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第44話


 麗らかな春のようなその声を、ルーチェは知っている。

 聖女の力の使い方も、魔力も、記憶も喪っているけれど、その声が誰なのかはすぐに分かった。


(……聞いたことのある声だわ。何度も)


 ルーチェを呼ぶ声は、夢現な世界で何度も耳にしたものだ。黄金色の髪と碧色の瞳を持つ、美しい青年のもの。


 閉じた瞼の裏側で、ゆらりと定まっていなかった意識がはっきりと鮮明になっていく。深い森を抜け、一面の草原に出るように──ルーチェは瞳を開けた。


 飛び込んできたのは、真っさらな空間で。そこには光を纏う美しい青年が、黄金色の髪を揺蕩わせながら、静かに佇んでいた。


「(──ああ、ようやく貴女の光を感じることができた)」


 青年の美しい顔がくしゃりと歪む。こぼれた声は消えてしまいそうなくらいに弱々しかったが、ルーチェの耳に焼け付くように残った。


(あなたは───…)


 ルーチェは顔を上げて、青年を見つめ返した。

 陽色の髪に、透き通るような白い肌。澄んだ碧色の瞳は力強い光を宿していて、吸い込まれそうだ。


「(私のことが分からないのかい?)」


 ルーチェは首を左右に振りながら、服の胸元をくしゃりと掴んだ。


(わたし…わたしは、あなたのことを…)


 青年が誰であるのか、その正体は本能が告げている。こうして手を伸ばせば触れられる距離で対面した時から、手を握りたい、頬に触れたい、彼の腕の中に飛び込みたいという欲が出ているからだ。


 夢まばろしで目にした彼の姿、何処からか聞こえていた声は、間違いなく目の前の青年と同じもの。

 ルーチェは震える唇で声を絞り出そうとしたが、なにも奏でられなかった。


「(──目を見ておくれ。私の聖女)」


 ルーチェの頬に、滑らかな白い手が添えられる。


「(──貴女は、私のことが分からないんだね?)」


 切ないくらいにあたたかい声に、ルーチェは頷き返した。


「(あの日……貴女は私と民の命を守るために、力を解放した。その代償として、記憶を喪ってしまったのだろう)」


 ルーチェは瞳を大きく揺らしながら、唇を震わせた。


(……わたしは、国を滅ぼしたのではなかったのですか)


 ルーチェは自分の耳で聞いたのだ。怒りに震えながら訴えてきた民の声を。何も憶えていなかった自分を、亡国の民は“聖王をころし、国を滅ぼした聖女”だと言った。


 確かに聞いたのだ。どうして生きているのかと問うてきた子供の声を。自分のせいで焼け野原になったという涙声を。母を返せ、這いつくばって詫びろ、そして死ねという罵声を。


 ルーチェの正体が、罪を犯した聖女であることは確かなことなのに。


 青年は首を左右に振り、ルーチェの身体を思い切り抱きしめた。


「(何を言っているんだ。国を滅ぼしたのは竜の怒りの業火だ。貴女は何一つ悪いことなどしていない)」


(でも、でもっ…皆が言っていたのです)


 青年の腕の中で、ルーチェは泣き出した。啖呵を切ったように溢れ出した涙は止まることなく、ぼろぼろとこぼれていく。


「(誰が何を言ったのかは知らないが、貴女はその身を犠牲に、民を守ろうとしていた。…私が至らなかったばかりに)」


(わたしが…?)


 青年はルーチェの目を見て頷く。身を屈め、額同士を軽く当てると、碧色の瞳に涙を滲ませた。吐息が触れ合う距離だというのに、不思議と心は凪いでいる。


「(貴女が無事でいてくれて、ほんとうによかった)」


(……聖王、さま)


 ルーチェが聖王と呼んだことに驚いたのか、碧色の瞳がほんの一瞬だけ揺れ動いた。


「(……貴女の口から、そう呼ばれる日が来るなんて。思いもしなかったな)」


 青年は眉を下げながら微笑うと、ルーチェの頬を伝う涙を指先で優しく拭っていく。


 その手の温もりは記憶のどこにもいないのに、身体は憶えていたのか、彼に触れられるのは嫌ではなく、目を細めてしまうほどに安らぎを感じた。


(……私はあなたを、何と呼んでいたのですか?)


 ルーチェの問いに、青年は瞬くように微笑った。


「(───ファルシ、と)」


(ファルシ、さま? では、あなたはわたしを、何と呼んでいたのですか)


「(聖女、と。ふたりきりの夜では──)」


 青年が続きを紡ごうとしたその時、視界がぐにゃりと歪み、目に映るもの全てが渦を巻くように形を失った。様々な色が混じり合い、歪な空間へと化していく。


 目の前にいたはずの青年──ファルシの姿は、弾けるように消えた。だけど、姿形は見えずとも、声が聞こえなくなっても、彼の命の光を感じ取ることはできた。


 ──やっと、逢えたのに。


 比翼の片割れだと、ノエルが言っていた。片方が命を落とせば、もう片方の命の灯火も消える、ふたりでひとつの存在。


 彼は今、何処にいるのだろうか。それを確かめるためには、この不思議な空間から、元の世界へと戻らなければならない。


 ルーチェは真っ暗な世界で、ゆっくりと瞼を下ろした。


 閉じた瞼の裏側では、声がふたつ聞こえた。

 ひとつ目は、青年──聖王ファルシの声だ。その声は水の中に潜ったような遠さで、ルーチェを呼び、何かを伝えようとしていたが、誰かに断ち切られたようにぷっつりと途切れた。


 ふたつ目は、よく聞き知った人の声だ。

 冷たいけれど、本当は優しくて。嘘偽りのない言葉しか紡がない、低くて、深くて、あたたかい声。その声に名前を呼ばれるだけで、嬉しくなった。光という意味がある、ルーチェの名を。


(──ヴィルジールさま)


 本当の名は分からないままだが、夢幻な意識の中で聖王に逢えたことで、分かったことがある。


 イージスを滅ぼしたのは、ルーチェではなく竜であったこと。聖王とルーチェは竜に敗れたこと。そしてイージスは草木一つない土地と化したが、ルーチェの光が数多の民の命を守ったこと。


 ヴィルジールの厚意に甘え、何をしたらいいのか分からないまま日々を過ごしていたが、ようやくやらなければならないことを見つけた。


(──聖王ファルシ様を捜し、竜を封じなければ)


 イージス神聖王国を滅ぼし、ヴィルジールの命をも脅かしたあの光の竜を、ルーチェは封じなければならない。その為には、聖王を捜し出す必要がある。


 ルーチェは大きく息を吸い込み、そして目を開けた。

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