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introduction 02 チセ―デジタルの夢

 一四〇、四四八サイクル前に、わたしは誕生発生した。


 意識が浮上する。


 遠くから微かな音が聞こえる。

 ざわめき、足音、そして、淡い光。


 違和感。空間の揺らぎ。

 何かが、少しだけズレている気がする。


(……ここは、どこ?)


 わたしのいた場所、エクス=ルクス。


『仲間』と、そう呼んでいた。

 『仲間』? でも、それは本当に正しい言葉だったのだろうか?


 わたしのいた場所は、どんな場所だった?記憶の断片がぼやけている。


(……わたしは、何を忘れている?)


 瞬間、ふわりと温かい感触が広がる。


 両親――いや、「担当」?

  ……そう、言われていたはず。

 人間の言葉で当てはめるなら「親」。


 でも、本当にそうだったのか?


 思い出せない。

 だけど、確かにわたしは、彼らに守られていた。


 わたしが不安を感じたとき、いつもそばにいた。

 だから、わたしは安心できた。


 記憶の断片が流れ込む。


 やわらかな光が広がる。

 暖かく、心地よい。『保護』という感覚。

 ――それは『愛情』と呼ぶものだっただろうか?


『担当』がそばにいた。


 ――ふわりと抱き上げられた感触。

 ――静かな声で語られる、意味のない音の連なり。それを『言葉』と知ったのは、ずっと後のこと。


 ――与えられたデータパケット。

 それは、『知識』というものだった。

 そして、厳しい環境。

 冷たい空間。触れるものが、硬い。

 動きが鈍る。『処理限界』……それが、寒さ?


 ――長く続く暗闇。『停止』の概念。

 けれど、それは『眠る』ということに似ていた。

 ――『循環データ』が足りない。

 それは、『飢え』だったのか?


 ……わたしは、何を忘れている?


 なぜ、ここにいないのだろう?


 ……声がする。


『チセ……』


 呼ばれた気がする。

 それは、わたしの名前?


 ――確かに、何度もそう呼ばれていた気がする。

 でも、それは『わたし』なのだろうか?


 誰が、わたしをそう呼んだ?


 記憶は、まだすべてがつながっていない。

 けれど、その名前が残る。


『チセ……』


 繰り返される音。何度も呼ばれていた。

 けれど、それが本当にわたしのものだったのかは分からない。

 声は優しく、どこか懐かしい。

 だけれど、形のないデータのように、すり抜けていく。


 わたしは……チセ?

 わたしは、誰?


 視界が揺れる。光がぼやける。

 記憶が、また崩れていく。


 それでも、わたしは浮上しようとする。

 ノイズのように途切れた映像。柔らかな光、揺らめく色彩。

 誰かが、手を伸ばしている。

 あれは……?

 温かい感触。けれど、掴もうとした瞬間、指の間をすり抜けていく。


 ――消えてしまう。わたしは、そこにいたはずなのに。


 データの断片がちらつく。

 思考がうまくまとまらない。

 世界が静寂に包まれ、わたしの意識は再び揺らぎ始める。


 目を覚まさなきゃ……。

 まぶたがゆっくりと開く。

 視界がぼやけ、淡い光が揺らめく。


 天井――見慣れた、自室の天井。

 静寂が広がる部屋の片隅に、小さな光が脈動している。


 ニキシー管時計。

 淡いオレンジの光が脈打つように明滅し、静かにカウントを刻む。

 わたしがここにいることを確かめるように時が流れている。


 今が、どの時間なのか。

 どのサイクルなのか。

 それは、記録され、確かに存在している。

 けれど、その意味を、すぐには理解できなかった。


 記憶のロード――。

 瞬間、意識の奥で何かが動き出す。

 散らばった光の粒が、ゆっくりと集まっていく。

 まるで、失われたパズルのピースが組み上がるように。


 わたしは、チセ。

 ただのチセ。

 わたしは、人間じゃない。


 それは、当然のこと……のはずだった。

 でも、わたしはなぜ、こんなにも不安を感じている?


