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introduction 06 チセ―迷い子の境界(ボーダー)/04

    【Present Day】


 ああ、また嫌なことを思い出した。

 いったい何なんだ、今日は厄日か?


  ふっと視線を落とす。

 目の前にはカップに揺れる淡いミルクの色。

 ふー、ふーと熱いミルクティーを冷まして、ちょっとずつ啜る。

 砂糖をたっぷり入れたミルクティーは、甘くて落ち着く。


「……チセ、最近ちょっと変わったよね?」


 カフェのテーブルでアジエはふとそんなことを言った。

 わたしはAVI―REXの袖をいじりながら少し考えた。


「そう、かな。」


「前はさ、こういうとこでお茶するのもあんまり興味なさそうだったじゃん。」


  もう一度、ミルクティーを飲みながら小さく頷く。


 「……わたし、そうだった?」


 言ってから少し考える。

 たしかに、最初はこんな場所にいる自分を想像すらしていなかった。

 でも、今はこうしてアジエと話している。


 「変わる」というのは、こういうことなのだろうか?


  人間に近づいている?

 それとも——。

 ただ、環境に馴染んでいるだけ?


 でも、わたしの返事を聞いてアジエは満足そうに頷いた。


「ふーん、いいねぇ。チセもちゃんとしてるじゃん。」


「女の子とは?」


「可愛いものを楽しんだり、メイクしたり、服を選んだり、そういうこと!」


 わたしはまた少しだけ考える。

 アジエのおかげでだいぶというものを、データ的には理解できるようになった。

 でも、それを自分が実践しているかというと……まだ遠い気がする。


 アジエはカフェラテを飲みながら、急に思い出したように話題を変えた。


「ねぇ、それよりさ!」


 アジエはカフェラテを手に取りにやりと笑う。


「ライノと悠って、どう思う?」


「……あれはないわ。」


 わたしは即答した。

 アジエは吹き出しそうになりながらカップを置いた。


「だよねぇ!」


 わたしたちはそこで笑い合う。


 だが、あの出来事以来、男が苦手になった。

 たしは、あれが何だったのかを理解しようとしてターミナルで検索した。

 そこに表示された情報を見た瞬間、頭が真っ白になった。

 それは「破壊」ではなかった。

 もっと——根源的なもの。わ

 たしは、ヘナヘナと床にへたり込み、動けなくなった。

 そして、あの時のミツエおばちゃんの視線の意味がその瞬間に理解できた。


 頭の中で何かがショートしたような感覚。

 頬が熱くなり、耳まで真っ赤になった。

 頭から煙が出るかと思った。


 あの後は毎日、生活する場所を変えた。

 人気のないところですれ違う男に意味もなく怯えるようなことが数日続き、できるだけ人の多いところですごすようにした。


 今では家もあるし人気のない通りは自然に避ける常識は身についた。

 でも、なんと言うかあのデータで見てしまった人間の行為——。

 生殖行為——性欲というのは、正直に言って——その、怖い。

 それを求められることを想像すると、何か頭の中で火花が散るような感覚がする。

 だからできる限りそういう可能性を下げるためわたしは男を避けるようにしている。


 ライノに言わせるとそんなわたしは塩対応という反応らしい。


「でもね、それがゾクゾクするぅ!」


 と、あの筋肉オバケに言われると背中に寒気が走る。

 悠とは口論ばかりだ。

 むしろ、ソリが合わない。

 そんな悠にライノは、


「あらやだ、思春期真っ盛り? 悠ちゃんムッツリー」


 とか言って、からかう。

 そのたびに、悠は顔を真っ赤にして追いかけ回している。

 何がそんなに面白いのかわたしにはさっぱりわからない。


 それに、わたしを助けてくれたミツエおばちゃんには、今でも心配されている。


「あんた、ちゃんとやれてるのかい?」


 そう聞かれるたびに、「大丈夫」と返しているが……。


 本当はまだお礼すら言えていない。

 逃げたままなのに、今こうしてアルマナックにいられるのもおばちゃんのおかげ。


 わたしはまだその恩を返せていない。


「あんたうちに入ってどのくらいだっけ?」


 またアジエは話題を変えた。


「そろそろ一〇,九四四サイクルかな……」


「はぁ?何だそりゃ?」


 いけないいけない、人間はサイクルではほとんど考えないんだった。


「うーん、インター・ヴァーチュアで一年とちょっとってこと」


「ああ、もうそんなだっけ?早いねぇ」


 そうだ、もうそんなになるんだ。

 わたしはミルクティーを啜りながらまた記憶を呼び起こしていた。


     【Flashback】


 あの出来事のあと、わたしは糧を得るための元手を作れることに気づいた。

 ボロボロになった服を直していた時だ。


 この世界はデータの世界だ。

 わたしたちはエクス=ルクスでは必要なものがあればコードを生成して必要なものを作った。

 複雑なものは作るのに時間がかかるし専門的な知識もいる。

 大きいもの、強度が必要なものは何人かの協力が必要だ。それが普通だった。


 わたしも自分のものはたいてい自分で繕っていたし、担当者たちの手伝いもしていた。

 服のデータはとても単純な部類だ。


 素材から予測される感触のデータ、視覚としての色や動き、その時発する音のデータ、そんな程度だ。


 でも、人間の作ったデータを見て不思議でならない。

 わたしには、この世界の見え方が二つある。

 一つは、人間の目で見る視

 もう一つは、


 わたしたちは、あらゆる情報をマシン語で処理する。

 0と1の配列、明確な命令体系、それがデータを作るということだった。


 人間の作るデータはわたしたちのものとは異なる。

 余計な中間処理が挟まれ、わざわざ抽象化された記述が積み重なっている。

 まるで、単純な命令を意図的に複雑にしているかのようだ それが、価値になっているらしい。


 でも、なぜ?

