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第56話


 ヴィルジールとルーチェを歓迎する宴は、マーズに到着してから二日目に催された。初日は旅の疲れを癒してほしいという長老からの気遣いで、夕食は個別に取り、各自で自由に過ごしていた。


 夕食会では長老がノエルの幼少期の笑い話を披露してくれた。ノエルは顔を真っ赤にしながら長老を止めようとしていたが、長老に付き従う精霊に擽られたり顔に落書きをされたりと邪魔をされ、子供のように口を尖らせていた。


 ヴィルジールもさすがに笑いを堪えきれなかったようで、口元を隠しながら肩を揺らして笑っていた。


 夕食会の後、湯浴みを終えたルーチェは、ヴィルジールに誘われて散歩に出た。マーズの城は代々の長老によって強大な結界が張られている為、護衛をつけずとも安心して出歩くことができるのだ。


 満天の星空の下をふたりきりで歩いていると、ふとヴィルジールが足を止めた。その目は夜空へ向けられている。


「マーズは星が綺麗に見える」


 ルーチェも空を見上げた。夜空に浮かぶ無数の星々は、眩い光を放っている。小さくとも美しく、赤に青、黄色と多彩な色がはっきりと見えた。オヴリヴィオよりも星を近くに感じる。


 ルーチェは夜空からヴィルジールへ、そっと目を移した。


 月も星も美しいが、それらを背に佇むヴィルジールの方が、もっと美しく思えたからだ。


 夜の空の下では、ヴィルジールの銀髪はより一層艶めいて見え、宝石のような青目は月明かりを受けて煌めいている。

 星空とヴィルジールは、とても素敵な組み合わせだ。


「ヴィルジールさまはお星様がよく似合いますね。並んでいると、まるで絵のように美しいです」


「何だそれは」


 ふ、とヴィルジールが微笑う。

 ヴィルジールは星々からルーチェへと目を動かしたが、その時にはもう、ルーチェは子供のように駆け出した後だった。


「ルーチェ?」


「見てください、これを」


 ルーチェを動かしたのは白い花だった。夜でもはっきりと見える雪色のその花の名は、ウィンクルム。ヴィルジールが好きだと言った花だ。


 ルーチェは一輪だけ手折ると、ヴィルジールに向かって差し出した。


「……ウィンクルムの花か」


 ヴィルジールはルーチェから花を受け取ると、くるりくるりと指先で回しながら、柔らかな表情をした。その横顔を眺めるルーチェは、離宮に植えた花の種たちのことを想った。


 ルーチェがソレイユ宮の庭に花の種を植えた日、離宮は襲撃され、半壊した。ルーチェの手が加えられた花壇は、瓦礫の下敷きになってしまったが、土の一部は城の中央にある庭園に移された。


 運が良ければ芽吹くかもしれないと、セルカが庭師から聞いたそうだ。


「ウィンクルムの花が城にたくさん咲いているのは、ヴィルジールさまのご指示ですか?」


「ああ。母が好きだったからだというのもあるが、花を咲かせ続けることで、誓っている。……死んだ家族にな」


 どちらのものなのか分からない小さな吐息が、夜風にさらわらる。


 ルーチェはそっと、ヴィルジールの右手に触れた。秋の夜の冷たさに体温を奪われてしまったのか、彼の手はとても冷たかった。


「長い歴史の中で、ウィンクルムの花は何度も人々の飢えや病を救ってきた。民を飢えさせない、民を救える病で死なせない──そんな皇帝であろうという、誓いのようなものだな」


 どちらからともなく、指が絡まっていく。ヴィルジールの手を暖めるには、ルーチェの手は小さく、包み込むことすら出来なかったが、それでも繋いでいた。


 繋がれた手の向こうにあるものに、熱を灯すことは出来るはずだと、ルーチェは信じているから。


「……冷酷で、無慈悲だと最初に言った人に、聞かせて差し上げたいです」


「それはエヴァンに流させたものだ。恐ろしいと知っていて、進んで近づこうとする人間はいないと思ったからな」


 ルーチェは弾かれたように顔を上げた。


 ヴィルジールの目は星の瞬く夜空へと戻されているが、その美しい瞳を独り占めできる方法を思いついたルーチェは、繋いだ手にきゅっと力を込めた。


「では、国に帰ったら、ヴィルジールさまが本当は優しくて温かい人だと、人々に触れ回っても良いですか?」


「何を言っているんだ」


「だって、本当のことではありませんか」


 ルーチェの予想通りに、ヴィルジールはすぐにルーチェの方を向いた。深い青の瞳に映るのは、果てしない夜空ではなく、目の前にいるルーチェだけだ。


「私に任せてください」


「…断固拒否する」


 けらけらと笑い出したルーチェを見て、ヴィルジールも喉を鳴らして微笑った。


 ヴィルジールの知るルーチェは、控えめで大人しく、朝焼けに咲く花のように微笑う少女だ。


 だが、今のルーチェは──。


(──あの日に見た姿と、似ている)


 今ヴィルジールの目の前にいるルーチェは、城下町に連れて行った時に、孤児院の子供たちに囲まれている時に見た笑顔と同じものだった。


 まるで陽だまりの中で揺れる大輪の花のようなその笑みは、今まで見た中で一番、ルーチェらしいと思える。ほんとうは、そんなふうに笑う少女だったのだ。



 溢れんばかりに笑っていたルーチェだが、不意打ちと言わんばかりにヴィルジールが顔を近づけてきたので、薄らと唇を開いたまま固まった。


 何をされるのだろう。そう思った次の瞬間には、こつんと。ヴィルジールの額が、ルーチェの額に軽く当てられる。


「な、何をするのですかっ…!」


 ルーチェはぱっと顔を赤く染め、口をぱくぱくと動かした。吐息が触れ合う距離に、心臓が悲鳴を上げているのを感じる。


「特に深い意味はないが」


「は、恥ずかしいので、やめてくださいっ」


「何故恥ずかしいんだ」


「それは…」


 こんなにも胸が高鳴る理由は、分かっている。それは相手が、他の誰でもない──ヴィルジールだからだ。


 かつてルーチェの隣にいた人の傍では、初めからそこに居たかのような安らぎを感じていたが、ヴィルジールは違う。彼だけが、ルーチェをおかしくさせる。


「それは、何だ?」


 ヴィルジールの大きな手が、ルーチェの髪を優しく撫でる。壊れ物に触れるかのような手つきに、頬を擦り寄せたくなってしまったが、唇を引き結んで耐えた。


 いつからだろうか。触れられることに、見つめられることに、しあわせだと感じるようになったのは。


「またいつか、来れたらいい。…この国の星空は悪くない」


 そう言って、ヴィルジールがまぶたを下ろす。


 共に来よう、と言わなかった理由を尋ねる勇気は、一欠片も湧きそうになかった。


 ルーチェは瞬きとともに涙を一雫、外に弾き出した。

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