朝のキッチンには、湯気とともにほんのりとした温もりが広がっていた。
「……いいか、ふたりとも。勇者がこの町にいるのは間違いない。油断するなよ」
出勤前、守は真剣な表情でそう伝えた。
「うん、わかったよ」
優はうなずき、ミーナも「まかせて!」と胸を張る。
「あと、午前指定で敷布団が届くようにしているから。ちゃんと受け取ってくれよ」
「やったー!これで、おとうさんがソファで寝なくて済むね!」
ミーナがぱたぱたと手を振った。
「こら、言い方……」
守は思わず吹き出しそうになるが、口元を手で抑えてごまかす。
「……じゃ、行ってくる!」
「いってらっしゃーい!」
「……いってらっしゃい。」
優とミーナが、玄関で見送ってくれる。
そんな穏やかな光景に守は一瞬、足を止めた。
(……こんな風に見送られる日が来るなんて、思ってもみなかったな)
胸の奥にほんのりと、温かいものが灯ったような気がした。
──
守を見送ったあとの家は、少しだけ静かになった。
「さーて……洗濯、するか」
優がぼそりと呟きながら、脱衣所から洗濯物を抱えて戻ってくる。
「ボクも手伝うよっ!」
「お、おう。……あんまり邪魔すんなよ?」
「しないってば!」
ミーナは元気よく返事し、優のあとについて洗濯機のあるスペースへと向かった。
──
洗濯機が回り始めると、リビングにテレビの音がゆったりと流れ始めた。
「わぁ……見て見てユウ、これ、すっごく綺麗……!」
テレビでは、ちょうど温泉街の旅番組が放送されていた。
朝もやに包まれた露天風呂、老舗旅館の大広間、そして画面に映る豪華な料理の数々。
「わあ……これ、お鍋?湯気が……ふわあ……」
ミーナはうっとりと画面を見つめながら、優が干した洗濯物を丁寧にたたんでいく。
「……って、お前な、手止まってるぞ」
「わっ!ご、ごめん、見とれちゃってた!」
テレビの湯気と、洗濯物の湯気の区別がつかなくなりそうな勢いで、ミーナの頬がほんのり赤くなる。
──
一通り作業を終えたあと、優はリビングのテーブルに教科書を広げていた。
理科、英語、古文。中間テストに向けて、やることは山積みだ。
だけど、その表情は案外、前向きだった。
「ユウ、今日はお勉強の日なの?」
「ん? まあな。……できるだけ午前中に終わらせときたいし」
「どうして? 午後からは……何かあるの?」
「……まあ、ちょっとな」
優は、ちらりとミーナのほうを見て、ちょっと照れくさそうに笑った。
「午後はお前と遊ぶんだろ? 今日は晴れてるからさ、ミーナに茅ヶ浜の海を見せてやろうと思ってさ」
「……!」
ぱあっと、ミーナの顔が輝いた。
「ユウ、そういうの……すごく嬉しいっ!!」
「……うるさい。集中できねえだろ」
「えへへ……じゃあ、洗濯たたむの頑張るねっ!」
ちょっとだけ小走りでリビングを出るミーナに、優は自然と頬を緩めた。
──
時計の針が、11時半を回った。
「うおっ、もうこんな時間か……よし、区切りまでやったし」
優が筆箱を閉じて、椅子から立ち上がる。
「……そろそろ昼、どうしよっか」
「ユウ、何か作るの?」
ミーナがキッチンをのぞき込みながら聞いてきた。
「いや、今日は冷凍のやつで。ほら、これこれ。焼きおにぎり」
優は冷凍庫から袋を取り出し、自慢げに掲げる。
「これな、チンするだけでうまいんだよ。外カリ、中ふわ、って感じでさ」
「わー、楽しみ!」
ミーナは目を輝かせて、ソファにちょこんと座る。
──
「おー、できたできた。……はい、熱いから気をつけろよ」
「はーいっ!」
湯気を立てながら、焼きおにぎりがテーブルに並べられる。
「いただきまーすっ!」
ミーナが元気よく言い、ぱくりと頬張る。
「……んんっ! これ、美味しい!外がカリッとしてて、香ばしくって……!」
嬉しそうに尻尾を揺らすミーナを見て、優は少しばかり視線を落とした。
「……悪いな。これ、ただの冷凍だからさ」
「え? ぜんぜんそんなことないよ!」
ミーナは口元を拭いながら、にこにこと笑う。
「ボク、こういうのも大好き。でも……」
と、言葉を少しだけ間を置いてから、ぽつりと呟いた。
「今度は……ボクも、一緒に作ってみたいな」
「……!」
優は、少しだけ目を見開いた。
「……ズルっていうか……手ぇ抜いちゃって、ごめん。俺もミーナみたいに頑張るから、今度、一緒に挑戦しような」
その言葉に、ミーナはぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
「うんっ!」
──
その後、玄関のチャイムが鳴り、午前指定の敷布団が届いた。
「わー、でっかいねー!」
ミーナは興味津々で宅配の人を見送り、リビングの片隅に布団を置いて回転するようにくるくる回っていた。
ふたりで過ごす、はじめての“平日”。
外は雲ひとつない青空だった。
そして午後には、またひとつ、小さな冒険が待っている――