【Present Day】
アジエの背中を追いながら、ドックヤードを歩いていた。
思えば、あの背中について屋敷に向かってから――人間の時間にして、もう一年が経っている。
そんなにもサイクルを重ねていたのかと、自分でも少し驚く。
けれど、それだけの時間が経っていても、わたしは今でもこうして、アジエの後ろを歩いている。
何も変わっていないようで、だけど、きっと――少しは変わったのだと思う。
あの頃のわたしは、ただ怯えていた。
怖い思いをして、そのあと、ちょっとした“チート”で手っ取り早く稼いで、少し贅沢をした。
それで、
でも、今のように人間の社会の中で
わたしがヘタな嘘で過去を隠しても、アジエは詮索しなかった。
強く咎めることもせず、黙って構ってくれていた。
そう、
アジエの思う「女の子らしさ」からすれば、あの時のわたしは到底許容できる存在ではなかったのかもしれない。
でも彼女は、それを押しつけることはしなかった。
一通りの身だしなみや振る舞いを教えてくれたあとは、わたし流の好みも認めてくれた。
「お前のフェイバリットなら、それでいい」
そう言って、笑ってくれた。
今では、ケイトやエスペランザ、それにフォンさんとも一緒に、服やアクセサリーの話をすることもある。
他人の趣味が気になるようになったのも、きっと成長の証なのだろう。
……まあ、アジエ式の女の子レッスンは、わたしにとっては軽いスパルタだったのだけれど。
【Flashback】
部屋の中に、かすかな香ばしい香りが漂っていた。
目の前には、陶器のカップに入った茶色の液体。
香りと見た目だけでは、これが飲み物なのかどうかの判断すらつかない。
でも、アジエはそれをひょいと持ち上げて、自然に口をつけていた。
仕草はきれいだった。
とても自然で、どこか丁寧で……わたしも思わず真似をして、そっとカップを手に取った。
……が、ひと口、含んだ瞬間。
「ぶっ――!?」
わたしは慌ててカップを戻し、口の中の液体を飲み込むかどうか迷った末、結局そのまま無言でカップに向かって吐き戻してしまった。
「ちょっと! なにやってんのよ!」
アジエの声に、思わずおどろいて顔を上げる。
「……ご、ごめんなさい。飲み物かどうかわからなくて……」
返す言葉がうまく出てこない。
「アンタさぁ……コーヒー知らないの? ビターすぎる?」
「びたー……? えっと、苦い、で合ってますか?」
「そうよ。大人向けってやつ」
「……大丈夫……びっくりしただけだから……ごめんなさい、もう一度、いただけます?」
アジエはため息をつきながらも、カップを取り上げて、わたしの吐き戻した中身を流しに捨て、ポットに手を伸ばす。
カップに新しいコーヒー注ぎながら、彼女は小さく呟いた。
「……ほんと、どこから来たのかしらね、あんた」
「……いたところを壊されて、仕方なく……」
「どこ?」
「……もう、なくなっちゃったから……」
それは事実だ。けれど、はっきりとは言えなかった。
言葉を曖昧に濁しながら、内心では警告灯が点滅していた。
嘘はついていない。でも、問い詰められたら――ごまかせる自信はなかった。
アジエはお茶のカップを置くと、顎に手を当ててこちらを見つめた。
その視線に耐えきれず、わたしは思わず目を逸らした。
――まずい。
心拍数が、加速度的に上がっていく。
それを悟られまいと必死に呼吸を整えようとしていたとき、アジエの口から出たのは意外な言葉だった。
「まーた、V5が都合の悪いコミュニティを潰したのかよ……」
わたしは思わず顔を上げた。
アジエの表情は、なんとも言えないものだった。怒りとも、悲しみともつかない。
でも、わたしのことを気にかけてくれていることだけは、なぜか分かった。
「最近は減ったけどさ……HODOには、そうやって居場所を失って逃げてきた子、多いからね。あんた、外見はユーロ系っぽいけど……アジアも入ってる?」
ランダムに選んだ外見構成の情報が頭をよぎる。
「父方に
少し間を置いてから、そう答えた。
アジエは「ふーん」と軽く相づちを打ったあと、少しだけ真剣な顔で聞いてきた。
「……で、親御さんは?」
その言葉に、胸の奥がズシンと重くなる。
担当者の姿が、一瞬、脳裏に浮かんだ。
「……いない。兵士に助けられて、それからずっと一人……」
それは嘘ではない。ただ、
「……チセ、あんた、今いくつ?」
「約二十六万九千百二十サイクル……」
「は?」
「……十五歳!」
思わず、慌てて人間の時間に換算して答えていた。
たぶん合っている。たぶん――。
「そっか。十五か……」
アジエは少しだけ目を細めた。
その表情の裏を探る間もなく、彼女はすぐに話を変えてくれた。
「で、一人になったのはいつから?」
わたしは、わたしなりに一生懸命、歴史と整合性を合わせながら、答えを構築しようとした。
数秒だけ思考を巡らせ――そして。
「よく覚えてないけど、たぶんずっと。……えっと、ブラックアウトの頃から……?」
そう言いかけたところで、アジエが「もういいよ」と言って、さっと話を切った。
まずいことを言ったかもしれないと、また不安が込み上げたが――。
アジエは、またコーヒーのカップを手に取り、静かに啜っていた。
