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第10話 家族になる日

ガチャリ。

玄関のドアが開いた。


「ただいまー……」


バイト帰りの優が、だるそうに鞄を引きずりながら入ってきた。


リビングには、

湯気の名残りと、ほんのり石鹸の匂い。


ソファには、守と――

静かに座ったヘレナがいた。



「おかえり、優」


守が、穏やかに声をかける。


優は、鼻を鳴らして応えた。


「ったく……疲れたわ……。駅前のコンビニバイトって、絶え間なく客がくるから、コスパ悪すぎだろ……」


鞄をソファに放り投げ、ずるずると腰を落とす。


制服のシャツは汗で少し湿っていた。



そんな優の目に、

パジャマ姿のヘレナが映った。


その耳と尻尾は垂れ下がっており、

優は、ん?と眉をひそめる。


「……あれ。ヘレナ、もう風呂に入ったんだな」


「……はい」


ヘレナは小さく答えた。


その声音に、優はかすかな違和感を覚えた。



リビングの空気が、どこか、静かすぎた。



──



「実はな……」


守が、優に向き直り、

昼間起こった出来事を、簡潔に語った。


ヘレナが家を抜け出し、

公園で迷子になったこと。


交番で、警察に保護されたこと。


そして――

守が、全力で迎えに行ったこと。



優は、ぽかんと口を開けた。



「……マジかよ」



それから、ふっと笑った。


「あー……なるほどな」


彼は、わざとらしくヘレナを見やった。



「ケルベロスのくせに――

迷子の子猫ちゃんだったってワケか!」




──その瞬間だった。




「……うっ、うえぇぇぇぇん!!」




ヘレナのダムが、決壊した。



ヘレナは、両手で顔を覆いながら、

大粒の涙をこぼし始めた。



「……パパぁ……優くん……ごめんなさいぃ……っ!」



必死に、しゃくりあげながら続ける。


「これからは……ちゃんということ聞くからぁ……。

わたくしたち、……お二人と……これからも、いっしょに……暮らしたいですぅ……!」



言葉にならない嗚咽。

しゃくりあげながら、絞り出す声。


ヘレナは、必死だった。


必死に、ここにいたかった。




優は、完全に固まった。




「えっ、えっ、ちょ……まじ……!?」


慌てて手をバタバタさせる。



守は、そんな優の頭を、容赦なくぺしりと叩いた。


「このバカ、フォローもできねえのか!」


「い、いや、そんなマジ泣きするなんて思わなくてよぉ!!」



守はヘレナの前に膝をつき、

静かに彼女の肩に手を置いた。




「ヘレナ」




呼びかける声は、驚くほど優しかった。



「怖かったな」



ヘレナは、小さく首を振る。



守は、そっと微笑んだ。



「……だけどな、

怖いのを我慢して頑張ったお前を、私は誇りに思う」



「……っ」


ヘレナの目から、またぽろりと涙がこぼれた。



「それに――」


守は、まっすぐ彼女を見つめた。



「ヘレナ。

君たちが来てくれて……

私も優も、どれだけ救われたか、わからないんだ」



横から、優も、ぶっきらぼうに言葉を繋ぐ。



「……別に、いなくても困ってねーとか思ってたけどさ」


ぽりぽりと頬を掻きながら。



「……今は、いてくれて、よかったって思ってる」



ヘレナは、信じられないような顔で二人を見た。




「……でも……」


かすれた声で呟く。


「わたくしたち……ご迷惑しか……かけておりませんが……」



優が、大きくため息をついた。


「まあなぁ~~」


にやりと笑う。


「めちゃくちゃ食うし、うるせーし、尻尾はブンブンするしな~~」


「っ!」


ヘレナが顔を赤らめた。



でも。



「それが――

悪くねぇんだよ」




ヘレナは、何かが胸の奥でほどけるのを感じた。



守は、静かに、けれど力強くヘレナに向き直った。


「いいか、ヘレナ」


その声は、優しくも、しっかりと地に足のついたものだった。



「――人間だって、迷惑をかけ合って生きてるんだ」


ヘレナは、はっとして顔を上げた。


守は、穏やかに微笑んだ。



「助けたり、助けられたり。

迷惑をかけたり、かけられたり。

それでも――一緒にいるって、そういうことなんだよ」



ヘレナの大きな瞳が、じわりと潤む。




「君たちは、迷惑なんかじゃない。

……大切な家族だ」




ぽろり、と。


ヘレナの頬を、また一粒の涙が伝った。



優も、照れくさそうに口をとがらせながら言う。


「オヤジのくせに、たまにはいいこと言うじゃん……」


守は笑いながら、優の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


そして、改めてヘレナの肩にそっと手を置いた。



「これからも、いろんなことがあるだろうけど……。

一緒に、乗り越えていこうな」



ヘレナは、きゅっと拳を握り――


涙をぽろぽろ流しながら、何度も、何度も、頷いた。



「……はいっ……!

よろしくお願いしますっ……!!」


彼女の声は震えていたけれど、間違いなく、まっすぐな声だった。


リビングの空気が、ぽかぽかと温かく満ちていく。



──



しん……と静まるリビング。


桜の花びらが、窓の外で舞っていた。




ふいに照れ隠しのように、優が空気を壊す。



「でもさっき、ヘレナ、オヤジのこと――

パパって呼んだよなぁぁ~~!!」



「っっっっ!!!」


ヘレナの尻尾が跳ね上がり、顔が真っ赤になる。


「違いますぅ!!」


バッと立ち上がった。



「パパ~!パパ~!」


優が逃げ回る。


「やめてください~~~!!」


ヘレナが全力で追いかける。



ドタドタドタ!!



「こらーーー!!!」


守が怒鳴り、リビングがぐちゃぐちゃになる。



──



ようやく捕まり、押さえつけられた優は、

頭を押さえながらへらへら笑った。


ヘレナも、真っ赤な顔でぷるぷる震えていた。



そんな二人を見ながら、

本当は、この笑い声をもう少しだけ守っていたかった。


けれど、家族として、伝えなければならないことがあった。



守は、ふっと顔を引き締めた。




「……二人とも」




その声に、リビングが一気に静まった。


守は、重たい空気をまといながら、

ゆっくりと言葉を紡いだ。



「……聞いてくれ」



優とヘレナが、息を呑む。



「この茅ヶ浜に――」



守は、低く、静かに告げた。





「……勇者と名乗る者が、現れた」





リビングに、ぴたりと重たい沈黙が落ちた。



ヘレナの手が、

小さく、震えた。



優も、顔を強張らせた。



守は、二人をまっすぐに見つめていた。



外では、夜の風が、静かに桜を揺らしていた。

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