下 三つの声が、名乗った夜
幸いにも、今日は守の夜勤明けの休みの日だった。
息子の優も、創立記念日で学校はなかった。
「ほら、親父。とりあえず包帯とタオル。持ってきたけどさ……。
でも、こいつら……めっちゃボロボロじゃねーか。
どうして、こんなになるまで……!」
憤る優の声が、リビングに響く。
守もまた、まったく同じ気持ちだった。
三つ首の異形とはいえ、その体には擦り傷や打撲のような痕があり、
まるで何かに巻き込まれて、力尽きたような様子だった。
「優。応急処置をしておくから、追加の包帯と、ペット用ミルクか犬用の飲み物を頼む。お金は後で渡す」
守が頼むと、優は短く頷き、自転車の鍵を手に取った。
玄関を出る直前、三つの頭を一つずつ撫でながら、小さく声をかける。
「お前ら、待ってろよ」
そう言い残し、駆け出していった。
──
優が出かけたあとのリビングで、守はひとり応急処置を進めた。
冷えたタオルで体を拭き、関節や腫れた部分に冷却材を当て、
包帯で優しく固定していく。
少しでも苦痛が和らぐように。
心の中で、何度も「大丈夫だ」と言い聞かせながら。
かつて医薬品営業(MR)として働いていた頃の知識が、思いがけず役に立った。
「頑張れ……しばらく休めば、楽になるからな」
守の手を、三つ首の犬は一度も拒まなかった。
ただ静かに、すべてを委ねるように、じっとしていた。
──
ひととおりの処置を終えたとき、守はふと、今朝のことを思い出した。
そういえば――
あの犬の胸元にぶら下がっていた、あの奇妙なペンダント。
いつの間にか、見当たらなくなっていた。
(……あれ、気のせいだったか……?)
けれど、深く考える気力は不思議と湧いてこなかった。
それよりも今は――
あんなにたくさん、息子と会話を交わしたのは……いつ以来だっただろう。
この三つ首の犬が、
張りつめていた父子の間を、少しずつ、やわらかくほどいてくれたような気がした。
──
「……そういえば、優のやつ、遅いな」
独り言のように呟いた、その瞬間。
玄関のドアが開いた。
「ごめん……待たせた。だいぶ、時間……かかっちゃって」
肩で息をしながら、優が立っていた。
手には、ビニール袋いっぱいの包帯と犬用ミルク。
「コンビニにはなくてさ……。ドラッグストアが開くまで、待ってた」
「……そうか。ありがとう」
守はわずかに笑みを浮かべた。
「せっかくだから、お前がミルクをあげてやれ」
優は頷き、袋から取り出した哺乳瓶にミルクを注ぐ。
そっと差し出すと、黒い犬はゆっくりと舌を伸ばし――
ゴク、ゴク……。
三つの顔が、交互にミルクを飲み始めた。
静かな時間。
守と優は同時に、ふぅ……と息をついた。
久しぶりに見る息子の顔は、どこか照れたような、
それでいてまっすぐな、優しい目をしていた。
優がミルクを飲ませ終えるのを見届けた守は、
ようやく胸の底から息を吐く。
そして――
ずしり、とした眠気が背中から肩へとのしかかってきた。
「……優、すまない。ちょっとだけ……寝かせてもらえるか。何かあったら、起こしてくれ」
「……いいよ。俺が見てる」
優の頷きを受けて、守はリビングを後にし、
布団へと身を横たえた。
夜勤明けの疲労。
そして、ほんの少しだけ満たされた、あたたかな気持ち。
優との会話も、三つの瞳も、胸の奥にぽっと灯ったまま――
守の意識は、深い眠りへと落ちていった。
──
目を覚ましたときには、すっかり夕暮れだった。
(……三つ首の犬は、大丈夫だろうか)
リビングへ戻った守の目に映ったのは、
犬のそばで黙々と包帯を替える優の姿だった。
床に散らばるタオルと空のボトル。
それは、彼がずっと看病を続けてきた証だった。
「おかえり。……ずっと寝てたな、オヤジ」
「……ああ。すまん。せっかく休みの日だったのにな。ありがとう。」
優はほんの少しだけ、照れたように笑った。
軽く食事を済ませ、一息ついたときだった。
ふと、窓の外に目を向けると――
まんまるな満月が、夜空にぽっかりと浮かんでいた。
やわらかな月明かりが、部屋の床を淡く照らしている。
「……あれ、なんか……?」
優が小さくつぶやいた、その瞬間だった。
黒い犬の体が、ふわり、と淡い光に包まれた。
「……っ!? な、なんだ!?」
空気が震えるような感覚。
守と優はとっさに手で目を覆った。
そして――
光が収まったあと、そこに立っていたのは。
黒髪の少女。
金髪の少女。
水色の髪の少女。
三人の少女たちが、月明かりの中に静かに立っていた。
黒髪の少女は、冷静な瞳でこちらを見つめ、
金髪の少女はにかっと笑い、手を振る。
水色の髪の少女は、もじもじとしながら胸に手を当てていた。
「……おはようございます。
はじめまして。私たち――ケルベロスです」
三人は、ぺこりと丁寧にお辞儀をした。
呆然と立ち尽くす守と優。
その静寂の中、
新しい日常が、静かに、しかし確かに――始まろうとしていた。