夜のリビングには、静かな空気が漂っていた。
金曜日の晩。長い一日だった。
そして、ヘレナが――守の隣で、そっと口を開く。
「お父様……」
その声音は、どこか覚悟を滲ませていた。
「わたくし……」
少しだけ、言葉を選ぶように間を置いた。
「……優くんと、同じ高等学校というものに、通ってみたいです!」
一瞬、時間が止まった。
「……はぁ!?」
最初に叫んだのは優だった。
「いやいやいや、無理無理無理!
入学式はとっくに終わってるし、学籍とか書類とか、そんなの……」
「だが……」
守は口を挟む。
「勇者がこの町に現れた以上、家に一人で置いておくリスクは高い。優と同じ学校に通うのは、理にかなってる」
「いやいや、理って!そんな簡単に通えるわけないって!」
守はふうっ、と息を吐くと、スマホを手に取った。
「……この前、高梨社長と飲みに行ったときに、偶然お前の高校の校長と知り合ってな」
「いつの間にそんな人脈作りを……。ってか、えっ?! なんで恵理のお父さんと勝手に飲みに行ってるんだよ!! いま初めて聞いたぞ!!」
「悪い、そういえば伝えてなかったな。“スナック渚”っていう店でな」
守はさらりと言う。
「偶然隣に座ったんだ。一緒に熱唱して、それが縁で話し込んでな。仕事の話も、家族の話も、いろいろ聞かれてな」
そして、スマホの画面に視線を落とす。
『……夜分遅くに申し訳ございません。海外留学していたうちの娘が茅ヶ浜に戻ってまいりまして。もし可能であれば、その件でご相談させて頂けないでしょうか』
LIMEでメッセージを送信した――その瞬間だった。
《着信:加山校長》
「……えっ、速っ!!」
「出るぞ」
守はおもむろにLIME通話のボタンを押した。
──
「小川さん……いやあ、ご無沙汰していますなぁ!」
電話越しから響いたのは、明朗でどこか潮風を思わせるような、懐の深い男の声だった。
「加山校長、夜分遅くに申し訳ありません。……先日は、ありがとうございました」
電話越しに守が頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ。あなたとの出会いは、ほんと楽しかった。この年にもなって、あんな声量で歌うとは思いませんでしたがねぇ!」
「いやぁ、私も地方出身者のノリで、申し訳ございません……」
「はははっ、とんでもない。貴重な経験をどうも、ありがとうございました。……それで、娘さんというのは?」
守は校長に確認した上で、テレビ電話へと画面を切り替える。
しばらくすると、スマホの向こうで白髪混じりの温和な笑顔が浮かんだ。
茅ヶ浜南高校の校長・加山は、まさに“湘南の男”といった風情の人物だった。
守がスマホの角度を変えると、画面にヘレナが映し出された。
驚くことに、いつのまにか彼女は魔法で制服姿になっていた。
「はじめまして。ヘレナ・ケルベロスと申します。……突然のお願いとなり、申し訳ございません。
ですが、わたくし……どうしても、この町で、皆さまと共に学びたいのです」
ヘレナは、静かに、けれども力強く語った。
「この世界に来てから、たくさんのことを知りました。人の温かさも、厳しさも……。だからこそ、きちんと、この世界で生きていきたいんです。
その第一歩として、“学校”という場所で学びたいと、心から思っております」
一瞬、画面越しの加山が黙った。
だがその瞳は、柔らかく笑っていた。
「……いい目をしてるね、ヘレナさん」
「……!」
「わかりました。月曜日から、我が校の一員として迎えましょう。書類関係は後日で構いません。担任にも、私から話を通しておきます」
「ええっ!?」
優が叫ぶ。
「そんな即決でいいんですか、校長!?」
「小川優君。君は、我が校の特待生ではないか。……その君と同じクラスでなら、ヘレナさんもきっと良い学びを得られるはずだ」
「……ありがとうございます」
ヘレナが深く頭を下げた。
「こちらこそ」
加山校長も静かに頷く。
「それにね、小川さん」
守が顔を上げると、加山は懐かしそうに目を細めた。
「……私はあなたの人となりを信用している。これでも人を見る目はある方だとは思っていてね。」
「……」
守は、一瞬、言葉を失った。
「だからこそ、君が“娘さん”のために頭を下げるなら、私はその心を信じます」
──
ビデオ通話が終了し、静けさを取り戻したリビング。
守はスマホをそっとテーブルに伏せ、ふうと一息ついた。
「……やったな、ヘレナ」
「……はいっ!」
ヘレナは制服のスカートの裾をぎゅっと握って、目を輝かせた。
「本当に……ありがとうございます、お父様。……わたくし、お父様の人脈に、感謝の言葉もありません」
ぴょこりと頭を下げるヘレナ。その姿に、守は照れたように鼻をかいた。
「いやいや、たまたまタイミングがよかっただけさ」
「謙遜なさらないで下さい、すべてお父様のおかげです。
……お父様、大好きっ!!」
その一言で、守は硬直した。顔が、見る見るうちに赤くなる。
「っ……お、おう……そ、そうか……」
(この歳で娘に“お父様、大好き”なんて言われたら、そりゃあ……こうなるわな……)
そして横では――
一人息子が、ジト目で睨んでいた。
「……オヤジ、鼻の下、伸びてんぞ」
「うるさい!」
守が優の頭をぐしゃぐしゃに撫で回す。
その横で、ヘレナはふふっと笑った。