目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第9話 地獄の門番、迷子になる

チクタク、チクタク――。


リビングには、壁掛け時計の音だけがぽつりぽつりと響いていた。


ソファに座ったヘレナは、開いた英単語帳をただ見つめていた。

けれど、ページをめくる指は、もう止まっていた。



春の光が、窓の外をやさしく照らす。

小学生たちの笑い声が、遠くからかすかに聞こえる。


なのに、彼女の周囲だけが、ぽっかりと取り残されていた。




(……さみしい)




胸の奥に、冷たい水がじわじわと満ちていく感覚。

ヘレナはそっと立ち上がり、玄関へ向かった。


ドアノブを握る指先が、かすかに震えていた。



「……少しだけ、……外の空気を」



誰に向けるでもない呟き。

彼女は静かに、外へ踏み出した。



──



茅ヶ浜の町並みは、春の光に包まれていた。


塀の脇に揺れる菜の花。

走り去る自転車の子どもたち。

どこもにぎやかで、明るかった。



ヘレナは、どこへ向かうともなく歩き出した。

心細さを隠すように、足を動かして。



やがてたどり着いたのは、

人気のない、小さな公園だった。


「十軒浜公園」



錆びたジャングルジム。

誰もいない滑り台。

ぎい……ぎい……と風に揺れるブランコ。



ヘレナは、そっとそのブランコに腰掛けた。


細い鎖が軋み、小さな体が、わずかに揺れる。


ぎぃ……ぎぃ……



広い青空が、どこまでも高く広がっていた。


けれど、彼女の胸の中は、押しつぶされそうな孤独でいっぱいだった。



──



「おや、どうしたの?」



ふいに、背後から優しい声がかけられた。


驚いて顔を上げると、

そこには警察官の制服を着た男性が立っていた。


穏やかな目元。

胸元の名札には【山本 昌】とあった。



ヘレナは、ぎゅっと唇を引き結んだまま、小さく答えた。


「……ヘレナ、ケルベロス、です……」



昌警官はにっこりと笑った。


「うん。いい名前だね。

じゃあ、お父さんやお母さんはどこに?」



ヘレナは、視線を伏せながら、か細い声を搾り出す。


「……お父様と……優くんと……暮らしてます……でも……」



言葉の続きを呑み込んだ。


声に出してしまえば、胸の奥が崩れてしまいそうだったから。



昌警官は無線機に手を当てると、

落ち着いた声で本部に連絡を入れた。



「こちら十軒浜公園。少女一名保護。これより交番へ搬送する」



その頼もしい声を聞いて、

ヘレナはそっと目を閉じた。



──



十軒浜交番。


ヘレナは、パイプ椅子に座ったまま、両手をぎゅっと握りしめていた。


昌警官は、電話を終え、ヘレナに優しく声をかけた。


「もうすぐ迎えが来るからな。安心していいぞ」



ヘレナは、こくりと小さく頷いた。


守から預かった名刺が役に立った。

昌警官はこれを確認すると、すぐに対応してくれた。


もうすぐ守がきてくれる。

けれど、胸の奥の緊張はほどけなかった。



(……迷惑かけちゃった……)

(……お父様、怒るかな……)



