ガチャリ。
玄関のドアが開いた。
「ただいまー……」
バイト帰りの優が、だるそうに鞄を引きずりながら入ってきた。
リビングには、
湯気の名残りと、ほんのり石鹸の匂い。
ソファには、守と――
静かに座ったヘレナがいた。
「おかえり、優」
守が、穏やかに声をかける。
優は、鼻を鳴らして応えた。
「ったく……疲れたわ……。駅前のコンビニバイトって、絶え間なく客がくるから、コスパ悪すぎだろ……」
鞄をソファに放り投げ、ずるずると腰を落とす。
制服のシャツは汗で少し湿っていた。
そんな優の目に、
パジャマ姿のヘレナが映った。
その耳と尻尾は垂れ下がっており、
優は、ん?と眉をひそめる。
「……あれ。ヘレナ、もう風呂に入ったんだな」
「……はい」
ヘレナは小さく答えた。
その声音に、優はかすかな違和感を覚えた。
リビングの空気が、どこか、静かすぎた。
──
「実はな……」
守が、優に向き直り、
昼間起こった出来事を、簡潔に語った。
ヘレナが家を抜け出し、
公園で迷子になったこと。
交番で、警察に保護されたこと。
そして――
守が、全力で迎えに行ったこと。
優は、ぽかんと口を開けた。
「……マジかよ」
それから、ふっと笑った。
「あー……なるほどな」
彼は、わざとらしくヘレナを見やった。
「ケルベロスのくせに――
迷子の子猫ちゃんだったってワケか!」
──その瞬間だった。
「……うっ、うえぇぇぇぇん!!」
ヘレナのダムが、決壊した。
ヘレナは、両手で顔を覆いながら、
大粒の涙をこぼし始めた。
「……パパぁ……優くん……ごめんなさいぃ……っ!」
必死に、しゃくりあげながら続ける。
「これからは……ちゃんということ聞くからぁ……。
わたくしたち、……お二人と……これからも、いっしょに……暮らしたいですぅ……!」
言葉にならない嗚咽。
しゃくりあげながら、絞り出す声。
ヘレナは、必死だった。
必死に、ここにいたかった。
優は、完全に固まった。
「えっ、えっ、ちょ……まじ……!?」
慌てて手をバタバタさせる。
守は、そんな優の頭を、容赦なくぺしりと叩いた。
「このバカ、フォローもできねえのか!」
「い、いや、そんなマジ泣きするなんて思わなくてよぉ!!」
守はヘレナの前に膝をつき、
静かに彼女の肩に手を置いた。
「ヘレナ」
呼びかける声は、驚くほど優しかった。
「怖かったな」
ヘレナは、小さく首を振る。
守は、そっと微笑んだ。
「……だけどな、
怖いのを我慢して頑張ったお前を、私は誇りに思う」
「……っ」
ヘレナの目から、またぽろりと涙がこぼれた。
「それに――」
守は、まっすぐ彼女を見つめた。
「ヘレナ。
君たちが来てくれて……
私も優も、どれだけ救われたか、わからないんだ」
横から、優も、ぶっきらぼうに言葉を繋ぐ。
「……別に、いなくても困ってねーとか思ってたけどさ」
ぽりぽりと頬を掻きながら。
「……今は、いてくれて、よかったって思ってる」
ヘレナは、信じられないような顔で二人を見た。
「……でも……」
かすれた声で呟く。
「わたくしたち……ご迷惑しか……かけておりませんが……」
優が、大きくため息をついた。
「まあなぁ~~」
にやりと笑う。
「めちゃくちゃ食うし、うるせーし、尻尾はブンブンするしな~~」
「っ!」
ヘレナが顔を赤らめた。
でも。
「それが――
悪くねぇんだよ」
ヘレナは、何かが胸の奥でほどけるのを感じた。
守は、静かに、けれど力強くヘレナに向き直った。
「いいか、ヘレナ」
その声は、優しくも、しっかりと地に足のついたものだった。
「――人間だって、迷惑をかけ合って生きてるんだ」
ヘレナは、はっとして顔を上げた。
守は、穏やかに微笑んだ。
「助けたり、助けられたり。
迷惑をかけたり、かけられたり。
それでも――一緒にいるって、そういうことなんだよ」
ヘレナの大きな瞳が、じわりと潤む。
「君たちは、迷惑なんかじゃない。
……大切な家族だ」
ぽろり、と。
ヘレナの頬を、また一粒の涙が伝った。
優も、照れくさそうに口をとがらせながら言う。
「オヤジのくせに、たまにはいいこと言うじゃん……」
守は笑いながら、優の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
そして、改めてヘレナの肩にそっと手を置いた。
「これからも、いろんなことがあるだろうけど……。
一緒に、乗り越えていこうな」
ヘレナは、きゅっと拳を握り――
涙をぽろぽろ流しながら、何度も、何度も、頷いた。
「……はいっ……!
よろしくお願いしますっ……!!」
彼女の声は震えていたけれど、間違いなく、まっすぐな声だった。
リビングの空気が、ぽかぽかと温かく満ちていく。
──
しん……と静まるリビング。
桜の花びらが、窓の外で舞っていた。
ふいに照れ隠しのように、優が空気を壊す。
「でもさっき、ヘレナ、オヤジのこと――
パパって呼んだよなぁぁ~~!!」
「っっっっ!!!」
ヘレナの尻尾が跳ね上がり、顔が真っ赤になる。
「違いますぅ!!」
バッと立ち上がった。
「パパ~!パパ~!」
優が逃げ回る。
「やめてください~~~!!」
ヘレナが全力で追いかける。
ドタドタドタ!!
「こらーーー!!!」
守が怒鳴り、リビングがぐちゃぐちゃになる。
──
ようやく捕まり、押さえつけられた優は、
頭を押さえながらへらへら笑った。
ヘレナも、真っ赤な顔でぷるぷる震えていた。
そんな二人を見ながら、
本当は、この笑い声をもう少しだけ守っていたかった。
けれど、家族として、伝えなければならないことがあった。
守は、ふっと顔を引き締めた。
「……二人とも」
その声に、リビングが一気に静まった。
守は、重たい空気をまといながら、
ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……聞いてくれ」
優とヘレナが、息を呑む。
「この茅ヶ浜に――」
守は、低く、静かに告げた。
「……勇者と名乗る者が、現れた」
リビングに、ぴたりと重たい沈黙が落ちた。
ヘレナの手が、
小さく、震えた。
優も、顔を強張らせた。
守は、二人をまっすぐに見つめていた。
外では、夜の風が、静かに桜を揺らしていた。