怒ってもいないし、笑ってもいない。
ただ――受け止めてくれているように思えた。
わたしも、それに倣ってそっと黒い液体を口に含んだ。
……苦い……自然と顔をしかめる。
でも、同時に感じる酸っぱい味が喉をスッ通り何か気分が和らいだ。
(でも出来たら、もっと甘いのがいいな……)
黒い飲料というのに抵抗があったが、味わえばそんなに悪くない。
でもわたしは、やはり苦いより甘いほうがいいらしい。
アジエ=ジンガノ。この人は、優しい。
……少なくとも、今のわたしにとっては、そう感じられた。
(もっと整合性を合わせておかないと……)
ユーラシア地域とブラックアウト後の人口移動に関する情報を、後で追加検索しておこう。
人間の世界のわたしを補強するには、まだ情報が足りていない。
しばらくの間、互いにコーヒーを啜るだけの静かな時間が流れた。
その沈黙を破ったのは、アジエの突然のひとことだった。
「よし、風呂に入ろう」
「……お風呂?」
「そう、風呂。今日は疲れたし、うちは風呂が自慢でさ。一緒に入るべ」
唐突な提案に思考が追いつかず、わたしは呆けた顔で口を開けたまま固まっていた。
だが、アジエは気にも留めず続ける。
「しばらく一緒に住むんだから、リラックスして腹割って話そうぜ」
そう言って、アジエはカップを置き、キッチンからこちらへ歩いてくる。
気づけば、わたしも反射的にカップをテーブルに戻していた。
「よし! 行くぞ!」
「うわぁっ……!」
ニカっと笑ったアジエに手を引かれ、わたしは勢いよく廊下へと連れ出された。
「ちょ、ちょっと……」
そのまま、例の螺旋階段をずるずると引きずられて降りていく。
階段の動作センサーが反応し、ひとつひとつ照明が灯っていく。
階下にたどり着くと、両開きのスライド式の扉が現れた。
上階のガラスドアとは異なり、こちらは木枠で縦に細い格子が並び、中には白く不透明なガラスが嵌め込まれている。
その扉の前には、棒に吊るされた赤い布が三枚――。
それぞれには白いプリントで、丸っこい記号と文字が描かれていた。
(……この記号、どこかで……@? いや、これは……)
「ふふん、
「は、はぁ……」
ジャパンという単語から、ようやく布の文字が「ゆ」だと気づく。
日本式のバスルームの演出らしいが、本当にこれが現実に存在するものなのかは疑問だった。
「ほれほれ、開けてみな」
「……お邪魔します……」
ガラガラと引き戸を開け、布をそっと手で払いながら中に入る。
そこには、期待通りの広い空間が広がっていた。
床には木の質感を模した敷物――細かい枝を編んだような柔らかいタイルが貼られていて、裸足でも心地よい。
壁沿いには三段の棚に脱衣カゴが整然と並び、向かい側の壁には一枚鏡と三つ並んだ洗面台。
それぞれにドライヤーが付き、小さな椅子まで用意されている。
「そっちの壁、開けると、タオルが入ってるから使っていいよ」
そう言いながら、アジエは何のためらいもなく服を脱ぎはじめた。
脱いだ服は次々にカゴへ。
あっという間に、彼女の身体が露わになっていく――。
わたしは、言葉を失ったまま立ち尽くした。
確かに、わたしは風呂という文化を理解し、好きになった。
だが、これまで利用した宿のバスルームはどれも個室であり、
風呂とはパーソナルスペース――それが、わたしのインプットだ。
さらに、裸という概念には、どうしてもあの動画の光景が紐づいてしまう。
気がつけば、アジエはタオル地のヘアキャップで髪をまとめ、肩にボディタオルをかけて手を腰に当てて立っていた。
(……サイズが……でかい……)
胸……臀部……。
どこを取っても、見事な造形。
比べるべくもなく、わたしよりもはるかにボリュームがある。
大きいだけではない。
腰は見事にくびれ、腹部と腿は引き締まり、全体が
たぶん、アジエはノースアフリカ系の系統に近い人種パターンだ。
褐色の肌は裸身になるとよりいっそう印象的で、切れ長の目元との相性も抜群に思えた。
……なぜかわからないけれど、胸のあたりが、またドキドキしてくる。
わたしは、自分の容姿を決めるために、多様な人種構成と身体構造をデータで調べた。
その結果、「手を加えすぎないほうが自然である」と判断し、元の肉体に大きな変更を加えなかった。
それでも、今――こうして、アジエの裸を目の前にして――
人間の基準で言えば、アジエの身体は
わたしの記憶にある言葉を検索し、ようやく引き出せた。
――そうだ。たしか、こう言うのだ。
「バンッ! キュッ! ボン!」
なるほど……人間は音に形を例えることがあるが、これは的を得ている。
その場ですくむように固まってるこちらを見てアジエはふっと笑った。
「なによ。シャイなの? あんた」
「……全部、脱ぐんですか?」
「そりゃそうでしょ。入るのに服着たままなんて、逆に新しいわよ?」
わたしは一歩、後ずさった。
自分もこれから裸になるということを意識したら、途端に視線のやり場がわからなくなりアジエから目を逸らした。
じっと、カゴを見つめる。
他人と同時に、同じ空間で服を脱いで・入浴する。
状況から推測してそれはわかるが、なぜかわたしは、それに少し抵抗を感じた。
また胸がドクドクと音を立てる。
これは異常反応か?
