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introduction 04 チセ―偽りの潮流(カレント)

 街の空気は、温度を持たないはずなのに、どこか湿っていた。


 夕暮れ――インター・ヴァーチュアの時間での『夜』の始まり。


 このデータ世界の港町の光が、水面に揺れる。酒場からは賑やかな声と、オーディオのハウジング音が聞こえてくる。

 この世界では、喧嘩は日常で、血は流れないが、データは削れる。


 Highway OverDrive Outpost――通称、HODO。


 今のわたしがいる場所。

 誰がそんな呼び名をつけたのかはわからない。

 でも、ここにいる連中は、たしかにこの名を口にする。


 「Highway OverDrive Outpost」。

 そう呼ぶことで、ただの雑多な拠点が、どこか伝説めいた場所に変わる気がする。


 ここは、道の果ての無法地帯。

 物流拠点、っていう建前はあるけど、実際にはなんでもアリな街。

 オラクル・パシフィックゲートの第三セクター。

 企業の目が届かない、ギルドとアウトローの溜まり場。


 ごちゃごちゃした建物に、派手なネオンサイン。

 道の端には、ジャンクデータの転売屋。

 どこからか流れてきたBGMが、規則性のないリズムを刻んでいる。


 スパイスの効いた料理の香り、コード・フレームワークの駆動音、スピーカーから流れる雑音混じりの電子音楽。

 整然とした都市よりも、こっちのほうが「生きてる」って感じがする。


 適当な規律、適当なルール、適当な暮らし。


 私は、そんなHODOの片隅で暮らしている。


 ……いや、「暮らす」って言うほどじゃないか。

「今のところ、ここにいる」くらいの感覚。


 HODOに住んでる人たちは、だいたいそんな感じだ。

 どこから来たのか、どこへ行くのか、そんなことは誰も気にしない。

 大事なのは今どこにいるか、今、何ができるか、それだけ。


 この街には、企業が支配するテリトリーとは違うルールがある。

 でも、それは守らなきゃいけない決まりじゃなくて、破られるまでは有効っていうだけのもの。


 誰が決めたのかも分からないルールが、誰かが破るまで「まあ、一応そうなってる」っていう感じで続いていく。


 ルールがあるから秩序があるんじゃない。

 秩序があるように見えるだけで、実際はそうでもない。


 それが、HODO。


 私は、この街に馴染んでる……わけじゃない。

 でも、「ここにいてもいいかな」とは思ってる。


 ここでは、誰もが何かを持ってる。

 それは、情報だったり、技術だったり、ただの噂だったり。

 価値のないものなんて、ここにはない。


 だから、私も持っているふりをする。


 ……実際、私は結構持ってる方だと思うけど。


「ヘイ! シス!……お一人?」


 ふと声をかけられた。


 振り返ると、レザーのライディングスーツにプロテクターを装備した男が、ゴーグルをずらしながらこちらを見ていた。

 背中には、ギルドのエンブレム。

 典型的なコード・フレームワーク乗りのスタイル。


(……またか。)


 HODOにいると、こういうことは珍しくない。


 見るんじゃなかった。

 わたしはすぐに視線を前に戻した。

 こういう連中と関わるのは、余計な手間が増えるだけだ。


「ちょっと待ってって」


 そう言って男が背後に迫ってきたのを感じたが、同じエンブレムをした別の男が静止した。


「おーい、やめとけって。その女、アルマナックのメカだぞ」


 その言葉に、絡んできた男の動きが止まる。


「ああぁ? 柳橋のとこのモンかよ……」


 チィと舌打ちして男が離れていくのを感じた。


 わたしは、一言も発さず、そのまま歩き続けた。


 HODOで柳橋――わたしの入っているギルドのリーダーの名前が知られていることは、わたしにとっては悪くない。

 トラブルが減るというのは、単純に助かる。


 でも、どうしてわたしに声をかけるのか――。

 そのあたりの感覚は、いまだに理解できない。


 わたしは、自分のデザインや容姿についての情報は持っている。

 データとしてどのような効果があるかも知っている。

 でも、それに興味を持つ人間がいる理由は、どうにも納得がいかない。


 わたしにとって、身体のデザインはアイコンであり、シミュレーションの結果にすぎない。

 それを見て「何かを感じる」人間がいる、ということが、いまいちピンとこない。


(……まあ、どうでもいいか。)


