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第1話 三つの首の朝 ②

下 三つの声が、名乗った夜



幸いにも、今日は守の夜勤明けの休みの日だった。

息子の優も、創立記念日で学校はなかった。



「ほら、親父。とりあえず包帯とタオル。持ってきたけどさ……。

でも、こいつら……めっちゃボロボロじゃねーか。

どうして、こんなになるまで……!」


憤る優の声が、リビングに響く。

守もまた、まったく同じ気持ちだった。


三つ首の異形とはいえ、その体には擦り傷や打撲のような痕があり、

まるで何かに巻き込まれて、力尽きたような様子だった。


「優。応急処置をしておくから、追加の包帯と、ペット用ミルクか犬用の飲み物を頼む。お金は後で渡す」


守が頼むと、優は短く頷き、自転車の鍵を手に取った。

玄関を出る直前、三つの頭を一つずつ撫でながら、小さく声をかける。


「お前ら、待ってろよ」


そう言い残し、駆け出していった。



──



優が出かけたあとのリビングで、守はひとり応急処置を進めた。

冷えたタオルで体を拭き、関節や腫れた部分に冷却材を当て、

包帯で優しく固定していく。


少しでも苦痛が和らぐように。

心の中で、何度も「大丈夫だ」と言い聞かせながら。


かつて医薬品営業(MR)として働いていた頃の知識が、思いがけず役に立った。


「頑張れ……しばらく休めば、楽になるからな」


守の手を、三つ首の犬は一度も拒まなかった。

ただ静かに、すべてを委ねるように、じっとしていた。



──



ひととおりの処置を終えたとき、守はふと、今朝のことを思い出した。


そういえば――

あの犬の胸元にぶら下がっていた、あの奇妙なペンダント。


いつの間にか、見当たらなくなっていた。


(……あれ、気のせいだったか……?)


けれど、深く考える気力は不思議と湧いてこなかった。



それよりも今は――



あんなにたくさん、息子と会話を交わしたのは……いつ以来だっただろう。


この三つ首の犬が、

張りつめていた父子の間を、少しずつ、やわらかくほどいてくれたような気がした。



──



「……そういえば、優のやつ、遅いな」



独り言のように呟いた、その瞬間。


玄関のドアが開いた。


「ごめん……待たせた。だいぶ、時間……かかっちゃって」


肩で息をしながら、優が立っていた。

手には、ビニール袋いっぱいの包帯と犬用ミルク。


「コンビニにはなくてさ……。ドラッグストアが開くまで、待ってた」


「……そうか。ありがとう」


守はわずかに笑みを浮かべた。


「せっかくだから、お前がミルクをあげてやれ」


優は頷き、袋から取り出した哺乳瓶にミルクを注ぐ。

そっと差し出すと、黒い犬はゆっくりと舌を伸ばし――


ゴク、ゴク……。

三つの顔が、交互にミルクを飲み始めた。


静かな時間。

守と優は同時に、ふぅ……と息をついた。


久しぶりに見る息子の顔は、どこか照れたような、

それでいてまっすぐな、優しい目をしていた。


優がミルクを飲ませ終えるのを見届けた守は、

ようやく胸の底から息を吐く。



そして――


ずしり、とした眠気が背中から肩へとのしかかってきた。


「……優、すまない。ちょっとだけ……寝かせてもらえるか。何かあったら、起こしてくれ」


「……いいよ。俺が見てる」


優の頷きを受けて、守はリビングを後にし、

布団へと身を横たえた。


夜勤明けの疲労。

そして、ほんの少しだけ満たされた、あたたかな気持ち。


優との会話も、三つの瞳も、胸の奥にぽっと灯ったまま――

守の意識は、深い眠りへと落ちていった。



──



目を覚ましたときには、すっかり夕暮れだった。


(……三つ首の犬は、大丈夫だろうか)


リビングへ戻った守の目に映ったのは、

犬のそばで黙々と包帯を替える優の姿だった。


床に散らばるタオルと空のボトル。

それは、彼がずっと看病を続けてきた証だった。


「おかえり。……ずっと寝てたな、オヤジ」


「……ああ。すまん。せっかく休みの日だったのにな。ありがとう。」


優はほんの少しだけ、照れたように笑った。


軽く食事を済ませ、一息ついたときだった。



ふと、窓の外に目を向けると――

まんまるな満月が、夜空にぽっかりと浮かんでいた。


やわらかな月明かりが、部屋の床を淡く照らしている。


「……あれ、なんか……?」


優が小さくつぶやいた、その瞬間だった。


黒い犬の体が、ふわり、と淡い光に包まれた。


「……っ!? な、なんだ!?」


空気が震えるような感覚。

守と優はとっさに手で目を覆った。



そして――



光が収まったあと、そこに立っていたのは。


黒髪の少女。

金髪の少女。

水色の髪の少女。


三人の少女たちが、月明かりの中に静かに立っていた。


黒髪の少女は、冷静な瞳でこちらを見つめ、

金髪の少女はにかっと笑い、手を振る。

水色の髪の少女は、もじもじとしながら胸に手を当てていた。



「……おはようございます。

はじめまして。私たち――ケルベロスです」



三人は、ぺこりと丁寧にお辞儀をした。


呆然と立ち尽くす守と優。


その静寂の中、

新しい日常が、静かに、しかし確かに――始まろうとしていた。

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