「……よし、いい感じだな」
守はフライパンを握り、火加減を気にしながら目玉焼きを睨みつけた。
小さく頷き、菜箸で白身をぷるんとすくう。
リビングの奥からは、優が学ランの袖に腕を通す気配がする。
ごそごそとカバンを探る音も聞こえた。
「……っと、まだ少し時間あるか」
優の呟きの後、机の上に置かれた英単語帳を開く音が続いた。
守がちらりと振り返ると、
制服姿の優がソファに座り、真剣な顔でページをめくっていた。
その姿に、守は思わず微笑む。
「優も成長したもんだな……」
ジュウゥゥ……
フライパンの上で黄身がぷっくりと膨らむ音。
慌てて火を止め、皿にそっと移す。
白くふわふわの縁取りに、こんもりとした黄色が映えていた。
「はい、できたぞー」
リビングに声をかけると、優が顔を上げた。
──
「お、サンキュー。うまそうじゃん」
英単語帳を閉じた優が立ち上がり、テーブルへ向かう。
その後ろを、ヘレナが静かに続いた。
赤いネクタイに黒髪のカチューシャ。
昨日、はじめて人の姿に変わったときと同じ姿で、
すっとした目元をわずかに緩ませながら、席に着く。
ヘレナは目の前に置かれた目玉焼きをじっと見つめた。
「……?」
小首をかしげるヘレナに、優がにやりと笑いかけた。
「知らねーのか。焦がすと目の玉が焼けるほどのビームが出るんだぜ?
その名も、サニーサイドアップ!!」
「えっ!?」
変顔を作る優に、ヘレナはびくっと肩を震わせた。
真剣な顔で、目玉焼きから一歩距離を取る。
守は吹き出しそうになるのを堪えながら、優の頭を軽く叩いた。
「優、朝から真面目なヘレナをからかうな。
大丈夫、爆発なんかしないよ」
守は笑いながら、醤油を手渡した。
ヘレナはおそるおそる箸を取り、醤油をかける。
見よう見まねでそっと卵を突くと、黄身がとろりと流れ出し、白いごはんに染み込んだ。
「……おいしそうです……、お父様!」
ぱくりと一口。
次の瞬間、ヘレナの顔がぱあっと輝いた。
「……おいしいっ!」
守も笑い、優もにやりと卵をかき込んだ。
──
「……さて」
湯呑みを手にしながら、守が口を開いた。
「今日は金曜日だな。各自スケジュールを共有しておこう」
優が指を立てた。
「俺は今日、学校終わったらそのままバイトだ。
夕方17時から21時まで。」
守も頷く。
「自分は通常勤務だ。
朝8時半から、夕方5時半までだな。」
話を聞きながら、ヘレナがまっすぐ姿勢を正した。
「……わたくしは」
胸に手を当て、きりりと背筋を伸ばす。
「一日中、こちらにおります。
お二方がいない間、この世界の知識を深めるため、勉強をいたします」
優が目を丸くした。
「勉強?」
ヘレナはこくりと頷いた。
「はい。
優くんの教科書や、お父様の読まれている本を拝読し、
この世界の常識をできる限り身につけたいと。
わたくしはケルベロス三姉妹の長女ですから」
守の胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……そうか。えらいぞ、ヘレナ」
優も照れたように頭をかきながら言った。
「……無理すんなよ。
分かんないことあったら、メモしとけよな」
「承知しました!」
ヘレナはきりりと敬礼のように頭を下げた。
その仕草に、守と優は思わず吹き出してしまった。
──
食後。
「とりあえず、ヘレナ。お昼用のおにぎりを作っておいた。
適当なタイミングで食べるんだぞ」
守はそう言いながら時計を見た。
「私は7時40分には家を出る。戸締まりはしっかりな」
「じゃあ、そろそろ7時30分だし、俺は出るよ」
鞄を背負い、自転車の鍵を手に取る優。
ヘレナがぺこりと頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、優くん!」
優はくしゃりと笑った。
「おう、いってきます!」
そして、扉が静かに閉まった。
──
優が出たあと、守はリビングを軽く見回る。
玄関の鍵、窓の施錠、台所の火の元――
一通りの確認を終えると、ヘレナの前にしゃがみ込んだ。
「ヘレナ。何かあったら、すぐ電話しろ。
念のため、私の名刺を渡しておく」
ヘレナは真剣な顔で頷き、名刺を大切そうに受け取った。
「これは、お父様の身分証のようなものですね。承知しました!」
守は優しくヘレナの頭を撫でる。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
ヘレナはきちんと背筋を伸ばして見送った。
──
カチリ、と玄関の扉が閉まる。
家の中に、静寂が訪れる。
ヘレナはリビングの机に向かうと、
そっと椅子に腰を下ろした。
机の上には、優が使っていた数学の問題集と英単語帳。
それに、守が読んでいた衛生管理者試験の参考書や、
「リーダーシップとは」といった本が並んでいた。
ヘレナはまず、数学の本を手に取る。
ページをぱらりとめくりながら、そっと指で文字をなぞる。
「……さぁ、はじめていきましょうか……」
小さく呟き、真剣な顔で本に向かうヘレナ。
静かなリビングに、春の柔らかな光が降り注いでいた。
こうして、
ヘレナの初めての「留守番」が、静かに始まったのだった。