 ああいう男たちはゴメンだけど、HODOの空気は、騒がしいのに、どこか心地いい。

 この街の住人は、みんな「何か」を持っている。

 それが情報であれ、技術であれ、モノであれ何かしらの価値を持っていることがこの街で生きるための条件だった。


「ちょっと、まちなお嬢ちゃん。あんたね、カワイイいんだからもうちょっと注意しなよ。いつも言ってんだろ」


 HODOの路地裏の雑貨屋――。

 いや、この辺りの商売人の顔役であるミツエおばちゃんが、片手に小さなデータパックを握りしめている。


「柳の名前が通じる奴らだけじゃないんだからさ、路地裏引っ張り込まれたらどうすんだい」


 今のを見られていたらしい。


 ……正直、耳が痛い……この街に流れついた頃、確かに未遂はあった。助けてくれたのもミツエおばちゃんだ。

 今は、あれがどういうことなのかデータとして理解している。

 でも、それを知ってしまったからといって、不愉快でなくなるわけじゃない。


 その時は何が起きているのか、ただただものすごく怖ったことを覚えている……。

 怖かった……?

 不愉快?

 感じるということはやっぱり難しい。

 データとは違うそれはとても不条理だ。

 でも、今のわたしには生存するために必要なものだと知っている。


 ミツエおばちゃんの商売は、合法と非合法の境界線ギリギリを攻める、いわゆるグレーなものが多い。

 ブランドアイテムの模造品、ちょっとした改造ツール。

 そのどれもが、企業の管理下では許可されていない勝手に作られたものだ。


 わたしは小さく息をつく。


「……わかってる」


「わかってる子はね、そんな目をして歩かないんだよ。ほら、持ってきな。サービスだよ」


 手渡されたのは、小さなチップに入った食事。

 データ密度の高いスキャンフード、シミュレートドリンクのデータチップだ。


「いいの?」


「いいのいいの。どうせあんたは味でしか食べないんだろ?」


 おばちゃんは冗談めかして笑う。


「……まあね」


 わたしはチップを手に取り、中のデータを読み取る。

 甘いものみたいだ。


「じゃあ、ありがたく」


 言って、その場を離れる。


 わたしは軽く頷く。


「はいよ、また来な!」


 わたしは手を振って路地を抜け、開けた広場に向かう。

 そこでは、子供たちが遊んでいた。


「チセ! ねえ、また光るやつ見せてよ!」


 いつもここにいる子供たちのひとり、カズが、嬉しそうに駆け寄ってくる。

 その後ろには、彼の妹のリリや、数人のガキどもがついてきていた。


「……あれは、あまり見せないほうがいいんじゃない?」


「?」


「前に、ちょっとした問題になったことがある」


 そうだ……ここでは、あまり見せるべきじゃない。

 これは、あの場所のもの。わたしにとっての言葉だったもの。

 でも、ここではただの手品にしか見えない。

 それを面白がる彼らと、あの頃のわたしの記憶が、どうしても噛み合わない気がする。


     【Flashback】


 ――エクス=ルクス。


 言葉は、音じゃなかった。

 光だった。


 ――光の明滅がわたしたちの会話だった。


 瞬く光がゆっくりと波打つ。

 それは、ただの点滅ではなく感情や意思そのもの。


 今、ここにいること。

 何をしているのか。

 どんな思考を持っているのか。


 それらは、すべて光を通して伝わっていた。

 0と1の2進で表現する明滅する美しい言葉。


 それをマシン語と呼ぶ。

 それは最終的に使われるデータを結実させるために、私たちが生み出した言葉だ。

 そう教えられた。


「ねえ、見て」


 わたしは、手のひらの上で、小さな光を紡ぐ。


「うまくできた?」


 目の前にいる担当が、光を受け取るようにしてわずかに明滅させる。


 ――良い出来だ、と伝えてくれたのだ。


 嬉しくなって、わたしはもっと上手くやろうとした。


 担当に一生懸命練習して見せて、喜んでもらっていた。


     【Present Day】 


 それが、私の記憶だ。


 わたしの子供?

