それから、ふたりは降り出した雨から逃れるために、近くの大木の下に身を寄せた。
落ちた先は森だったのか、見渡す限り木々や草花しかなかった。だが雨を受ける緑は青々しく、滴を落とす花は瑞々しく、耳を打つ雨音も不思議と心地いいもので。
ふたりは長いこと雨音に耳を傾けていたが、先に口を開いたのはルーチェの方だった。
「わたしは十歳の時に、聖女として神殿に迎えられました」
「それ以前は普通に暮らしていたのか?」
「はい。優しい家族と一緒に、人里で暮らしていました」
人里という言葉に引っかかるものがあったのか、ヴィルジールが眉を寄せる。
「人里で暮らすことがいけないことのように聞こえるが」
ルーチェは伏し目がちにしながら頷いた。
「聖女は…生まれたらすぐに神殿に引き渡すのが、イージスの掟だったので」
「聖女は神殿で育てられるということか」
「ええ、本来ならば。ですが私は、十年も家族と暮らしていたので……自分自身が持つ力の使い方が分からなくなっていたのです」
イージスの聖女は、神殿で生まれるわけではない。裕福な家で生まれることもあれば、貧しい家で生まれることもある。どちらにせよ、聖女が生まれた家は、聖女と引き換えに生涯働かなくても食べていけるだけの援助を受けることができる。
だけど、ルーチェの家族は──フィオナの両親は、それを望まなかった。
目を閉じると、あいしていると言って抱きしめてくれた人たちのことを思い出す。だけど、それ以上のことは靄がかかったように出てこなかった。声も、顔も、ぬくもりも、もう思い出せない。
「聖女は、国になくてはならないものでした。だから、神殿の人たちは私を捜していて……ある日、見つかってしまって」
そうして、ルーチェは神殿に連れ去られた。
今思えば、人攫いと何が違うのだろうか。聖女だからという理由で神殿はルーチェを連れ去ったが、家族からしたら娘が突然行方不明になったのだ。拐かしと変わらないだろう。
だが、そのお陰で出逢えた人がいた。
それだけは、神殿に感謝をしているのだ。
「無理やり連れてこられ、混乱していた私に手を差し伸べてくださったのは、ファルシさまでした」
「聖王か」
ルーチェは口の端を上げ、目を柔らかに細めた。
ファルシは当代聖王であり、聖女であったルーチェとは運命を共にする存在だった。白い花がよく似合う美しい人で、いつも優しく微笑んでいたのを憶えている。
「ファルシさまは優しく寄り添ってくださいました。イージスのこと、特別な力のこと、聖王と聖女の役目を、教えてくださった…」
何も分からなかったルーチェの手を取り、イージスという国が特異な国家であることを教えてくれたのはファルシだった。
君主は聖王だが、聖女は君主の妻ではないこと。王の隣に並び立つその存在には、秘めたる役目があった。
──だけど。
「だけど、私は………」
ルーチェはきゅっと唇を引き結んだ。そうでもしないと、唇が震えて弱音がこぼれてしまいそうだったからだ。
全てを曝け出したとして、ヴィルジールは怒ったり呆れたりするような人ではない。彼は真剣に話を聞いてくれる人だ。
だが、これから話す内容を聞いても、変わらずにいてくれるだろうか。その自信が、今のルーチェにはなくて。
(───わたしは)
ルーチェは何度か深呼吸を繰り返し、勇気を出して口にしようとした。
だけど、何ひとつ声にならなかった。目の奥が熱くなり、たちまち視界がぼやけていく。
言わなければならないのに。伝えなければならないのに、言葉がひとつも喉を越えてくれない。
はらはらと散っていく涙が、ドレスを濡らしていくのを見ていることしか出来なかった、その時。
ルーチェの手に、ヴィルジールの手が重ねられた。
「無理に話す必要はない」