 わたしには、それが理解できなかった。

 だが、無駄に見える部分を取り除けばデータは正常に動かなくなる。

 まるで罠のように作り込まれているかのようだ。


 わたしは、服を直しながら考えた。


 服というものは、わたしたちにとって単なる保護膜にすぎなかった。

 だが、人間の世界では服そのものが大きな意味を持っている。


(服は、人間にとって必要なもの……なら、それを作れば、わたしも生きられる?)


 すぐにわたしは実践した。

 まずは鞄の中に入っていた着替えを見て同じものをいくつか作り、道端に並べてみた。

 最初は別の取引をしている人間を怒らせ、すぐに追っ払われた。

 どうやら、取引場所はそれぞれの縄張りになっていて勝手に入り込むのはルール違反らしい。

 何度か試してようやく誰にも咎められない場所を見つけ、服を並べると一人の女が声をかけてきた。

「もう少し、大きいのはないのか?」と聞かれた。

 確かに女はわたしよりも大柄だった。

 わたしはその女の身体データを確認すると「少し待ってくれ」と伝え、服をその女の身体に合わせて修正して手渡した。


 女は怪訝な顔でわたしの顔を見ていた。

「あんたさ、それどっから出した? それずっと手に持っていたような」


 少し考えてから、「まあ、いいか」といって女はいくらかと聞いてきたので食べ物が欲しいと伝えた。

 また怪訝な顔して「そんなもので良ければと」食べ物のデータチップをくれた。

 わたしはついでに端末がどこで手に入るのかと聞くと場所を教えてくれた。


 次の日、服のサイズをランダムで大量に作ったわたしは端末を扱っている取引人のところに持ち込んだ。


「……こんなにコンパイル済みの現物を持ち込むやつ、初めて見たな」

 取引人は、苦笑しながら端末を取り出した。


「まあ、端末がないなら仕方ねえか」

 端末。

 人間社会での「交換の基準」。


 わたしが生きる手段を得るためにはまずこれを持たなければならない。


「じゃあ、取引成立だな」


 首尾よく端末を手に入れたわたしは公共のインターフェイスを探すことなくじっくりと情報を調べることができた。

 人間はデータ・クレジットという共通の通貨単位で、ものの価値を決めている。

 さらに、彼らの作るデータはのどちらかのルールで管理されている。

 ライセンスは対価を払った時点で利用権が発生する。

 サブスクリプションは決まったクレジットを定期的に支払うことで継続利用が可能になるらしい。

 どちらも共通しているのは、支払った側は利用する。

 データそのものの利権は製作者に帰属するということだ。


 何だこれ?

 こんな早いもの勝ちで手を挙げる仕組みが本当に機能しているのか?

 同じような内容でも少し仕組みを変えて主張するだけで、同じように利権を獲得できるようだ。


 服も似たようなものだった。

 ブランドと呼ばれるものだろうか、形やマーク、模様に価値がついているようだがデータ自体はどれも大して差がない。


 そこにつけられているデータ・クレジットの値を見てポカンと口が開いた。

 この見ている服で一つで今日、取引に作ったものをダースで百倍にした量よりも価値がある。


「これは、イケる」


 なぜだからわからないがわたしはニヤリとしていた。

 きっと、これまでしたことないような悪い顔をしているに違いない。


     【Present Day】


「でさ、お前またγガンマに時間かけてたろ」


 頬杖をしながらわたしの顔を覗きこむようにアジエはそう聞いてきた。


「できるだけベストな状態にはしたよ」


 アジエはため息を一ついた。


「あれがどんな状態かあんただったらわかってるよね?」


「……本当はとっくにコアブローしてる」


 言いながら、わたしはカップの中のミルクティーをかき混ぜた。


「延命しても焼き付いたコードは直せない。いずれ、処理が追いつかなくなって、動かなくなる」


 わたしだけじゃない。

 アジエも、リーダーも、ずっと前から悠には乗り換えるよう言っていた。


 けれど——。


「悠は、絶対にγを手放さない」


 それが、あいつなりの意地なのだろう。

 でも、意地だけで動かし続けられるほどCFは単純じゃない。


 アジエは、カフェラテを一口飲んでから、ため息をついた。

「わかってんじゃんかよぉ……」


 その声は、どこか諦めを含んでいた。アジエはブスぅと口を尖らせた。


「無駄な延命って、ある意味、残酷だぜ」


「仕方ないよ、悠が乗るなら動けるようにするしかないから」


「悠もだけどさ、お前も大概、やりすぎじゃね」

 アジエはそう呆れたように言った。


 悠はγを手放せない。

 わたしは、それを「延命」させることしかできない。


 でも、やりすぎは良くない。

 どれだけ手を尽くしても、限界を超えたものはいずれ破綻する。

 悠がγを手放せないように、わたしはそれを延命し続けてしまう。

 そして、アルマナックにいるのも、そのやりすぎた結果なのだ。

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