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第8話 三姉妹、初めての留守番

「……よし、いい感じだな」


守はフライパンを握り、火加減を気にしながら目玉焼きを睨みつけた。

小さく頷き、菜箸で白身をぷるんとすくう。


リビングの奥からは、優が学ランの袖に腕を通す気配がする。

ごそごそとカバンを探る音も聞こえた。


「……っと、まだ少し時間あるか」


優の呟きの後、机の上に置かれた英単語帳を開く音が続いた。


守がちらりと振り返ると、

制服姿の優がソファに座り、真剣な顔でページをめくっていた。


その姿に、守は思わず微笑む。


「優も成長したもんだな……」


ジュウゥゥ……


フライパンの上で黄身がぷっくりと膨らむ音。

慌てて火を止め、皿にそっと移す。

白くふわふわの縁取りに、こんもりとした黄色が映えていた。


「はい、できたぞー」


リビングに声をかけると、優が顔を上げた。



──



「お、サンキュー。うまそうじゃん」


英単語帳を閉じた優が立ち上がり、テーブルへ向かう。

その後ろを、ヘレナが静かに続いた。


赤いネクタイに黒髪のカチューシャ。

昨日、はじめて人の姿に変わったときと同じ姿で、

すっとした目元をわずかに緩ませながら、席に着く。


ヘレナは目の前に置かれた目玉焼きをじっと見つめた。


「……?」


小首をかしげるヘレナに、優がにやりと笑いかけた。


「知らねーのか。焦がすと目の玉が焼けるほどのビームが出るんだぜ?

その名も、サニーサイドアップ!!」


「えっ!?」


変顔を作る優に、ヘレナはびくっと肩を震わせた。

真剣な顔で、目玉焼きから一歩距離を取る。


守は吹き出しそうになるのを堪えながら、優の頭を軽く叩いた。


「優、朝から真面目なヘレナをからかうな。

大丈夫、爆発なんかしないよ」


守は笑いながら、醤油を手渡した。


ヘレナはおそるおそる箸を取り、醤油をかける。

見よう見まねでそっと卵を突くと、黄身がとろりと流れ出し、白いごはんに染み込んだ。


「……おいしそうです……、お父様!」


ぱくりと一口。


次の瞬間、ヘレナの顔がぱあっと輝いた。


「……おいしいっ!」


守も笑い、優もにやりと卵をかき込んだ。



──



「……さて」


湯呑みを手にしながら、守が口を開いた。


「今日は金曜日だな。各自スケジュールを共有しておこう」


優が指を立てた。


「俺は今日、学校終わったらそのままバイトだ。

夕方17時から21時まで。」


守も頷く。


「自分は通常勤務だ。

朝8時半から、夕方5時半までだな。」


話を聞きながら、ヘレナがまっすぐ姿勢を正した。



「……わたくしは」



胸に手を当て、きりりと背筋を伸ばす。


「一日中、こちらにおります。

お二方がいない間、この世界の知識を深めるため、勉強をいたします」


優が目を丸くした。


「勉強?」


ヘレナはこくりと頷いた。


「はい。

優くんの教科書や、お父様の読まれている本を拝読し、

この世界の常識をできる限り身につけたいと。

わたくしはケルベロス三姉妹の長女ですから」


守の胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「……そうか。えらいぞ、ヘレナ」


優も照れたように頭をかきながら言った。


「……無理すんなよ。

分かんないことあったら、メモしとけよな」


「承知しました!」


ヘレナはきりりと敬礼のように頭を下げた。

その仕草に、守と優は思わず吹き出してしまった。



──



食後。


「とりあえず、ヘレナ。お昼用のおにぎりを作っておいた。

適当なタイミングで食べるんだぞ」


守はそう言いながら時計を見た。


「私は7時40分には家を出る。戸締まりはしっかりな」


「じゃあ、そろそろ7時30分だし、俺は出るよ」


鞄を背負い、自転車の鍵を手に取る優。


ヘレナがぺこりと頭を下げた。


「いってらっしゃいませ、優くん!」


優はくしゃりと笑った。


「おう、いってきます!」


そして、扉が静かに閉まった。



──



優が出たあと、守はリビングを軽く見回る。

玄関の鍵、窓の施錠、台所の火の元――

一通りの確認を終えると、ヘレナの前にしゃがみ込んだ。


「ヘレナ。何かあったら、すぐ電話しろ。

念のため、私の名刺を渡しておく」


ヘレナは真剣な顔で頷き、名刺を大切そうに受け取った。


「これは、お父様の身分証のようなものですね。承知しました!」


守は優しくヘレナの頭を撫でる。


「じゃあ、行ってくる」


「いってらっしゃいませ」


ヘレナはきちんと背筋を伸ばして見送った。



──



カチリ、と玄関の扉が閉まる。


家の中に、静寂が訪れる。


ヘレナはリビングの机に向かうと、

そっと椅子に腰を下ろした。


机の上には、優が使っていた数学の問題集と英単語帳。

それに、守が読んでいた衛生管理者試験の参考書や、

「リーダーシップとは」といった本が並んでいた。


ヘレナはまず、数学の本を手に取る。


ページをぱらりとめくりながら、そっと指で文字をなぞる。


「……さぁ、はじめていきましょうか……」


小さく呟き、真剣な顔で本に向かうヘレナ。


静かなリビングに、春の柔らかな光が降り注いでいた。



こうして、

ヘレナの初めての「留守番」が、静かに始まったのだった。

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