不安だけが、胸の中を満たしていた。



──



カラン――。


玄関のドアが開く音がした。



「ヘレナ!」



駆け込んできたのは、汗ばんだ顔の守だった。



彼はヘレナの前にしゃがみ込み、

その瞳をまっすぐに覗き込んだ。



「大丈夫か……?」



息を切らしながら、必死に問いかける。


ヘレナは、小さく、こくりと頷いた。


言葉を出そうとした。


でも――


出なかった。




今にも溢れそうな涙を、必死でこらえる。


唇を噛みしめ、下を向く。



守は、そっと彼女の頭に手を置き、

優しく撫でた。



「怖かったな……

でも、よく頑張ったな……」



その言葉に、ヘレナの肩がふるりと震えた。


それでも、彼女は泣かなかった。


ぎゅっと堪えた。



守の胸に飛び込むことも、

わっと泣き出すこともせず――



ただ、じっとその場で、小さな体を震わせながら、

必死に立っていた。



──



小さな交番の中に、柔らかな夕陽が差し込んでいた。

守はまだ息を整えきれないまま、ヘレナのそばにしゃがみ込み、何度も安堵の吐息をこぼしていた。


すると、その背後から、ゆっくりと足音が近づいてくる。


「……小川さん。久しぶりだな!」


落ち着いた低い声が、守の耳に届いた。


守は振り返り、驚いたように目を見開いた。



「――あっ、昌さん……!」



ヘレナが目を瞬かせ、守と昌警官のやりとりをそっと見守る。


「まさか、こういう形で再会するとはな」

昌は苦笑しながら言った。


守も、少し照れたように口をゆるめる。


「……驚きましたよ。

娘を保護してくれたのが昌さんだなんて。

本当にありがとうございます」


守は、深く頭を下げた。


昌警官は、照れくさそうに笑いながら帽子を軽く押さえた。


「いやいや。礼なんていいさ。

こっちこそ、こうして再会できたのが嬉しいくらいだ」


守も、少し笑ってうなずく。


「昌さんも、変わらずで安心しました」


昌警官はにやりと笑った。


「そりゃまあ、見た目はちょっと老けたかもしれんがな。

……小川さん、覚えてるか?

最初に夜勤巡回で顔を合わせた頃、搬入口ですれ違ったりしてさ」


「ああ、あの病院ですね。

懐かしいな……」


二人は、ほんのひととき、思い出話に笑みを交わした。




そして――



昌警官は、ふと表情を引き締めた。



「でも、あんたとは、もっと前に一度、出会ってるんだよな。

……五年前の、祭りの日に」



守の笑みが、ふっと消えた。


「……覚えてます」


守の胸の奥に、あの夜のざわめきと、緊迫した光景が蘇る。

忘れられるはずもない、あの出来事を――。



「……あの時、男性が突然倒れて。

俺、警察官なのに……目の前のことが、処理しきれなくて、足が動かなくなった」


「…………」


「でも、あんたは――すぐに人だかりをかき分けて、俺に言ったんだ。

“公園の野球場にAEDがある。急いで取ってきてくれ”って」


その言葉に、ヘレナが小さく目を見開く。


「……お父様が、警官に指示を……?」


守は苦笑して肩をすくめた。


「あの時は、周囲があまりにも混乱していて……咄嗟でした」


「そういうときに動けるのが、”本当の現場の人間”だよ」

昌はそう言って、優しく言葉を続けた。


「あの夜、俺がAEDを持って戻ったとき、

あんたはすでに胸骨圧迫を続けながら、迷うことなくAEDを起動して、救助にあたっていた。」


ヘレナはじっと守を見つめていた。

どこか誇らしげに、どこか、知らなかった一面を噛みしめるように。


「……呼吸が戻ったとき、あんなに安堵した表情を見たのは初めてだった。

その時、思ったんだ。

“この人は命の重みを知ってる人なんだ”って」


守は少しだけ視線を逸らし、照れくさそうに笑った。


「……昌さん、よくそんな細かく覚えてましたね。あれ、もう五年も前ですよ」


「忘れるかよ」

昌は少しだけ声を震わせた。


「俺が、あの時、動けなかった分を、誰かが補ってくれた――。

そのことが、ずっと心に残ってたんだ。

……今回、ほんの少しでも、あんたに返せた気がするよ」


昌警官はそう言って、守の肩をぽんと叩いた。


沈黙の中に、信頼が宿っていた。


ヘレナは、口を開きかけて――


けれど、ただ小さくうなずいた。


その眼差しには、静かな感動が滲んでいた。


彼女は、ようやく知ったのだ。


自分の“お父様”が、ただの“守る人”ではなく――

本当に誰かの命を救った、確かな「ヒーロー」だったということを。



──



交番の外では、

春風が桜の花びらを運んでいた。



世界は、とても、優しかった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?