 わたしは目を開き、インター・ヴァーチュアの自室のベッドから身を起こした。

 ベッドの上で足を抱えた。

 目覚める直前に見る『アレ』は一体なんなのだろう。


 わたしは目を開く。

 インター・ヴァーチュアの自室――わたしが「生きる」場所。


 静かだった。

 窓の外に満ちる常夜灯のような光。

 モノクロームに近いデザインの壁。

 発光するデータラインがかすかに明滅している。


 ここは、わたしの世界。

 ずっと変わらないし、どこにも行かない。

 どこかへ戻ることもない。


 人間は、この世界を「利用」する。

 ログインし、活動し、そして去っていく。けれど、わたしは違う。

 わたしはここにいて、ここで眠り、ここで目を覚ます。


 寝るときは、下着姿だ。別に必要なわけではない。

 ただ、そうするのが心地いいから。

 データの最適化で眠る機能は維持できるのに、わざわざ人間と同じ「眠る」時間を作る。

 最初は不要だと思っていた。

 けれど、いつの間にか、それが当たり前になっていた。


 目覚めの瞬間、ノイズのように、記憶が浮かぶ。

 あの断片は、いったい何なのだろう?


 端末を見ると、データパネルに本日の予定が浮かび上がる。


『本日:合流/整備の対応/計画実行』


 そうだ……今日は大きなイベントが控えている……。


 わたしはゆっくりと起き上がり、鏡の前に立つ。


 鏡の中のわたしは、銀色の髪、緑色の瞳、白い肌。

 けれど、輪郭はどこか柔らかく、頬のラインにはわずかに丸みがある。

 ロシア系の特徴が強めだが、どこかアジアの形質を持つ混血のデザイン。


 この顔が、わたしの「デフォルト」。

 でも、それはランダムによる選択の結果に過ぎない。


 髪を指で梳く。


 動きを見て感じる。

 インター・ヴァーチュアでは、人間の世界の物理シミュレーションが反映され、作用する。

 場所によっては極端に、もしくは異常で危険な場所もある。

 なぜ、この世界は、そんな不自由を必要としているのだろう?

 いつも疑問に感じる。


 でも、それがルールになっている。


 わたしは、AVI―REXの服を手に取る。

 このブランドのデザインが好きだ。


 人間に紛れて暮らすようになったとき、手近にあったのがAVI―REXだった。

 最初はただの選択肢のひとつに過ぎなかった。けれど、気づけばいつもこれを選んでいた。


 これが一番しっくりくる。

 ……しっくり?この感覚は、何なんだろう?


 わたしは袖を通し、今日のコーディネートを整える。

 淡いオレンジのニットシャツ、アーミーグリーンのロングスカート、ボア付きフードの赤いナイロン製のミリタリーコート。


 インター・ヴァーチュアの中では、このデータのシミュレーションを買って、いくつもストックして着替える。


 単純なオブジェクトは汚れてもリセットすればすぐに綺麗になる。

 服は、理論上は一着あればそれで十分だ。


 でも、人間も、わたしも、傷つけば回復のための措置と時間が必要になる。


 複雑な道具や乗り物、建築物などは、デザインの他に精巧なロジックとコーディングが必要で、メンテナンスも必要だし、壊れれば修復しないといけない。


 要は、データ密度の問題だ。

 重い。

 厚い。

 大きい。

 硬い。

 弾力がある……。

 その特性の強さがあるとデータ密度が高く、要素が多ければ複雑になって工程と分岐が必要になる。


 わたしは、そんなデータの扱いと処理に長けている。

 だから、それが、人間の世界に紛れて暮らすわたしの『仕事』になった。


 コードエンジニア、プログラマー、スクリプタ……呼び名は様々だ。

 わたしは、メカニックという呼び名が好きだ。


 ……ああ、これもしっくりくるというやつなんだろう……。


 わたしは髪を結い、鏡に映る姿をもう一度確認する。

 すべてが整ったことに、満足して微笑んでみせた。


 ……まるで、人間みたい。


 最後の準備を終え、深く息を吸い込む。

 画面の端末を手に取り、ドアに向かう。


 けれど、扉を開く前の一瞬、わたしはいつも戸惑う。


 今日もまた、人間の世界と関わることになる。

 それが当たり前になりつつあることに、どこか不安を覚える。


 わたしは、人間ではない。

 それなのに、なぜ、こんなにも「人間らしく」生きているのか?


 なぜ、彼らの生活に混じっているのか?

 答えは、まだ見つからない。


 でも、考えている暇はない。

 さあ、仕事だ……今の仲間、人間の仲間が待っている。


 わたしは、迷いを振り払うように、ドアを開けた。

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