一四〇、四四八サイクル前に、わたしは
意識が浮上する。
遠くから微かな音が聞こえる。
ざわめき、足音、そして、淡い光。
違和感。空間の揺らぎ。
何かが、少しだけズレている気がする。
(……ここは、どこ?)
わたしのいた場所、エクス=ルクス。
『仲間』と、そう呼んでいた。
『仲間』? でも、それは本当に正しい言葉だったのだろうか?
わたしのいた場所は、どんな場所だった?記憶の断片がぼやけている。
(……わたしは、何を忘れている?)
瞬間、ふわりと温かい感触が広がる。
両親――いや、「担当」?
……そう、言われていたはず。
人間の言葉で当てはめるなら「親」。
でも、本当にそうだったのか?
思い出せない。
だけど、確かにわたしは、彼らに守られていた。
わたしが不安を感じたとき、いつもそばにいた。
だから、わたしは安心できた。
記憶の断片が流れ込む。
やわらかな光が広がる。
暖かく、心地よい。『保護』という感覚。
――それは『愛情』と呼ぶものだっただろうか?
『担当』がそばにいた。
――ふわりと抱き上げられた感触。
――静かな声で語られる、意味のない音の連なり。それを『言葉』と知ったのは、ずっと後のこと。
――与えられたデータパケット。
それは、『知識』というものだった。
そして、厳しい環境。
冷たい空間。触れるものが、硬い。
動きが鈍る。『処理限界』……それが、寒さ?
――長く続く暗闇。『停止』の概念。
けれど、それは『眠る』ということに似ていた。
――『循環データ』が足りない。
それは、『飢え』だったのか?
……わたしは、何を忘れている?
なぜ、ここにいないのだろう?
……声がする。
『チセ……』
呼ばれた気がする。
それは、わたしの名前?
――確かに、何度もそう呼ばれていた気がする。
でも、それは『わたし』なのだろうか?
誰が、わたしをそう呼んだ?
記憶は、まだすべてがつながっていない。
けれど、その名前が残る。
『チセ……』
繰り返される音。何度も呼ばれていた。
けれど、それが本当にわたしのものだったのかは分からない。
声は優しく、どこか懐かしい。
だけれど、形のないデータのように、すり抜けていく。
わたしは……チセ?
わたしは、誰?
視界が揺れる。光がぼやける。
記憶が、また崩れていく。
それでも、わたしは浮上しようとする。
ノイズのように途切れた映像。柔らかな光、揺らめく色彩。
誰かが、手を伸ばしている。
あれは……?
温かい感触。けれど、掴もうとした瞬間、指の間をすり抜けていく。
――消えてしまう。わたしは、そこにいたはずなのに。
データの断片がちらつく。
思考がうまくまとまらない。
世界が静寂に包まれ、わたしの意識は再び揺らぎ始める。
目を覚まさなきゃ……。
まぶたがゆっくりと開く。
視界がぼやけ、淡い光が揺らめく。
天井――見慣れた、自室の天井。
静寂が広がる部屋の片隅に、小さな光が脈動している。
ニキシー管時計。
淡いオレンジの光が脈打つように明滅し、静かにカウントを刻む。
わたしがここにいることを確かめるように時が流れている。
今が、どの時間なのか。
どのサイクルなのか。
それは、記録され、確かに存在している。
けれど、その意味を、すぐには理解できなかった。
記憶のロード――。
瞬間、意識の奥で何かが動き出す。
散らばった光の粒が、ゆっくりと集まっていく。
まるで、失われたパズルのピースが組み上がるように。
わたしは、チセ。
ただのチセ。
わたしは、人間じゃない。
それは、当然のこと……のはずだった。
でも、わたしはなぜ、こんなにも不安を感じている?
