───落ちている。
全身でそう感じたルーチェは、目を見開いた。
風を切る感触を頬で感じながら、手を空へと伸ばす。
そうしたところで、誰もこの手を掴まないのは分かっていた。この手を掴んで離さないでいてくれた人は、もういない。
ルーチェは守れなかったのだ。この手を取り、隣で微笑んでいたあの人のことを。
(───ああ。わたしは──…)
ほろほろと、涙がこぼれる。
無色透明なその雫を置いていくように、ルーチェの身体は真っ逆さまに落ちていた。
だけど、今は───今度は、ひとりではなかった。
「ルーチェ!目を閉じていろ!」
「ヴィルジール、さま…?」
降下しているルーチェの身体は、ヴィルジールにしっかりと抱きしめられている。
視界に映り込む銀色に、鼻を掠める彼の匂いに、ルーチェはまた涙をあふれさせた。
(わたし、わたしはっ……)
落ちる瞬間、何をしたらよいのだろう。
あの日、ルーチェは何をしたのだろう。何が起こって、真っさらな大地にひとりで倒れていたのだろうか。
遠くなった空を吸い込まれるように見つめていると、ルーチェを抱きしめる腕の力が一層強くなった。
「──大丈夫だ。絶対に、守ってみせる」
『──大丈夫だ。絶対に、護ってみせる』
ヴィルジールの声と、誰かの声が重なって聞こえる。
決意を胸に、大いなる闇に立ち向かった者の声が。
(───いいえ、ヴィルジールさま。あなたはわたしが、守ってみせます)
ルーチェは伸ばしていた手を、ヴィルジールの後頭部に添え、もう片方の手は背中に回した。
そして、かの名を囁いた。
◇
『──またここにいたのかい? フィオナ』
──フィオナ。その名はイージス神聖王国の最後の聖女の名だ。菫色の瞳と黄金色の髪を持って生まれたその少女は、十歳の時に聖女として神殿に迎えられた。
フィオナはある日突然、両親と引き離された。誘拐も同然で神殿に連れて行かれたフィオナは、不満や孤独心からよく神殿を抜け出し、敷地内の森でひとり座り込んでいた。
『──だって、怖いんだもん。父さんも母さんもいないし、白い人たちは私を変な目で見てくるし…』
目に涙を浮かべながら、しとしとと胸の内を打ち明けるフィオナを迎えにきたのは、ファルシという名の少年だった。
ファルシはフィオナと同じ年頃の少年だったが、その生い立ちのせいか、とても大人びていた。
『ごめんね。私が不甲斐ないばかりに』
『どうしてファルシさまが謝るの? 私に悪いことをしたの?』
不思議そうな顔をしているフィオナに、ファルシは困ったように微笑みかける。
『貴女がここに連れてこられたのは、私のせいだから。聖女がいなければ、この国は生き永らえることができないんだ。私にもっと、力があったのなら…貴女を自由にできたのに』
人里で十年も暮らしていたフィオナは、聖女というものが何なのか分からなかった。自分を囲う大人たちが、国になくてはならない尊い存在なのだと言って聞かせてきても、理解するにはまだ幼くて。
だけど、ひとつだけ見つけたものがあった。フィオナがどこへ隠れても、必ず見つけ出してしまうファルシは──フィオナのために泣いていたファルシだけは、フィオナの味方だということを。
だから、フィオナは決めたのだ。
いいこにしていれば、いつかきっと、また両親に逢える日が来るはずだから。
その日までは、自分のために泣いてくれたファルシの隣で、笑っていようと。
▼
どこからか現れた巨大な翼が広がる。その翼は落ちていくふたりの身体をすっぽりと包み込むと、緩やかにふたりを地面に降ろしていった。
ルーチェはヴィルジールから手を離し、宙に浮いている翼を見上げた。
月の色をしているそれは、翼だけになってしまったルーチェの聖獣だ。艶やかで柔らかい毛に覆われている翼は、かつては別の姿をしていた。
だけど、ルーチェは忘れてしまっていた。
何を引き換えにしても構わないから、民の命を救ってほしい、と。そう願いながら、全ての力を解放したあの日に。
「……それは、何だ?」
ヴィルジールは信じられないものを見るような眼差しで、翼を見上げている。その手はルーチェの左手を掴んでいたが、本人は気づいていないようだった。
「翼だけになってしまった、私の大切な友達です」
「魔獣とは違うのか?」
ルーチェはくすくすと笑いながら、翼へ向かって右手を伸ばした。
羽根のように柔らかな感触が、ルーチェの手をくすぐる。その懐かしいぬくもりに、ルーチェは泣きたくなってしまった。
「彼は聖獣です」
「魔獣と何が違うんだ?」
「聖獣とは、イージスの聖王と聖女、それぞれが縁を結んでいる霊獣のことです。魔獣は人を襲いますが、霊獣は人を襲いません。イージスは人と霊獣が共存する国だったのです」
ルーチェが翼にそっと額を押し当てると、翼は空気に溶け込むようにして消えていった。
目には見えなくなったけれど、彼はいつでも傍にいる。その名も喚び方も、ルーチェはもう、知っている。
目を閉じると、自分と繋がっている糸のようなものを感じるのだ。あたたかく光るそれは二本あり、ひとつは聖獣と、もうひとつは聖王と繋がっている。
胸の内でその相手を想うと、存在を感じることができるのだ。今はどこにいるのか、ちゃんと息をしているか、悲しい思いをしていないか──全てが伝わってくる。
ルーチェは空を仰いだ後、ヴィルジールと向き直った。
「──ヴィルジールさま。わたしの本当の名は、フィオナといいます」
ルーチェの左手とヴィルジールの右手は繋がれたままだ。いつから繋がれていたのかルーチェは気づいていたが、ヴィルジールは気づいていなかったようで。
手を通して伝わるものがあったのか、ヴィルジールは自分の手に視線を落としていたが、すぐに顔を上げた。
「……そうか。思い出したんだな」
確かめるような、ほっとしたような声音で。長く捜していたものが見つかったような表情で。
ヴィルジールは頬を緩めると、繋いだルーチェの手に力を込めた。
「……聞いて、くださいますか? この国に来る前の話を」
「当たり前だろう。…だが、まずはあいつらに無事を知らせるのが先だ」
ヴィルジールが後方に聳える崖を見上げる。随分と高い場所から落ちてきたようで、人影は見えない。
「でしたら、私の聖獣に行ってもらいましょう。驚かせてしまうかもしれませんが、冷静なセルカさんなら気づいてくれるはずです」
ルーチェはゆっくりとまぶたを下ろす。糸を手繰り寄せるように、己の聖獣の名を喚ぶと、銀色の翼が再び宙に現れた。
「お願い。上にいるセルカさんたちに、これを届けて」
ルーチェは横髪に編み込まれていたリボンを解くと、聖獣の翼に括り付けていく。
呆気に取られているヴィルジールを余所に、聖獣は翼を羽ばたかせながら上昇していった。