チクタク、チクタク――。
リビングには、壁掛け時計の音だけがぽつりぽつりと響いていた。
ソファに座ったヘレナは、開いた英単語帳をただ見つめていた。
けれど、ページをめくる指は、もう止まっていた。
春の光が、窓の外をやさしく照らす。
小学生たちの笑い声が、遠くからかすかに聞こえる。
なのに、彼女の周囲だけが、ぽっかりと取り残されていた。
(……さみしい)
胸の奥に、冷たい水がじわじわと満ちていく感覚。
ヘレナはそっと立ち上がり、玄関へ向かった。
ドアノブを握る指先が、かすかに震えていた。
「……少しだけ、……外の空気を」
誰に向けるでもない呟き。
彼女は静かに、外へ踏み出した。
──
茅ヶ浜の町並みは、春の光に包まれていた。
塀の脇に揺れる菜の花。
走り去る自転車の子どもたち。
どこもにぎやかで、明るかった。
ヘレナは、どこへ向かうともなく歩き出した。
心細さを隠すように、足を動かして。
やがてたどり着いたのは、
人気のない、小さな公園だった。
「十軒浜公園」
錆びたジャングルジム。
誰もいない滑り台。
ぎい……ぎい……と風に揺れるブランコ。
ヘレナは、そっとそのブランコに腰掛けた。
細い鎖が軋み、小さな体が、わずかに揺れる。
ぎぃ……ぎぃ……
広い青空が、どこまでも高く広がっていた。
けれど、彼女の胸の中は、押しつぶされそうな孤独でいっぱいだった。
──
「おや、どうしたの?」
ふいに、背後から優しい声がかけられた。
驚いて顔を上げると、
そこには警察官の制服を着た男性が立っていた。
穏やかな目元。
胸元の名札には【山本 昌】とあった。
ヘレナは、ぎゅっと唇を引き結んだまま、小さく答えた。
「……ヘレナ、ケルベロス、です……」
昌警官はにっこりと笑った。
「うん。いい名前だね。
じゃあ、お父さんやお母さんはどこに?」
ヘレナは、視線を伏せながら、か細い声を搾り出す。
「……お父様と……優くんと……暮らしてます……でも……」
言葉の続きを呑み込んだ。
声に出してしまえば、胸の奥が崩れてしまいそうだったから。
昌警官は無線機に手を当てると、
落ち着いた声で本部に連絡を入れた。
「こちら十軒浜公園。少女一名保護。これより交番へ搬送する」
その頼もしい声を聞いて、
ヘレナはそっと目を閉じた。
──
十軒浜交番。
ヘレナは、パイプ椅子に座ったまま、両手をぎゅっと握りしめていた。
昌警官は、電話を終え、ヘレナに優しく声をかけた。
「もうすぐ迎えが来るからな。安心していいぞ」
ヘレナは、こくりと小さく頷いた。
守から預かった名刺が役に立った。
昌警官はこれを確認すると、すぐに対応してくれた。
もうすぐ守がきてくれる。
けれど、胸の奥の緊張はほどけなかった。
(……迷惑かけちゃった……)
(……お父様、怒るかな……)
不安だけが、胸の中を満たしていた。
──
カラン――。
玄関のドアが開く音がした。
「ヘレナ!」
駆け込んできたのは、汗ばんだ顔の守だった。
彼はヘレナの前にしゃがみ込み、
その瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「大丈夫か……?」
息を切らしながら、必死に問いかける。
ヘレナは、小さく、こくりと頷いた。
言葉を出そうとした。
でも――
出なかった。
今にも溢れそうな涙を、必死でこらえる。
唇を噛みしめ、下を向く。
守は、そっと彼女の頭に手を置き、
優しく撫でた。
「怖かったな……
でも、よく頑張ったな……」
その言葉に、ヘレナの肩がふるりと震えた。
それでも、彼女は泣かなかった。
ぎゅっと堪えた。
守の胸に飛び込むことも、
わっと泣き出すこともせず――
