ログアウトの瞬間、端末のUIに表示されたニキシー管時計の数字が一瞬だけ揺らぎ、ぼやけるように滲んだ。
仮想世界の時間と現実の時間が交錯する。意識が一瞬浮遊し、足元が揺れる。
そして、宙に浮くような錯覚を覚えた瞬間――光が途切れる。
一瞬の無音のあと、現実が戻ってくる。
照明が自動点灯して、部屋は静寂に包まれる。
仮想世界では感じなかった倦怠感が体を重くする。
無意識にデスクの上のニキシー管時計を見る。
とは言っても、今時本物のニキシー管時計なんて、アンティークの中のアンティークだ。
アナログ時計を置くのが嫌で買ったLEDのイミテーション。
要するに、ニキシー管風の時計だ。
揺らぐ光。数字がゆっくりと淡く明滅しながらカウントを刻む。
偽者でも、この雰囲気は落ち着く。
(でも……ここは現実だ)
意識を切り替えるように、俺は立ち上がる。
接続されていた生理食塩水のインターフェースを外し、首を左右に軽く振ると、骨がわずかに軋んだ。
(さて、ルーティーンだ……)
便所に行ってから、まずは水分補給。
キッチンのウォーターサーバーから水を一気に飲む。
「うぇ……」
味なんてしない。
インター・ヴァーチュアで飲むコーヒーのほうがよっぽどリアルだ。
味と満足はインター・ヴァーチュアで手に入れられる。
ただ、栄養が無いだけだ。
今の世の中、うまさはデータの密度に依存するってわけだ。
冷蔵庫から銀色の四角いアルミパックの塊を取り出す。
そのレトルトの栄養食を開封し、3秒後にはアルミパックの口から湯気が立ち昇る。
「開ければ3秒、あったかテイスト 焼肉風味」
味と匂いから全くかけ離れた、小さいころ食べたことのある缶詰スパムそっくりの四角い塊をスプーンですくっては機械的に咀嚼する。
はっきり言って、これはただの燃料補給だ。
体に必要な栄養を補給して、あとは咀嚼と消化器官が衰えないようにするための行為だ。
食事を終えると、次はフィットネスの時間だ。
インター・ヴァーチュアを利用するなら、ログアウト時に現実時間で週に三日、定期的に最低一時間の軽いトレーニングが法律で定められている。
衰弱死でもされたら問題だから、現実の体を維持させるための法律だ。やらなきゃ利用制限というペナルティがつく。
だけど、本当にここまでやる意味があるのか?
汗がじわりと滲む。仮想空間での物理シミュレーションではない、本物の肉体の重さを意識する。
スクイズボトルの水を喉に流し込んだ瞬間、脳裏にニュース映像が焼きつくように蘇る。
【Flashback】
特報 感染拡大が制御不能に――。
(パンデミックスが始まった日――)
母親の顔が浮かぶ。「明日から学校は閉鎖になるわよ。」
最初は数週間の休校のはずだった。
それが数ヶ月になり、もう現実の学校は戻らないと決まった日。
仮想学習システムへの移行。
初めての仮想空間の教室。
最初の接続時、システムが外見情報をスキャンする。
無機質なUIの声がした。
「インター・ヴァーチュアでは、現実の外見と性別がそのまま反映されます。改竄は不可能です。」
「結局、みんなそのままか……」クラスメイトがぼそっと呟く。
「当たり前だろ?」俺は言い返した。
「そのままっていうけど、むしろ、現実より綺麗に映ってるよな。」
【Present Day】
腕立て伏せの途中、息が詰まる。
胸の奥で言いようのない閉塞感が広がる。
【Flashback】
ブラックアウト――電力が失われ、都市が沈黙した夜。
ネットワークが沈黙し、情報が霧散し、インター・ヴァーチュアの扉が閉ざされた。
絶望した人々の騒ぎ、混乱。
地区の避難所、まだその時には存在していた小学校の真っ暗な体育館。
青白い懐中電灯の光に照らされる両親を見ていた。
公務員の母さんは、避難所の対応に追われ、日に日に疲れ果てていた。
「政府は……きっと、なんとかする。」
父さんはずっと俯いていた。
「……もう、政府なんて機能していないよ。」
三ヶ月近い避難生活の後、やっと細々と電力が復旧し、家に戻れた。
俺の住んでいた日本は電力復旧が早かったおかげで、他の国に比べれば遥かにマシだったらしい。
