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第57話


 夜の帷が下り、マーズの城は暗闇に包まれていた。


 すべての部屋の明かりが消されている今は、夜を好む精霊たちの光だけが瞬いている。彼らを除いては、皆とうに夢の世界に足を踏み入れていることだろう。


 静寂に満ちた廊下を、ヴィルジールは静かに突き進んでいた。


 向かう先は黄金の月の紋章が輝く、大きな赤い扉の部屋だ。


 部屋の主はヴィルジールが来ることを分かっていたのか、彼が扉の前に辿り着くよりも先に、内側から開け放った。


「──こんばんは、氷帝さん」


 ノエルは湯浴みを済ませたばかりなのか、頭からタオルを被っていた。


「……話がしたい」

「僕と?」

「そうに決まっているだろう。だから夜更けに来た」


 ノエルはふうんと気のない返事をした。濡れた髪を拭きながら、ちらりとヴィルジールを見遣る。


 ヴィルジールはどこか遠い目でノエルを見下ろしていた。


「……いいよ。中に入って」


「ああ。…失礼する」


 軽く一礼してから部屋に入ったヴィルジールを見て、ノエルは思わず笑ってしまった。夜中に突然押しかけたことを悪いと思う、人の心があったのだ。


「──随分仲良くなったんだね。聖女と」


 ノエルは帝国の宰相であるエヴァンが最速の手段で送ってきた茶葉で茶を淹れた。ヴィルジールが来たら淹れてやってくれ、と書かれているメモから、良い匂いがしたからだ。


 案の定、ヴィルジールは好きではないどころか嫌いだったようで。最初のひと口を飲んだ時、絵に残してやりたいくらい顔を顰めていたが、諦めたのか黙って飲んでいた。


「だからどうした?」


「別に。聖女のあんな笑顔を見たの、久しぶりだったし…アンタが笑う顔を見たのも初めてだったから」


 ノエルは魔法でポットを温め、白湯を淹れた。何の味も付けないからこそ、自然な味が楽しめる。


「……見ていたのか」


「見てたっていうか、視えてたっていう方が正しいかな。僕は一度訪れたことのある場所なら、たとえ遠く離れていようと、どこに居たとしても、視ることができるから」


「だとしたら、お前は──」


 ノエルは唇に人差し指を当て、首を左右に振った。ヴィルジールが言わんとしている言葉の続きは分かっていたし、それに対するノエルの答えを、ヴィルジールも分かっていただろうから。


 ノエルの髪が金色に染まった日。まだ十歳だったあの時のノエルは、聖王から祝福を受けたのだと見せかけて、特別な力を移されていたのだ。


 それは、一度足を踏み入れた場所に、第三の目を残すこと。その目は“あるもの”を捜す為に在ったが、神殿から出ることが出来ない聖王は、その力を最大限に使うことが出来なかった。


 だから外から来たノエルに、託したのだ。


 この世のどこかにある、───を捜す為に。


「──僕、あのまま聖女の記憶が戻らなくてもいいやって、思ってたんだよね。ルーチェとして帝国で好きなように生きて、穏やかに暮らしてくれたらって思ってた」


 ヴィルジールは黙ってうなずいた。

 それはヴィルジールも思っていたことだった。ルーチェはルーチェのままで、ずっと居てくれたらと──願ってしまう自分がいた。


「……記憶が戻ったら、悲しむのは分かってたから」


「やはり、お前は知っていたんだな」


 零すように呟いたヴィルジールに、ノエルは微笑みで返した。


「全部、知ってたよ。だけど知らないふりをしてくれって、聖王様と約束をしていたから」


 ヴィルジールはくしゃりと髪を掻き上げた。頭を最大限に働かせながら、ノエルが明かした事の意味を考える。


 ノエルは一度訪れたことのある場所なら、たとえ遠く離れていても“視える”と言っていた。つまりその力を使うことで、視えたものから情報を知り得ることが出来るというわけだ。


 それはノエルが“イージスが滅んだ日”のことを視ていたということに相違ないだろう。


「少し前に、ルーチェが聖王の意識と繋がり、言葉を交わすことができたと言っていた。その時に、イージスを滅ぼしたのはあの竜であると、聖王が言っていたらしいが……あれと聖王は闘い、敗れたのか?」


「そこまで知ってるなら、話してもいいけど……ここから先は聖女には話さないって、約束してくれる?」


 ノエルの真摯な眼差しと声音に、ヴィルジールは固い声で返事をした。



「──イージスが滅んだのは、聖王様が儀式で竜を怒らせたからだ」


「その儀式とは?」


「その儀式は、イージスでは“来たる日”と呼ばれている。──あの日、聖王様は儀式をぶち壊したんだ。聖女のために」


 ノエルは静かに語っていった。


 イージス神聖王国では、十五年に一度、神殿で儀式が執り行われる。神殿は君主である聖王と聖女が住まう神聖な場所とされているが、その実態は得体の知れない神官たちが盲目的に“聖王と聖女”を閉じ込め、洗脳するようなことをしていた場所だったという。


「従来の“ふたり”なら、来たる日に起きる事を黙って受け入れるんだけど、今の聖女は──あんたがルーチェと名付けたあの子は、外の世界に十年も居たからか、染まらなかった」


「……神官とやらの都合の良いようにならなかったと?」


「そう、その通り。そんな聖女と同じ運命を背負っていた聖王様も、少し変わっていたらしくてね。僕からしたらそんなふうには思わないんだけど」


 人里で十年の時を過ごし、己の持つ力と背負うものが解らなかったフィオナと、そんなフィオナの姿を見ていた聖王。


 かえりたい、家族にあいたいという希いを、時が経つにつれて口に出さなくなったフィオナのために、聖王は事を起こそうと決めたのだ。


「当代の聖王と聖女は、国の存続に関わる重大な儀式を遂げなかった。だから、イージスは竜の業火に焼かれて滅んだ」


「本来ならば、その儀式で何をしなければならなかったんだ…?」


 掠れた声で問うたヴィルジールに、ノエルは毅然とした態度で応えた。


「聖女が肉体を竜に捧げる。その血肉は、竜を十五年だけ封じることができる」


「───何を馬鹿な」


「イージスの聖女は竜に捧げられて死ぬ宿命を背負っている」


 ガシャン、と。ヴィルジールの手から滑り落ちたカップが、床の上で割れて散った。その一片に映り込む自分の顔を見つめながら、ヴィルジールは声を絞り出そうとした。


 だけど、なにひとつ声にならなかった。


 顔色を失ったヴィルジールは、何も奏でられなくなった喉元に手を当てた。


(──竜に喰われて、死ぬだと?)


 そのためだけに生まれ、そして死ぬ。それがイージスの聖女の宿命だと語ったノエルは、もうヴィルジールから目を外していた。見事な細工が光る天井窓を見上げ、険しい顔をしている。


「───聖女」


 ヴィルジールは顔を上げた。


「……ルーチェがどうした」


 ノエルが耳元のイヤリングに触れながら、部屋を飛び出す。急いで後を追うと、ノエルは肩で息をしながら、濡れ羽色の空を見上げていた。


「──聖女が、空に」


 ヴィルジールも空を仰ぎ、そして目を見開いた。

 銀色の月に重なるようにして、翼を羽ばたかせている少女の姿が見えるのだ。

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