ただ、じっとその場で、小さな体を震わせながら、
必死に立っていた。
──
小さな交番の中に、柔らかな夕陽が差し込んでいた。
守はまだ息を整えきれないまま、ヘレナのそばにしゃがみ込み、何度も安堵の吐息をこぼしていた。
すると、その背後から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
「……小川さん。久しぶりだな!」
落ち着いた低い声が、守の耳に届いた。
守は振り返り、驚いたように目を見開いた。
「――あっ、昌さん……!」
ヘレナが目を瞬かせ、守と昌警官のやりとりをそっと見守る。
「まさか、こういう形で再会するとはな」
昌は苦笑しながら言った。
守も、少し照れたように口をゆるめる。
「……驚きましたよ。
娘を保護してくれたのが昌さんだなんて。
本当にありがとうございます」
守は、深く頭を下げた。
昌警官は、照れくさそうに笑いながら帽子を軽く押さえた。
「いやいや。礼なんていいさ。
こっちこそ、こうして再会できたのが嬉しいくらいだ」
守も、少し笑ってうなずく。
「昌さんも、変わらずで安心しました」
昌警官はにやりと笑った。
「そりゃまあ、見た目はちょっと老けたかもしれんがな。
……小川さん、覚えてるか?
最初に夜勤巡回で顔を合わせた頃、搬入口ですれ違ったりしてさ」
「ああ、あの病院ですね。
懐かしいな……」
二人は、ほんのひととき、思い出話に笑みを交わした。
そして――
昌警官は、ふと表情を引き締めた。
「でも、あんたとは、もっと前に一度、出会ってるんだよな。
……五年前の、祭りの日に」
守の笑みが、ふっと消えた。
「……覚えてます」
守の胸の奥に、あの夜のざわめきと、緊迫した光景が蘇る。
忘れられるはずもない、あの出来事を――。
「……あの時、男性が突然倒れて。
俺、警察官なのに……目の前のことが、処理しきれなくて、足が動かなくなった」
「…………」
「でも、あんたは――すぐに人だかりをかき分けて、俺に言ったんだ。
“公園の野球場にAEDがある。急いで取ってきてくれ”って」
その言葉に、ヘレナが小さく目を見開く。
「……お父様が、警官に指示を……?」
守は苦笑して肩をすくめた。
「あの時は、周囲があまりにも混乱していて……咄嗟でした」
「そういうときに動けるのが、”本当の現場の人間”だよ」
昌はそう言って、優しく言葉を続けた。
「あの夜、俺がAEDを持って戻ったとき、
あんたはすでに胸骨圧迫を続けながら、迷うことなくAEDを起動して、救助にあたっていた。」
ヘレナはじっと守を見つめていた。
どこか誇らしげに、どこか、知らなかった一面を噛みしめるように。
「……呼吸が戻ったとき、あんなに安堵した表情を見たのは初めてだった。
その時、思ったんだ。
“この人は命の重みを知ってる人なんだ”って」
守は少しだけ視線を逸らし、照れくさそうに笑った。
「……昌さん、よくそんな細かく覚えてましたね。あれ、もう五年も前ですよ」
「忘れるかよ」
昌は少しだけ声を震わせた。
「俺が、あの時、動けなかった分を、誰かが補ってくれた――。
そのことが、ずっと心に残ってたんだ。
……今回、ほんの少しでも、あんたに返せた気がするよ」
昌警官はそう言って、守の肩をぽんと叩いた。
沈黙の中に、信頼が宿っていた。
ヘレナは、口を開きかけて――
けれど、ただ小さくうなずいた。
その眼差しには、静かな感動が滲んでいた。
彼女は、ようやく知ったのだ。
自分の“お父様”が、ただの“守る人”ではなく――
本当に誰かの命を救った、確かな「ヒーロー」だったということを。
──
交番の外では、
春風が桜の花びらを運んでいた。
世界は、とても、優しかった。