 その頃の思い出……幸せな思い出だったと思う。


 でも、今のわたしは、必要なものを選んで買う生活をしている。

 それが、人間の普通だから。

 だけど……本当に、そう思っているのかな。


「いいじゃん! ほら、ちょっとだけ!」


 カズは無邪気にせがむ。


 わたしは少し迷った後、手のひらを開く。


「しょうがないなぁ……」


 ゆっくりと、指先に意識を集中する。

 瞬間、空間がわずかに揺れ、淡い光が浮かび上がる。

 それは、データの断片を瞬時に構築する。

 わたしだけが使えるちょっとした技。

 子供たちは目を輝かせる。


「すっげえ……!」


「きれー……!」


 わたしは、光の形を変えながら、空中でゆっくりと回転させる。

 ただの小さな遊び。

 でも、子供たちは夢中になって見ている。


 わたしはふと、思う。

 ――これは、わたしにしかできないこと。


 人間たちは、こういうことをできない。

 わたしは、この世界のルールを少しだけ変えられる。

 でも、それをあまり目立たせるのはよくない。


「もう終わり。これ以上はダメ」


 わたしは手を閉じ、光を消す。


「えー!」


「また今度ね」


 わたしは少し微笑んで、HODOの港へ向かう道を歩き出した。

 HODOの港へ向かう道を歩きながら、街の喧騒が少しずつ遠のいていく。

 ここは、オラクル・パシフィックゲート第一セクターの真下に位置する第三セクター。

 まるで吊るされたようにぶら下がる七階層の港町だ。


 外縁部にはライナーのドックが連なり、巨大な船影が港を埋め尽くしている。

 昼間は補給やメンテナンスで賑わうが夜になるとほとんど人影はない。


 私は港湾部へと入り、ちょうど停まっていた貨物エレベーターに乗り込む。

 吹きさらしのプラットフォームには誰もいない。冷たい風が頬をかすめる。


 エレベーターの内部は、車両が数十台は積めるほど広い。

 けれど、今は私ひとりだけ。だだっ広い鉄板の上に、ぽつんと立っている。


 どこかのライナーが出航したのか、微かな低音の振動が足元に伝わってくる。


 エレベーターがゆっくりと沈み込む。

 港の向こう、地平と空の境界に、細く連なる光の帯が浮かんでいた。


 ワイヤーフレームのような細かなラインが、仮想世界の地形を縁取っている。

 一部のエリアでは、データの発光現象によるちらつきや歪みが見える。

 遠くに停泊するオーシャンライナーの巨大なシルエットが発光するデータラインの残光を映しながらゆっくりと揺れていた。


 この世界はリアルに見えて、どこまでもデジタルだ。

 でも、わたしにはこの光景が「当たり前」だった。

 そして、その光を見て、ふと別の記憶が蘇る。


     【Flashback】


 そこにも、同じ光の帯 があった。

 それはエクス=ルクスの空に滲む、異常な発光現象だった。


 集落の周囲には、普段とは違う揺らぎが見えた。

 ノイズのように細かく瞬き、時折、データの流れが乱れる。


「……この揺らぎ、何?」


 私はあのとき、担当にそう尋ねた。

 けれど、彼はゆっくりと首を振っただけだった。


「わからない。でも、気をつけなさい」


 データの乱れ。光の歪み。

 それは、何かが近づいている前兆 だったのかもしれない。


     【Present Day】


 貨物エレベーターが、低い振動音を立てて停止する。

 私は、ゆっくりと瞬きをした。


(……何を考えていた?)