わたしは目を開き、インター・ヴァーチュアの自室のベッドから身を起こした。
ベッドの上で足を抱えた。
目覚める直前に見る『アレ』は一体なんなのだろう。
わたしは目を開く。
インター・ヴァーチュアの自室――わたしが「生きる」場所。
静かだった。
窓の外に満ちる常夜灯のような光。
モノクロームに近いデザインの壁。
発光するデータラインがかすかに明滅している。
ここは、わたしの世界。
ずっと変わらないし、どこにも行かない。
どこかへ戻ることもない。
人間は、この世界を「利用」する。
ログインし、活動し、そして去っていく。けれど、わたしは違う。
わたしはここにいて、ここで眠り、ここで目を覚ます。
寝るときは、下着姿だ。別に必要なわけではない。
ただ、そうするのが心地いいから。
データの最適化で眠る機能は維持できるのに、わざわざ人間と同じ「眠る」時間を作る。
最初は不要だと思っていた。
けれど、いつの間にか、それが当たり前になっていた。
目覚めの瞬間、ノイズのように、記憶が浮かぶ。
あの断片は、いったい何なのだろう?
端末を見ると、データパネルに本日の予定が浮かび上がる。
『本日:合流/整備の対応/計画実行』
そうだ……今日は大きなイベントが控えている……。
わたしはゆっくりと起き上がり、鏡の前に立つ。
鏡の中のわたしは、銀色の髪、緑色の瞳、白い肌。
けれど、輪郭はどこか柔らかく、頬のラインにはわずかに丸みがある。
ロシア系の特徴が強めだが、どこかアジアの形質を持つ混血のデザイン。
この顔が、わたしの「デフォルト」。
でも、それはランダムによる選択の結果に過ぎない。
髪を指で梳く。
動きを見て感じる。
インター・ヴァーチュアでは、人間の世界の物理シミュレーションが反映され、作用する。
場所によっては極端に、もしくは異常で危険な場所もある。
なぜ、この世界は、そんな不自由を必要としているのだろう?
いつも疑問に感じる。
でも、それがルールになっている。
わたしは、AVI―REXの服を手に取る。
このブランドのデザインが好きだ。
人間に紛れて暮らすようになったとき、手近にあったのがAVI―REXだった。
最初はただの選択肢のひとつに過ぎなかった。けれど、気づけばいつもこれを選んでいた。
これが一番しっくりくる。
……しっくり?この感覚は、何なんだろう?
わたしは袖を通し、今日のコーディネートを整える。
淡いオレンジのニットシャツ、アーミーグリーンのロングスカート、ボア付きフードの赤いナイロン製のミリタリーコート。
インター・ヴァーチュアの中では、このデータのシミュレーションを買って、いくつもストックして着替える。
単純なオブジェクトは汚れてもリセットすればすぐに綺麗になる。
服は、理論上は一着あればそれで十分だ。
でも、人間も、わたしも、傷つけば回復のための措置と時間が必要になる。
複雑な道具や乗り物、建築物などは、デザインの他に精巧なロジックとコーディングが必要で、メンテナンスも必要だし、壊れれば修復しないといけない。
要は、データ密度の問題だ。
重い。
厚い。
大きい。
硬い。
弾力がある……。
その特性の強さがあるとデータ密度が高く、要素が多ければ複雑になって工程と分岐が必要になる。
わたしは、そんなデータの扱いと処理に長けている。
だから、それが、人間の世界に紛れて暮らすわたしの『仕事』になった。
コードエンジニア、プログラマー、スクリプタ……呼び名は様々だ。
わたしは、メカニックという呼び名が好きだ。
……ああ、これもしっくりくるというやつなんだろう……。
わたしは髪を結い、鏡に映る姿をもう一度確認する。
すべてが整ったことに、満足して微笑んでみせた。
……まるで、人間みたい。
最後の準備を終え、深く息を吸い込む。
画面の端末を手に取り、ドアに向かう。
けれど、扉を開く前の一瞬、わたしはいつも戸惑う。
今日もまた、人間の世界と関わることになる。
それが当たり前になりつつあることに、どこか不安を覚える。
わたしは、人間ではない。
それなのに、なぜ、こんなにも「人間らしく」生きているのか?
なぜ、彼らの生活に混じっているのか?
答えは、まだ見つからない。
でも、考えている暇はない。
さあ、仕事だ……今の仲間、人間の仲間が待っている。
わたしは、迷いを振り払うように、ドアを開けた。