雨音が遠くなった。世界にはふたりだけしかいないかのように、彼の低い声が耳を打つ。その優しい声音に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、ルーチェは顔を上げた。
「でも……わたしは…」
「知りたいかそうでないかと訊かれたら、知りたいに決まっている。お前がどんなふうに生きてきたのか、その隣にいた聖王はどのような人物だったのか。……イージスで何があったのかも」
ヴィルジールは肺の中の空気全てを吐ききるような長く重いため息をついてから、ルーチェと向き直った。
「お前の気持ちが落ち着いてからで構わない。…話したくなったら、聞かせてくれるか」
「はい。…いつか、必ず」
触れられているところが、熱い。胸の鼓動が大きく鳴っているのを感じていると、ヴィルジールが徐に口を開いた。
「少しだけ、俺の話をしてもいいか」
ルーチェがこくりと頷くと、ヴィルジールは青色の目を森の中へと向けた。
「俺は十二番目の王子として、王家に生まれた。上にも下にも沢山の兄弟がいたが、一度も言葉を交わすことなく終えた者もいた」
十二番目の王子が何故、皇帝となったのか。否、皇帝となれたのか。その理由を、過去を、ヴィルジールは明かそうとしている。
「本来ならば、俺は皇帝になれるような人間ではなかった。母の身分も低く、後ろ盾もなかった」
「お母様はなぜ、お妃様に?」
「母は花売りだったが、先代に身染められて妃に迎えられたそうだ」
ふ、とヴィルジールの口の端に嘲笑が滲む。濡れた前髪をくしゃりと掻き上げながら、真下に視線を落とした。
「だが母は、皇后に殺された」
帝国における皇后とは、皇帝の正妃の称号だと書物に書いてあった。皇后が産む子供は、皇帝の座に一番近いというのに。何故ヴィルジールの母君をころしたのだろうか。
「腹の中には、妹がいた。身の程知らずだと、目障りだったからだと、それだけの理由で」
それだけの理由で、母はころされてしまったのだと。そう語ったヴィルジールの声は、いつもよりも低く、微かに震えていた。
「我が子を皇帝にしたいがために、平気で人を殺す皇后に腹が立った。だが殺された母のために何もできない、何の力も持たなかった自分にはもっと苛立った。──それから、気がついた時には、全てが凍っていた」
「っ………!」
思わず息を呑んでいたルーチェに、ヴィルジールの目が向けられる。彼の美しい青い瞳は、今は弱々しく揺れていた。
何の罪も犯していない我が娘と孫らを殺され、そして王族を皆殺しにし、玉座についた。そうアゼフが言っていたのを思い出す。
だが今のヴィルジールの話では──。
「──父の心臓には氷の刃が突き立てられ、他の兄弟や妃は氷の塊になり、俺の手は誰のものか分からない血で真っ赤に染まっていた」
殺したくて、殺したわけではない。
行き場のない気持ちが、母ひとり救えなかった自分をどうしようもなく恨んだ結果が、惨劇を生み出してしまったのだと。そう語ったヴィルジールの手は震えていて。
生まれてくることができなかった妹を、頬を寄せながら抱きしめてやりたかったと、ささやかな願いを告げた声は、しっとりと濡れていた。
俯いたヴィルジールの頬に手を伸ばそうとした時、ルーチェの手にぽつりと雨粒が落ちた。
雨の主はヴィルジールだった。白い頬を伝う涙が、またひとつルーチェの手に落ちる。
「……ヴィルジールさま」
ルーチェの声も震えていた。雨に降られたからでも、氷帝と呼ばれる由縁を知ったからでもない。
するりと、ヴィルジールの手が離れる。次の瞬間には、思いきり抱きしめられていた。
「……少しの間、こうしていてもいいか」
ルーチェは返事の代わりに、小刻みに震える彼の身体に腕を廻した。
雨は降り続いた。ふたりの涙を、誰にも聞かせないかのように。