンを隙間なく閉め、静かに息を吐ききる。

 暗くなった部屋では、時を刻む針の音が一層聞こえた。


(………なぜ、か)


 ヴィルジールは眠るルーチェを見下ろしながら、先ほどノエルに言われたことを思い返した。


 名を贈ったのは、皇帝の命を救っておきながら、何の見返りも求めてこなかったからだ。そんな人間に金銀財宝や城を一つ与えたところで、喜びやしないだろうと。


 そしてもう一つ。国を滅ぼし、王をも亡き者にしたかもしれない存在であり、奇跡の光で人命を救った彼女を城の外に放り出すわけにもいかなかった。だから監視も兼ねて住まいを与え、イージスに滞在していた経歴を持つ魔法使いを呼び寄せ、まことにイージス神聖王国の聖女なのかを確かめたのだが。


 そんなヴィルジールの思惑に、ルーチェは気づかず。それどころか花が開くように笑い、そして夜には涙をこぼしていた。


 その姿から、目が離せなくなったのだ。だから彼女をイージスの聖女としてではなく、何もかもを失ってしまったひとりの少女──ルーチェとして見て、知ろうと思った。


 自分のことを知っていけば、記憶を取り戻すきっかけになるのではないかと。


 だからこの国の景色を見せたのだ。ふとした瞬間に、祖国の風景を思い出すのではないかと。好きな味を知ろうとしたのも、ドレスを選んだのも、花束を贈ったのも、彼女が自分自身を取り戻すために必要なことだったと思っている。


 必要だから与えたのに、ルーチェはいつも笑っていた。それが不思議で、だけど悪いことではなくて。


 閉じたまぶたの裏側で、記憶の中のルーチェの姿を浮かべようとしたその時。


 ちくりと、刺すような痛みが胸の辺りに走った。


(───…なんだ?)


 ヴィルジールは目を開け、左胸に右手を当てた。


 だがもう、そこに痛みはない。心の臓が忙しなく動く音が、指先から伝わってくるだけだ。


 原因は寝不足か、疲労感か。両方だろうと考えたヴィルジールは、ルーチェに背を向けて歩き出した。


 調べ物ついでに居座っていたが、そろそろ戻らなければエヴァンが騒いで煩くなるだろう。


(────ルーチェ)


 扉の向こうへ足を踏み出す前に、ヴィルジールはルーチェを振り返った。


 目が覚めたら、何の話をして、何を食べさせようかと。そう思いながら。



「──おや、思ったより早かったですね」


 扉の向こうでは、へらりと笑うエヴァンが立っていた。痺れを切らして呼びに来たのかと思ったが、そうではなさそうだ。


 三日も全てを押し付けていたというのに、文句を一つも言ってこない。ということは、宰相としてでなく、友人としてここに来たのだろう。


「へーいか。変な顔をしてますが、大丈夫ですか?」


「…ああ」 


「ルーチェ様が心配だったのは分かりますが、貴方が年頃の女性と二人きりで部屋に籠るなんて、世にも珍しいことがあるものですねぇ」


「……………」


 エヴァンが揶揄うように笑いながら、ヴィルジールの背を叩く。いつもなら即刻やり返しているところだが、今のエヴァンの言葉で一つ気づいたことがあった。


「……そうか。心配だったのか」


「はい?」


 ヴィルジールはエヴァンを無視して歩き出した。


「ちょ、陛下!」


「静かにしろ。頭に響く」


「静かにしたいのは山々ですが、積もる話があるんですよ!」


 この三日間であった出来事を語りたいのか、或いは愚痴が溜まっているのか、エヴァンが手帳を開きながら喋り出す。


 速やかに黙らせる方法を思いついたヴィルジールは、ぴたりと足を止めた。


「……エヴァン」


「何でしょうか。今日限りでクビだーっていうのは、もう聞き飽きましたよ」


「今すぐ玉璽を返せ。そして部屋に戻り、半日ほど気絶していろ」


「………はい?今なんて?」


 ぱちくり、とエヴァンは瞬きを繰り返す。夢のようなことを言われたので、そっと頬を抓ってみたが、ちゃんと痛みがあった。どうやら現実のようだ。


 ぽかんと立ち尽くすエヴァンの上着のポケットに、ヴィルジールが手を突っ込む。ごそごそと中を弄り、目的のものを取り出すと、ヴィルジールは唇を横に引いた。


「二度言わせる気か? ──夕刻、執務室に来い」


「…………え、え…ええ…」


 呆気に取られているエヴァンを置いて、ヴィルジールは歩き出した。


 エヴァンはへちゃりと座り込んだ。


「…………あの陛下が、休みを下さるなんて」


 ──オヴリヴィオ帝国の宰相に就任して十年。命の危険を感じながら、休みなく働かされること十年。


 ヴィルジールの口から半日休めという言葉を初めて聞いたエヴァンは、この世のありとあらゆるものに感謝を捧げながら、全速力で自室へ向かった。

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