「……言おうかどうか迷ったんだが――」
守は、湯呑みを手にしたまま、ゆっくりと口を開いた。
「昨日、博物館で“勇者”を名乗る奴が現れたそうだ」
その言葉に、優とヘレナが同時に動きを止めた。
ダイニングテーブルに、静かな緊張が走る。
「……勇者?」
優が、訝しむように眉をひそめた。
「どこで……?」
「茅ヶ浜市博物館———。昨日の夜の話だ」
守はそう答えると、ゆっくりと湯呑みを置いた。
「……まずは、順を追って説明させてくれ。今日なにが起こったのかを」
──
本日、金曜日の朝。
夜勤明けの休みを挟み、守は久々にプロテクシア警備保障の制服に袖を通していた。
いつもと同じように、警備拠点の事務所で身支度を整え、出勤前の連絡事項に目を通していると、朝の定例報告会が始まった。
その場にいたのは、ベテランの先輩ガードマンである秋山と、若手の巡回員たち。
「おはよう。今日も無事故でいこうな」
そう挨拶した秋山の表情は、どこか緩んでいた。
「……でさ、小川。お前、今日の“ネタ”聞いたか?」
「ネタ、ですか?」
守は首をかしげた。
「……博物館に、勇者が現れたんだとよ。鎧と剣、まさに“フル装備”だったらしい」
「……!」
守の背筋が、すっと冷える。
「“勇者”って……コスプレか何かですか?」
「まぁな。年の頃は、高校生くらいの少年だって話だ。
金色の装飾の入った鎧に、背中には幅広の剣。まるでゲームの中のキャラがそのまま出てきたような感じだったそうだ」
秋山は笑いながら続ける。
「目撃した館員の話によれば、奴は博物館内をうろうろしてたが、明らかに“何かを探してる様子”だったらしい」
「……異常者では?」
「そう疑った館側が非常警報を鳴らしたんだよ。すぐにプロテクシアの常駐チームが駆けつけた。
だが、その瞬間――」
秋山は眉をひそめた。
「……ありえないほどの動きで、ガードを振り切ったそうだ」
「ありえない、って……?」
「非常口から逃げたって話だけどな。階段を駆け下りながら、柵を一瞬で飛び越えたらしい。
それも、まるで重力を無視するような動きで、あっという間に視界から消えたと」
「……」
守は、息を飲んだ。
その姿は、あまりにも、“彼女たち”が語った“勇者”の姿に重なっていた。
「館側は騒ぎ立てたが、ケガ人も被害もなく、警察への通報も見送られた。所轄としては“悪質なコスプレイヤーの可能性あり”で処理されたそうだが……」
「……何かを、探していた」
守は、秋山の言葉をなぞるように、低く呟いた。
秋山は気づいていない。
だが、守の頭の中では――その情報が、ある“現実”と結びついていくのを止められなかった。
ケルベロス三姉妹のこと。
“勇者”という存在の予兆。
守は、じっと自分の手のひらを見つめていた。
(……ついに、来たのか)
彼女たちが語っていた“魔界の戦い”が、現実味を帯びて動き出している――
そんな予感が、心を重く支配した。
──
その日、守の心は朝から落ち着かなかった。
博物館で“勇者”を名乗る人物が現れたという報せ――
その情報が頭から離れず、警備先の動きにもいつも以上に目を光らせていた。
定例業務をこなしつつも、情報共有アプリを何度も確認し、館内巡回中の隊員たちにもそれとなく聞き取りを行っていた。
しかし、それ以降、“勇者”に関する新たな情報が上がることはなかった。
(……警備としての動きは、通常通り)
(でも、“勇者”は……確かに、姿を現した)
午後15時半を回った頃だった。
守が詰所で日報をまとめていると、会社の内線が鳴った。
「小川さん、至急。交番から連絡が入っています。十軒浜交番の山本さんという方が……」
心臓が、ひときわ強く打った。
(交番……? まさか――)
電話を受け取ると、受話器の向こうから、穏やかな声が聞こえた。
「小川さん。お世話になります、十軒浜交番の山本です。……お嬢さんを、こちらでお預かりしています」
その一言で、守の中に張り詰めていた緊張の糸が、一気に切れそうになった。
「……わかりました。すぐ向かいます!」
守はすぐさま本部に連絡し、事情を伝えて早退の手続きをとった。
そして、走った。
春の夕陽の差す街を、ただただ一直線に。
迎えに行かなければという想いが、胸を焦がしていた。
そして、16時。
十軒浜交番に駆けつけた守は、無事にヘレナの姿を確認する。
(……本当に、無事でよかった)
その安堵とともに、胸の奥にずっとくすぶっていた不安が、今度は別のかたちで燃え上がっていた。
(……勇者。そいつは、確実にこの町にいる。
これから、何かが始まる――
──
「……以上が、今日の出来事だ。」
守が静かに言い終えると、リビングには重たい沈黙が落ちた。
優は、口をつぐんだまま俯いていた。
ヘレナもまた、表情を硬くしていた。
守は、深く息を吐いてから頷く。
「……今は、確証はない。だが、もし本当に“彼”なら――油断はできない」
優が、そっと口を開いた。
「……明日は、俺、バイト休みだ」
「そうか」
守も頷いた。
「……だからといって、ずっと家に閉じこもっている必要はないと思ってる。逆に、気が張りすぎて疲れてしまっても、本末転倒だ」
二人が顔を上げる。
守は、静かに言葉を継いだ。
「午前中までは、できれば家で様子を見ていてほしい。
ただ、昼以降……近場に出るくらいなら構わない。遠出だけは避けてくれ」
優は目を細め、少しだけ頷く。
「……分かった。また明日次第でどうするのか、考えるってことでいいんだな?!」
「そうだ」
守は真剣な眼差しで言う。
「ただし、スマホは必ず持っていろ。こまめに確認してくれ。連絡にはすぐに出られるようにな」
「……了解」
優は短く答えた。
ヘレナは、そっと息を吐いてから言った。
「……お父様、ありがとうございます。
そしてそんな中、本日は本当に申し訳ございませんでした。」
——もう気にするなと、守はヘレナを頭を優しく撫で、ゆっくりと二人を見つめる。
「これから先、何が起こるかは分からない。
でも――忘れるな。“戦う”ためじゃない。“守る”ために、動くんだ」
ヘレナは、はっとして顔を上げた。
その瞳には、静かな決意の光が宿っていた。
守は、改めて二人に目を向けながら、最後に言った。
「明日は慎重に、でも――怯えすぎず、しっかりと過ごそう」
──
外では、夜風が窓をかすかに揺らしていた。