テレビをつけてもアニメなんてやってない。
ニュース番組ばかりが流れていた。
「ホワイトハウス報道官ブランドン・リー・クリーガン氏の公式会見の映像です。」
「本日をもって、政府は経済運営を民間に委託する……」
ニュース速報。
「ブランドン・リー・クリーガン氏の妻子が亡くなったことを確認」
目に飛び込んだのは、そんな内容だったと思う。
子供でも嫌だなと感じるニュースを見ながら、父さんと母さんが言葉を交わしていた。
「……これから、どうなるんだ?」
母親は、しばらく考えてから口を開いた。
「官公庁の閉域化、いよいよ本格的になるわね。私の職場も、あと数ヶ月もすればイントラに移行するって話よ。インター・ヴァーチュアの時間じゃ、もうほとんど決まってるらしいけど……。」
「そうか……なら、俺もインター・ヴァーチュアの仕事に移るしかないな。」
父親は苦笑した。
両親の間で決定されていく未来。
俺は、それをただ聞いていることしかできなかった。
【Present Day】
ぐっしょり汗を吸ったウェアを洗濯機に放り込み、シャワーを浴びる。
鏡を見る。水滴が静かに落ちる。
ふと、小学校時代のことを思い出す。最初は、仮想空間の学校に違和感があった。
小学校六年生の頃は、まだインター・ヴァーチュアの時間で毎日仮想空間の教室に通っていた。
週休二日だった。
結局、暗黒時代の影響は二年続いた。
俺も丸二年ほとんど学校には通っていなかった。
あの頃は、就学特別措置でそうやって追いつき教育をした。
でも、中学に上がったタイミングで突然、制度が変わった。
【Flashback】
「暗黒時代の影響からの脱却を認め、インター・ヴァーチュア内の就学特別措置が廃止されます。これからは週休六日制に移行され、学校は現実時間での週1回の通学に統一となります。」
【Present Day】
インター・ヴァーチュアの時間で毎日学校に行っていたら、ある日突然に学校は現実の時間に合わせると言われた。
最初の頃は週休六日とか喜んだけど、あっという間にどうでも良くなった。
そして、学校は本当に形骸化していった。
週六日自由な時間が与えられたが、その時間をどう使うかなんて、最初は誰も分からなかった。
俺は何をしていたんだっけ……?
周囲のクラスメイトの顔がどんどん変わっていく。
多国籍化が進み、同じ学校に通っていても、互いを知らないのが当たり前になった。
同級生と顔を合わせるのは週に一度。
それも、名簿上の関係にすぎない。
学校の友達って概念は、もう昔のものになったんだな……。
ルーティンを終え、自分の部屋に戻った。
今日は両親とは顔を合わせなかった。
そういえば、どのくらい現実では顔を見ていないだろう……。
「まあ、いいか……」
気になるならメールかコールでもすればいい。
時計を見ると、まだログインするには早い。
ルーティンをやる時は、ログインまで一定時間を空けるのも決まりだ。
『人は現実を捨て去ることは不可能であり、そのためデジタルのデトックスは現代人の必須なイニシエーションである』
とかなんとか……。
大昔はコーラで骨が溶ける、ゲームで脳がバカになるなんて話があったが、今は仮想現実では毒が溜まるらしい。
どちらにせよ、ログインまではあと三十分の時間がある。
(どうするか……)
ぼんやりと天井を見上げたあと、俺は机の端末に手を伸ばした。
指先が自然と、ファイルリストの中にあるコード・フレームワークのデータへと向かう。
キーボードとマウス。
いまだに現実世界では、これが当たり前だ。
インター・ヴァーチュアでも、何故か面倒な操作だったり、手入れや手間が必要になる。
けれど、それは無駄じゃない。
一手間をかけることで、制御の自由度が広がる。
それに個人差が出る。
自分の意思で操作し、調整し、結果を導き出す――そこには、選択の余地と上達するためのモチベーションがある。
上手いやつはほんの少しの設定の違いで驚くほどの差を生む。
それを知っているからこそ、俺はこの”手間”を楽しんでいた。
だが、こっちはどうだ?