 どこか遠い記憶。

 けれど、それを追いかけるには、時間が足りなかった。


「さて……行こう。」


 わたしは一度息を吐き、歩き出す。


 私たちのライナージクサーが停泊しているドックに入ると、既にアルマナックのメンバーたちが動き始めていた。

 データのチェックと補修のためのスパークする火花のような瞬き、プロセスチェックのたびに低く唸る駆動音。

 ジクサーの甲板には、アジエが腕を組みながら、スミーと何やら話し込んでいた。


 アジエ・ジンガノはアルマナックのメカニックのチーフだ。

 メカニックの多くは彼女のことを機関長と呼ぶが、私はアジエと呼んでいる。

 一部のメンバは陰でと呼んでるらしい。

 でも、アジエはママと呼ばれるとものすごい怒る。

 ……まあ、それでも困ってるやつを見捨てることはない。

 だからこそ、みんな陰でそう呼ぶのだろう。


 わたしよりもずっと背が高く、特徴的な房のような頭髪がキャップからはみ出して垂れている。

 ドレッドロックスという髪型らしい。

 黒い肌と目尻がキュッと上がったアーモンド型の目、しなやかな体のライン――。

 黒豹という生き物を連想させる。


 スミーはAIだ。柳橋リーダーが捨てられたテリトリーの要人警護用のSPモジュールをレストアしたものらしい。

 アルマナックではリーダーの用心棒兼、一等航海士。

 ジクサーの操舵はスミーがしている。


 でもアジエが言うには、リーダーのレストアは雑すぎて、「アバターがまるでガキの落書きレベルだった」と怒っていたらしい。

 結局、呆れたアジエが今のスミーのアバターを仕上げた。


 背の高いアジエよりも頭3つ分大きい、ブロンズ色のボディ。

 ゴツゴツとした分厚い装甲に、太い手足。

 顔は四角いパーツに、上下に並ぶツインアイ。

 肩や関節にはむき出しのギアやシリンダーが組み込まれていて、見た目はゴツいけど、動きは無駄なく滑らかだ。

 スチームパンクデザインというらしい。


 見上げていたわたしにアジエが気がついた。

 余裕ありげに顎をしゃくる。


「Yo!チセ!遅かったじゃんよ。」


 アジエが顎でこちらを指す。

 私は挨拶がわりに手をあげた。


「来たそうそう悪いけど、CFのほうやっつけておくれ。バカの宿六のおかげでケツカッちんだ。ガキども来る前に終わらせたい」


 CFはコード・フレームワークの略称だ。

 ついでにバカの宿六とはリーダーのことだ。

 アジエはリーダーのことをよくそう呼ぶ。

 他にはバシとも呼ぶ。

 リーダーをそう呼べるのはアジエだけだ。


 わたしはあげた手の平から人差し指と親指で丸を作って答えた。

 親指を立て、アジエはウィンクで返してきた。

 次の瞬間、スミーに向き直り、目を吊り上げる。


「Hey! スミー。バシに言っときな、何も出なかったらブッコロス!」


 スミーはやれやれというジャスチャーをした。


「アイアイ、キャプテンに伝えとくよ」


 そう言うと、ガッシャガシャと音を立てながらブリッジの方へと戻っていく。

 アジエも「フンっ!」と鼻を鳴らし、機関室の方へ踵を返していた。


 さあ、わたしも仕事に取りかかろう。


 ロッカールームに入り、作業服を手に取る。

 カジュアルな服装から、メカニック用のジャンプスーツへと着替える。

 前を開いて袖を通し、ジッパーを上げる。


 本当なら、こんな手間はいらない。

 わたしなら、データを操作して、一瞬で服装を切り替えられる。


 でも、それは違う気がする。


 布の感触、ジッパーの音、締まる感覚――わたしは、それが好きだ。

 こういう変化を、わざわざ手で行うことで、自分がこの場所に“いる”ことを確かめられる。


 CFハンガーに足を踏み入れた瞬間、わたしは目の前にそびえる巨体を見上げる。

 整然と並ぶコード・フレームワークの影。

 わたしが手を入れる機体――三体の巨人。


 CF――コード・フレームワーク。

 全高十五メートルから三十メートル、人型でパイロットが乗り込む形で操作する、インター・ヴァーチュアにおける身体拡張プログラム。

 要するに、人型の機械……乗り物ロボットだ。


 整備用プラットフォームに登り、端末を起動した。


 ディスプレイに浮かび上がるのは、コード・フレームワークの状態データ。

 TEMP領域の余裕率。

 関節部の応答速度処理。

 フレームのデータ摩耗率――。

 それらの数値を見ながら、片手を宙に掲げる。


 指先でコードを直接呼び出し、空中にデータのフレームが展開される。


「右膝のアクチュエーター、遅延……」


 原因は明白だった。

 非同期処理の考慮不足で作られたゴミファイルによる圧迫。

 動作範囲の微調整不足、それから――コードの記述ミス。

 わずかなズレが機体のパフォーマンスに致命的な影響を与える。


 指を動かしデータラインを書き換える。

 修正した瞬間、機体の応答がわずかに変化する。