恐怖ではない、むしろこの状況に危機はない。
むしろ安定している。
つまり――内部要因。
の反応は、
他人と風呂に入るという行為。
これが人間社会で一般的なことであれば、迂闊な行動は疑念を招く。
(と、とにかく整合性を取らないと)
わたしは目をつむって覚悟を決め、自分の衣類に手をかけた。
上着とスカートを脱いでカゴに放り込み、下着だけになった。
目を開く、アジエが近くでわたしの胸の辺りを見つめて「うーん」と唸っていた。
「ひぃっ!……」
思わず両手で抱えるように胸を抑え飛び退いた。
「あー、驚かしちゃった。勘違いしないでよ、わたしストレートだし……あれ、あんた……そっち系?」
ストレート? そっち系?
……意味はよくわからないが、ブンブンと横に首を振っていた。
「まあ、今どき、どっちだっていいけどね。いやさ、それより、あんたがつけてるそれが気になってさ」
そう言ってわたしの胸当てと下履きをちょいちょいと交互に指差した。
……これは故郷に住んでいた時から身に付けてたものなんだけど……そんなに珍しいのだろうか。
むしろさっきアジエが無造作に自分のカゴに突っ込んだ下着の方がよほど、デザイン的にも複雑で派手に見えたが。
「悪いんだけどさ、ちょっと、見せてもらっていい?」
一瞬躊躇したが、怪しまれるのも嫌なので従うことにした。
わたしは胸あての前側にある留め具をカチリと外してアジエに手渡した。
「おー。フロントホックかよ、渋いじゃん。どれどれ……」
わたしの胸あてを広げてまじまじ見つめられていると顔が熱くなってきた。
「なんだこれ? 表面の銀色の光沢……金属っぽいけど確かに布だよな……それに触ると表面に模様が出る……流体金属……
留金の部分や、胸当ての下の枠部分に背中側のベルトの部分を親指と中指でつまむように感触を確かめてみる。
「うーん……ゴムのような弾力……なるほど、フロントホックでもこれなら痛くねーよな。そのくせフレームとかはしっかりとしてるじゃん」
「あの……そろそろ返して……」
「ごめん、ごめん。これさ、すげぇクールじゃん、ブランドどこよ?」
困った……ブランドと言われても……故郷で作った自作なんだけど。
「えっと、エクス=ルクス……」
思わず故郷の名前を言っていた。
「へー。聞いたことねぇな。インディーズか? 後で探してみっかな」
「もうたぶん、売ってないよ……」
「OH,SHIT。絶版かよー」
アジエは本当に悔しそうに額に手を当ててそう言った。
その様子がおかしくてわたしは吹き出してしまった。
恥ずかしいという気持ちよりも、何か開放的な気分がわたしの中に広がっていった。
【Present Day】
リーダーのように理不尽ではないが、アジエの行動や言動もけっこう突飛で予想がつかない。
アジエの場合は技術とファッションに興味が偏っている気はするが、それでもおかげさまでこの一年、人間的なリアクションや知識に関してはかなり鍛えられたと思う。
それに
最近はわたし自身も、かなり
アジエ宅のあのお風呂には今でも定期的に入りにいっている。
大衆浴場もいいけど、広いお風呂にゆったりと、なんてHODOではあそこしか思い当たらない。
思えばアジエのスパルタなおしゃれレッスンは、あのお風呂で、そしてわたしのブラとパンツから始まったようなものだ……。