この現実では、すべてが「必要だから」ではなく、「変えられないから」残っているだけだ。
タッチパネルの操作は効率的になったと言われているが、結局「選ぶだけ」の動作に最適化されただけで、それ以上の余地はない。
俺たちはただ、決められたルートをなぞることしか許されていない。
インター・ヴァーチュアは拡張し、最適化し続けている。
でも、こっちは子供の頃から何も変わらないままだ。
俺の指は無意識にキーを叩く。
端末の画面に、自分のコード・フレームワークのシルエットが映し出される。
見慣れたはずのフォルムが、今夜の大仕事に向けて、別の意味を持つように感じる。
中古で手に入れた、ミドルライトの機体だ。
トップパワーはイマイチだが軽量で瞬発力は高い。
ものは言いようだ、要する扱い易いが回しすぎると処理落ちが早い。
機体の弾が市場に多いのと、構造自体が単純でメンテや修理のコストも安いと……。
――操縦データをチェックしながら、胸の奥が妙にざわつく。
「こいつでどこまでやれるか……試すしかねぇよな」
シートに座り、ハンドルを握る……。
脳内にはすでにどうコントールするかのイメージが渦巻いていた。
インター・ヴァーチュアでの大仕事。
リーダが持ってきた宝の地図ってやつだ。
正直眉唾モノだ、当たりがサルベージできればめっけものというところだ。
でも、潜りこむ場所自体はかなりヤバい。
「目標地点への潜入、回収、撤退」
やることは決まっているが、俺にとってはそんなものは二の次だ。
――重要なのは、コード・フレームワークでどう攻めるかだ。
データを遡り、先日のログを開く。
限界加速域での動作ログ、応答遅延、出力調整の余地……。
数値が物語っている。
今の俺がやれてるのは多分、中の下というところだ。
機体じゃない……どうせモンスターに乗ったところでたかが知れてる……。
(ダメだ、ぜんぜんダメ。)
もう一度、制御のイメージを組み立てる。
アクセル、スロットル、出力の配分。
重心移動、フィードバック応答。
四肢の思考制御と装備のコンボ。
限界まで攻め込むためのシミュレーションを繰り返す。
手の中の操作が、仮想の操縦桿に変わる感覚がする。
指先のわずかな感触、応答速度の調整。この感覚を繰り返せば、実際に乗り込んだ時、身体が迷わずに反応する――そのはずだ。
ログインの時間がくるまで、何度でも、何度でも。
頭の中では、すでにその景色が広がっている。
闇の中を疾走するコード・フレームワーク、加速の衝撃、旋回のG。
データの海を切り裂く光の軌跡。
(ここじゃない……)
ここでは、何も始まらない。
俺が本当に生きていると感じるのは、現実ではなく、ログインしたその先。
データの波を駆け抜け、コード・フレームワークを操る瞬間だけだ。
デスクの片隅に、ニキシー管時計の数字が静かに光っている。
一瞬その光をチラッと確認する。思考が時計に引き戻される。
(……まだ、二十三分もある)
気にしなくてもいいはずなのに、ふと視線が行ってしまう。
そして、また目を閉じる。
(時間が足りないわけじゃない。むしろ、余っている。)
もう一度、コントールをイメージする。ログインの時間がくるまで何度も、何度も。
それが俺の現実でいるときに唯一まともにズレを感じない唯一の方法だ。