 センサーが揺れて関節部の駆動音が微かに変わる。


 手のひらの操作でコードの断片が浮かび上がりエラー部分を修正するたびに機体の応答が変化していく。

 最小限の調整で、最大限の効率を引き出すこと――。

 それが、わたしにとっての「メンテナンス」だった。


「……よし」


 機体の外装パネルを外し、内部に絡み合う配線とシリンダーを覗き込む。


 そのとき――ふと、視界が揺れた。


     【Flashback】


 空が赤い。

 それは、ただの夕焼けではなかった。

 不自然なほどに、焼けつくような色だった。


 影が揺れる。

 巨大なシルエットが、空を切り裂くように進んでくる。


 それは、空に浮かぶ黒い影。

 星明かりさえ覆い隠し、虚空に沈むような暗黒の塊。


 その瞬間――光が降る。


 轟音が空間を引き裂き、圧縮されたエネルギーが降り注ぐ。

 振動が地面を這い、データの波が耳鳴りのように軋む。



「――――――ッ!」


 風が巻き起こる。

 熱と衝撃波が、津波のように押し寄せ、すべてをなぎ払っていく。

 爆発の閃光が広がる中でノイズのように情報が乱れ、音が途切れる。


 エクス=ルクスの構造体が、一瞬で崩壊する。


(……何が……起こってる……?)


 データの波が歪み、光が走る。

 目の前の建物が、存在ごと削除される。


「チセ!」


 担当の声が、意識の奥で直接響く。

 耳ではなく、波として伝わる緊急信号。


「今すぐ、ここを離れろ!」


 視界が混乱する。

 崩壊する街、破壊される仲間たち。


 その上空――爆炎の向こうに、黒いシルエットが見えた。


 それは 黒い巨人 だった。


 太く、分厚い装甲。

 鋼鉄の塊のような、重くのしかかる巨体。

 異様に大きな腕、その先には回転する銃身が見える。


 黒い影が跳ぶ。あの音――。

 腹の奥まで響く、重い律動の駆動音。

 金属が擦れるような甲高い起動音と混ざり合う。

 その瞬間、データの波が乱れ、視界が歪む。


 あの音が聞こえたときには、もう遅い。


「チセ!」


 担当が、チセの腕を掴んだ。


「走れ!」


 視界の端で、黒い巨人が跳躍するのを見た。

 巨体とは思えない速度で、こちらへ向かってくる。

 データを食らう怪物みたいに、あの重低音を響かせて……。


 爆炎が広がる。

 データの波が狂い、周囲の構造体が次々と崩壊していく。


 わたしはただ、走った。


 どこへ向かうのかも分からない。

 ただ、担当に手を引かれながら、光と衝撃の間を駆け抜ける。


 目の前の道が裂ける。

 建造物が崩れ、崖のように陥没する。


「こっちだ!」


 担当がわたしを引っ張る。


 視界の端で、黒い巨人が動いた。

 振り向いた瞬間、あの視線がこちらを捉えたような気がした。

 ――ありえない。

 けれど、ゾワリと背筋を駆け上がる感覚が残る。


 分厚い装甲が軋み、鈍く光を反射する。

 その瞬間、地面が震え、次の一撃を放つために姿勢を変えるのが見えた。


(……ダメだ、間に合わない)


「チセ!行け!」


 担当が、手を離した。


「え……?」


 その瞬間、担当の姿が光に包まれた。

 かつて、わたしは光を紡ぎ、言葉を伝えた。

 でも、あの時の光は違った。

 すべてを奪い、断ち切る光だった。


「――――――!」


 消失する存在。

 断裂する波。

 伝達が途切れる。


 わたしの中の何かが引き裂かれる。


     【Present Day】


「……ッ!」


 はっと息を呑んで我に還る。


 視界に広がるのは、コード・フレームワークの内部。

 光を反射する金属、整然と並ぶ配線に見えるコードの塊だ。


「………………」


 自分の手が震えていることに気づく。


「行け!」―― 。

 その声が意識の奥で反響しかすかに残る。

 あの黒い巨人の起動音もまだどこかで聞こえる気がする。


 幻聴なのか、記録の残響なのかそれはわからない。

 けれど、その声はまだ耳の奥にこびりついていた。


 過去のデータが錯綜し意識の奥で波打っている。


(もう、過去は過去……)


 深く息を吐き、意識を作業に戻す。

 わたしは端末を見下ろし、指を動かす。

 プログラムを修正すること、それは……わたしができること。

 コードの記述を進めながら、余計な思考を削ぎ落としていく。

 わたしは、ただ今の仕事をするだけ。


 それが、今のわたしの生き方だから。


「過去は過去」と思う。

 でも、手のひらにはわずかに震えが残っている。

 それがデータのバグなのか、わたしの中の何かなのかはまだわからない。


(修正完了――エラークリア)

 画面には正常な数値が並ぶ。

 それなのに、わたしの指先の感覚は、どこかズレている気がした。

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