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第51話


 今回のマーズ行きでは、ルーチェは聖女として訪問することになっている。当初の予定では最小限の人数でお忍びで行くことになっていたが、いっそのこと大々的に向かう方が危険は少ないのではないかという声が上がったそうだ。


 この日のために職人が仕立ててくれた衣装は、白と基調とした清廉なデザインのデイドレスだった。胸元はレースで花が編まれ、裾にも同じ模様の刺繍が入っている。

 羽織っている青色のケープは、ヴィルジールが着ているケープコートとお揃いのようだ。


「兄上、ルーチェ様。道中お気をつけて」


 城の留守を預かるために呼ばれたセシルが、エヴァンと共に門前まで見送りに来ていた。その隣にいるエヴァンは今生の別れでもないのに、ハンカチを手に涙ぐんでいる。


「うう、陛下…。私のこと、忘れないでくださいねっ…!セシル殿下と一緒にお茶を飲みながら、寂しく留守番してますから!」


「茶を飲んでいる暇があるなら働け」


「そんなぁ! お茶でも飲んで心を落ち着かせないと、私、私……一体どうしたらっ…!」


 ヴィルジールは呆れたような顔で深く息を吐くと、ルーチェに視線を戻した。


「エヴァンが煩いから、早く行くとしよう」


 ルーチェは微笑みながらうなずいた。


「では、エヴァン様、セシル様。行ってまいります」


「お気をつけて。無事のお戻りをお待ちしています」


 ルーチェがセルカの手を借りて馬車に乗り込むと、続いてヴィルジールが中に入ってきた。向かい合うように腰を下ろすと、ほどなくして扉が閉まる。


「──出発しろ」


 ヴィルジールの一声で、馬車は走り出した。


 ルーチェは馬車に揺られながら、窓の外の景色を楽しんだ。


 馬車は城門を出ると、緩やかな坂を下りながら城下へと向かっていった。アスランら騎士たちが先導するように馬を走らせているからか、街の人々は馬車に乗っているのが皇帝だと気づいたようで、子供たちは元気よく手を振り、大人たちは花を手向けるように投げている。


 その和やかな歓迎に、ルーチェは顔を綻ばせていた。


「見てください、ヴィルジールさま。街の人たちが花を投げていますよ」


「……見ている。全く、何故花を」


 ヴィルジールは腕を組みながら、悠然とした様子で窓の外に視線を投げていた。沢山の子供が手を振っては「陛下」と声を上げているのに、にこりともしていない。


「手を振って差し上げてはどうですか?」


「くだらん」


 ヴィルジールの目がルーチェへと向けられたかと思えば、そっと閉ざされた。手を振り返すどころか、民の姿を見る気もないようだ。


 その姿を見て、ある事を思いついたルーチェは、ヴィルジールの手を掴んだ。


「ルーチェ、何を──」


 ルーチェは掴んだヴィルジールの手を窓に寄せ、ふりふりと振ってみせた。すると、窓の向こうにいる子供のひとりが、それはそれは嬉しそうに顔を綻ばせながら、皇帝陛下、と声を上げた。


 ヴィルジールは軽く目を見張りながら、窓の外をじっと見ていた。その手はまだ、窓の縁に添えられている。


「ほんの少しだけ、勇気を出してみませんか」


 ルーチェの声に、ヴィルジールはまぶたを弾ませた。


「……どういう意味だ?」


 深い青色の瞳がルーチェを真っ直ぐに見つめる。

 ルーチェはヴィルジールを見つめ返しながら、薄らと唇を開いた。


「ヴィルジールさまは他人に興味がないのではなく、どう接したらよいのかが分からないように見えたのです」


 青色の瞳が濃くなる。雫が水溜まりに落ちて波紋を広げるように、それは一度だけ揺れた。


「私の知るヴィルジールさまと、他の人が言うヴィルジールさまの姿は、とても違っていました。ヴィルジールさまが、何故氷帝と呼ばれ、冷たいなどと言われているのか、私は不思議でしょうがないのです」


「……それは、その通りだからだと思うが」


 いいえ、とルーチェは首を左右に振った。


「ヴィルジールさまは、決して冷たい人ではありません」


「…急に何を言い出すのかと思えば、くだらないことを」


「くだらなくありません」


 ルーチェは夢中になってヴィルジールの手を取り、手繰り寄せるように頬に当てた。


 やはりヴィルジールの手は、今日もあたたかい。


「皆は知らないのです。ヴィルジールさまが本当はお優しいことを。なのに…」


 こんなにもあたたかくて優しい人が、どうして氷帝と呼ばれているのか、冷酷で無慈悲だと言われている理由を、ルーチェは知りたいのだ。


 だけど、それ以上は何も言えなくて。

 声にならない声を喉の奥に押し込めたまま、ルーチェは睫毛を震わせた。


 知りたいなどという気持ちは、とても烏滸がましいものだ。


 人は誰しも、踏み込んでほしくない場所があるし、知られたくないことだってあるというのに。


 分かっていても、その手のあたたかさを知った日から、少しずつ芽生えていってしまったものがある。


 オヴリヴィオ帝国の城の上から、その隣に立って、何もない地と化したイージスの一片の景色を目にした。


 城下を急襲した竜から民を救うために、馬に跨って駆けていた背中を見た。


 何も持っていなかったルーチェに、光という意味がある名をくれた。


 涙が伝った頬に触れる手は優しく、ルーチェを受け止めた腕は力強く、その手は広くて、いつだって温かかった。


 そんな彼の手のぬくもりを、ルーチェは知っていたから。


 だから、悪く言われた時は腹が立ったし、自分の知らない話を聞かされた時は良い気がしなかったのだ。


 外の景色が城下から緑豊かな自然へと移り変わった頃、ルーチェの右手にぬくもりが灯った。


「ルーチェ」


 ヴィルジールの口からこぼれた声は、想像していたよりもずっと、柔らかかった。


「…はい」


 ルーチェが恐る恐る顔を上げると、ヴィルジールは深い青の瞳でルーチェをまっすぐに捉えていた。


 ヴィルジールが躊躇いがちに口を開いて、何かを言いかけたその時。


 耳を劈くような雷鳴音が響き渡ったかと思えば、目も開けていられないほどに眩しい光が辺りに奔り、馬車が凄まじい音を立てて傾いた。


 思わず瞼を閉じたルーチェの身体を、向かいに座っていたヴィルジールが掻き抱く。


「ルーチェッ!!」

「ヴィ、ヴィルジールさ───」


 宙に投げ出されたのだと気づいたのは、眼前に広がる鈍色を見た時だった。

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