匂いが強くなった。ひとつの国が喪われるきっかけとなった、あの炎の臭いが。
夜の空を切る勢いで翔んできたルーチェは、背にぴったりと寄り添う銀色の翼のぬくもりに背中を押されるようにして、高度を下げていった。
ルーチェが来ることを分かっていたのか、黄金色の体躯が眩しい光を放ちながら近づいてくる。不気味な紅い瞳の奥からは、ファルシの存在を感じた。
取り込まれてしまったのか、呑み込まれているだけなのかは分からない。だが、ファルシと自分を繋ぐ光はまだ失われてはいない。
竜は大きく啼いた。
「(──やはり来たか)」
「……儀式の、竜」
鋼のような鱗に覆われている黄金の巨躯が、ルーチェの間近までやって来る。
竜は二つの目でルーチェを捉えると、大きな尾を建物に打ちつけた。
ヴィルジールと共に歩いた道が割れ、共に見上げた時計塔も崩れ、ばらばらと瓦礫の山を作っていく。人々が時間をかけて造りあげたものを、目の前にいる竜は息をするように壊していく。
憤りを感じたルーチェは、ぎゅっと唇を引き結んだ。
「貴方の目的は私ではないのですか」
「(無論、そうだとも)」
「ならばこれ以上、この地を荒らすのはおやめください。私はもう、逃げませんから」
ルーチェは右手を差し出した。指先が微かに震えている。いつも通りに息をしているつもりでも、上手く空気を吸えていないのか、胸がいっぱいになったように苦しい。
「(ほう、我のものになると申すか。イージスの神たる我を拒むという、大罪を犯したお前が)」
「──わたしはっ…!」
「(ワタシは、何だというのだ。お前と愚かな男のせいで、イージスの大地は失われたのだぞ。お前たちが大人しくさえしていれば、今頃は新しい王と贄が生まれていたであろうに)」
竜は嗤う。怯んだルーチェを見て、それはそれは愉しそうに。
(───わたしは)
ルーチェは唇を噛み締めて、俯きそうになるのを堪えた。
竜がすべての記憶を取り戻したルーチェを見たら、犯した罪を並べて嗤ってくることは分かっていた。だから何だと返せるような強さも、その口を黙らせる術もルーチェは持ち合わせていない。
けれど、引くわけにはいかないのだ。
ルーチェは竜に喰われにきたわけではないのだから。
「───ファルシさま」
ルーチェの呼びかけに応えるように、竜の黄金の軀から一度だけ清々しい光が発せられる。その温かな光に、竜は戸惑ったように腹部を見下ろした。
「(───もしや貴様、我の中で生きていたのか)」
竜が毒々しい爪を鱗に突き立て、線を引くように引き裂く。ずるりと空いた穴からは、目が眩むような光が溢れだした。
竜が紅い瞳を細めながら、光を掴むように手を入れる。その一瞬の隙を待っていたルーチェは、裂け目へと向かって飛び出し、精一杯の声で叫んだ。
「───ファルシ様ッ!!!」
ルーチェが伸ばした手に熱が灯ったのと、全てを焼き尽くすような光が生まれたのは同時だった。
竜の腹から出た光が、どこまでも高く、大空へと伸びていく。
それは世界に光を配るかのように、真っ暗闇だった世界に光の粒子を降らせていった。
「───…フィオナ」
春風のような声が、ルーチェになった少女の名を紡ぐ。頷き返した時にはもう、ファルシに抱きしめられていた。
「フィオナッ…!!!」
「ファルシ様っ……」
──だけど。
ルーチェを抱きしめるファルシの腕が、片方だけしかない。
「ファルシ様……、腕を、どうされたのですか」
ファルシは碧色の瞳を和らげながら、首を左右に振った。
「私のことはいいんだ。腕一本くらい、問題はないから」
「そういうことではないのです…!一体いつ、どこでっ…」
本来ならば腕があるはずの服の部分を、ルーチェは涙目になりながら掴んだ。さいごに会った時には、確かにあったのに。
「問題ないと言っただろう。それよりも、早く此奴を──」
ファルシの目が竜へと向けられる。
竜は何事もなかったかのように、ルーチェとファルシを見つめていた。己の爪で腹を裂いたばかりだというのに、その傷はもう塞がっている。
「(──感動の再会は終わったか?)」
「お陰様でね」
「(まさか我の腹の中に居たとは。よくぞ溶けずにいられたものだ)」
「お前がまことに竜だったのなら、間違いなく溶けていたと思うよ」
どういうことだと、竜が喉を鳴らす。
ファルシはルーチェを背に庇うようにして前に進み出ると、残った左手に光を灯した。
「神殿はお前という化け物を何百年もの間隠していた。十五年起きに目醒めるお前は、聖女を喰らうことで再び眠りにつく。──それは何故かと、私はずっと考えていたんだ」
雲隠れしていた月が、黄金色の髪を照らす。
ファルシは赤く光るオヴリヴィオの大地を一瞥してから、竜を見据えた。