上 夜明けと犬と、父と息子
夜勤明けの朝は、世界が少し白っぽく霞んで見える。
ガードマンとしての勤務を終えた小川守(42)は、
制服のシャツを汗で肌に貼りつかせながら、
茅ヶ浜市の住宅街を溜息まじりに歩いていた。
「……ふぅ」
朝焼けに染まる海が、眠気眼にじんわりと差し込む。
まぶしいというより、目の奥をじわりと締め付けるような光だった。
眠気と疲れをごまかすように、守は堤防沿いの裏道を歩く。
そのとき――
ザシャ、と砂利を引きずるような音が、静かな空気を割った。
反射的に足を止め、視線を向けた先。
コンクリの隙間に、何かが倒れている。
それは――
三つの頭を持つ、黒い犬だった。
「……なっ……!」
思わず息を呑む。理解が追いつかなかった。
三つの首、それぞれが微かに動いている。
全身は埃と泥まみれで、ところどころに打撲や擦り傷の痕が見える。
まるで、何かから逃げてここにたどり着いたようだった。
守は本能的に半歩後ずさった。
しかし――
六つの目が同時にこちらを見上げた、その瞬間。
その目は、妙に寂しそうだった。
誰かを探すような、
すべてを諦めたような、
それでも、最後の力で縋ろうとするような――そんな目。
その胸元には、金属の装飾のようなものがぶら下がっていた。
古びた紐にひとつだけ、小さな金色のペンダントが鈍く光っている。
月の紋章のような、不思議な意匠が刻まれていた――
気がつけば、守は制服の上着を脱ぎ、
震える体にそっとかけていた。
「大丈夫だ……動くな。すぐに、連れてってやるから」
誰にともなく、そう呟きながら。
──
マンションに戻ると、玄関にパジャマ姿の少年――優(15)が現れた。
ぼさぼさの頭をかきながら、眠たげな顔で守を見上げる。
「……なにその顔。
ってか、オヤジ……犬、拾ってきたの?」
まだ寝ぼけたような表情のまま、しかし眉だけはしっかりと吊り上がっていた。
「……おい優、今何時だと思ってる。
もうとっくに学校に行ってる時間だろうが。」
「いやいやいや、今日は違うって。創立記念日で休みって言ったじゃないか。」
優はあきれたように言い返し、欠伸を噛み殺す。
その言葉に、守もようやく思い出した。
そうだった。今日は祝日でもなんでもない、高校の創立記念日だ。
「……すまん、すっかり抜けていた。
今の仕事、曜日も祝日も感覚が狂っててな。」
守は靴を脱ぎかけたままリビングへと急いだ。
「優、すまん。文句は後だ。奥からタオルと冷却ジェル、持ってきてくれ!」
「え、ちょ、マジで……?」
息子は言いかけた言葉を飲み込む。
その視線の先、リビングの床に横たえられた黒い犬。
優はじっと、それを見つめた。
「……なぁ、オヤジ」
声が少し震えている。
「この犬……顔、三つあるよな?」
「……やっぱり、お前にもそう見えるか。」
守は小さく息を吐いた。
夜勤明けの幻覚かもしれないと思ったが、そうではなかった。
三つの首。それぞれ違う方向を向いている。
けれど、こちらを見るときだけは、ぴたりと揃う。
優の言葉に、守は無言で頷いた。
まるで「怖いよ」「助けて」と訴えるように。
三つの頭は、それぞれ異なる様子だった。
額に小さなこぶを作った首もいれば、呼吸の浅い首もいた。
それでも、不思議と――どこか繋がっているように見えた。
まるで、三人分の痛みを、同時に感じているかのように。
「……これ、ほんとにただの犬なのか?」
優の問いに、守は答えられなかった。
代わりに、濡らしたタオルを取り出して、
そっと三つ首のひとつに巻いた。
そのとき。
三つのうち、中央の犬が――
かすかに、守の手のひらに顔を擦り寄せた。
あたたかい。
こんなにも確かな命の温もりを感じたのは、
いつ以来だっただろう。
父と息子は、無言のまま応急処置を続けた。
助けなければ、という一心で。
けれど――
このときの二人は、まだ何も知らなかった。
この小さな命たちが、
満月に照らされた夜に――
新しい家族になることを。