【Flashback】
わたしも裸になり、お湯に髪がつからないようにタオルで巻き上げた。
アジエのように肩にボディタオルをかけて堂々とはできず、バスタオルを体に巻きつけ、なるべく隠れるようにした。
そんなわたしにアジエは入浴のルールを説明してくれた。
ルール1、浴槽に入る前に、石鹸で体を洗い、汚れを落としてから入浴すること。
ルール2、浴槽入る前に、手足からゆっくりと湯をかけ、体を温度に慣らすこと。
ルール3、長い髪はまとめて湯船に入れないこと。
ルール4、湯船の端などに置き、タオルは湯船に入れないこと。
「これが、うちの風呂を使う、バス・クラブのルールだから。あと二つ大事なルールがあるからな……」
ルール5、バス・クラブについて話すな。
ルール6、バス・クラブについて絶対に話すな。
「同じこと、言ってないですか?」
「大事な事だから二回言ってます。この風呂に入りたくば、場所と風呂のことは絶対に秘密だ、
「
「よーし、それじゃ我が家の風呂にご招待だ」
アジエは脱衣所の先にある、やはりくもりガラスがハマったアルミ枠の三枚セットの引き戸を開けた。
空気が一気に湿って、皮膚の表面がじわっと包まれる。
暖かい湯気は宿で使ったバスルームでも感じたが――でも、これは存在感が決定的に違っていた。
ただ扉を開けただけで、全身に叩きつけるように湿気が温度の低い脱衣所に流れ込んできた。
しかも、目の前が見えなくなるほどの湯気……。
アジエが湯気の中へと消えていく。
わたしも慌てて、アジエを追って湯気の中へ足を踏み入れた。
足の裏に固く冷たい感触があった。
なんだろう、タイルと同じように硬質なのに、圧倒的に主張してくる何かが違う……。
暖かい湯気の先からアジエがわたしに声をかける。
「チセさ、冷えちゃうから閉めてよ」
慌てて、引き戸を閉めた。
するとそれまで渦巻くように脱衣所に引っ張られていた空気の流れが止まった。
湿った空気が上へと立ち昇っていくように動きを変えたのを感じた。
しだいにわたしの周りにまとわりつくように漂っていた湯気が薄まっていった。
視界が開けるとそこにはわたしがバスルームとして知っていたお風呂の常識を完全に打ち砕くような場所が広がっていた。
ここも正面が一面ガラス張りなのだ。
水滴が滴る巨大なガラスの壁の先は、まるで展望台のような景観が広がっていた。
アジエはどんだけスケスケが好きなんだろう……。
そのガラスの壁の下にはこれも大理石のような質感の石で作られた巨大な浴槽に湯気を立ち昇らせながらお湯がはられている。
もはや泳げるレベルの広さだ。
そして足の裏に感じてた存在感の正体もわかった。
切り出された石が何枚も貼られたような床なのだ。
規則正しく大きさも均一のタイルと違い、形状も凹凸すらランダム。
感触も何故か足の裏に重みを感じるようなしっかりとした踏みごごち、明らかに密度が桁違いなのがわかる――。
床にこれだけのコストをかけるとか人間の考えることは本当によくわからない。
それにシャワーとカランが壁に沿って3個ほど並んでいる。
カランの蛇口の上の部分が棚になっていて、ボトルとピンク色の石の塊のようなものが置かれていた。
小さな椅子が置いてあり、セットで黄色いオケも置かれている。
どうやら座って使うらしい。
すでにアジエはその一つに座ってオケにカランからお湯を注いで、濡らしたボディタオルに石の塊を擦りつけていた。
擦りつけたあと、タオルをもんで泡立たせていく。
今まで液体のものしか知らなかったが、ピンク色の石の塊のようなものは固形の石鹸だったらしい。
なんとなく使い方がわかったので、わたしもアジエのとなりに同じように座った。
体を洗うのにバスタオルは邪魔なので外し、畳んで棚の上に置いた。
少し慣れたのか、裸体を晒してもさっきまでのような気恥ずかしさは無くなっていた。
わたしもカランからオケにお湯を注いでタオルに石鹸を擦りつけていた。
液体のものと違ってあまり泡立たないな……。
触るとツルツル、ヌルヌルとするので成分自体はタオルについているようだ。
なら直接、体を擦ってしまえと、二の腕にタオルを擦り付けようとした。
「ちょっとぉ!何やってんだー、お前!」
びっくりして、ぐるりと見渡してアジエの方を見ると泡立てたボディタオルを持ったアジエと目があった。
「ダメェ! 直接、擦り付けるとか絶対にNO!。女子的にNO!」
なんで怒られているのかさっぱりわからない――。
突然のアジエの叫びに、思考が一瞬ホワイトアウトした。体が固まり、処理負荷警告でも出たような気がした。
「あー!もう! いいから、ほら貸してみろー!」
タオルをわたしの手からひったくるとアジエはタオルをワシワシとすごい勢いでもんで、白い綺麗な泡を作っていく。
「こうやってグリグリもんで!まずはフワフワの泡を作る!」
わたしの手を掴んで伸ばすと、まるで泡だけを乗せて伸ばすように優しくタオルで撫でた。
「こうやって優しく、伸ばすの!石鹸成分をゴシゴシ、擦りつけたらお肌が荒れるっしょ!」
「……ご、ごめんなさい……」
意味もわからず、プルプルしながら謝った。
おそらく、今、わたしは涙目だ。
「あー、もうー。大きな声出して悪かったよ。いいからほら、背中向けろ、やってやっから……」
その後もアジエは同じように泡を作っては、泡だけを乗せるように、丁寧に、丹念に優しくタオルで体を撫でていった。
背中、首筋、胸、腹、脚と全身、気がつくとモコモコの泡に包まれていた。
「ほいっ!出来上がり!」
最後にアジエはわたしの鼻の頭に指先で泡を乗せた。
「しばらくそのままにしてろよ。泡が汚れを浮かしてくれっから」
そう言うとアジエは自分の体を泡で包む作業を始めた。
わたしは「むーっ」と唇を尖らせて鼻の頭に乗った泡を見ながら、体中からシュワシュワと弾けるような泡の音を聞きながら待った。
――この手間のかけかたは何だろう。
釈然としない……そもそもアジエにとってこの世界は外からやってくる世界で、この風呂も体を洗うのもあくまでも擬似的な体験に過ぎないはずだ。
そう考えると、バス・クラブのルールだっておかしい。
人間にとってはインター・ヴァーチュアの入浴はあくまでも
どこまで行っても気分の話で、守ったところで、人間の言うところの現実にはたいした影響もないはずだ。
「よーし、いいぞ。流しちゃいな」
アジエのお許しが出て、わたしはシャワーでモコモコの泡を流した。
納得はしていない。でも泡はしっかりと流した。
そんなわたしに気がついたのかアジエが語りかけてきた。
「チセさ、
図星を突かれたわたしは驚いてアジエを見た。
彼女はシャワーで泡を落としながら続けた。
「人間ってのは習慣の生き物なんだぜ。とくに女の子ってのはね日々の努力の積み重ねが重要なの」
見ていることに気づいたのか、アジエはわたしのほうを見て、ニコリと笑って見せた。
「
あうっ――。
わたしは
「油断してると、あっちゅー間にガッサガサのパッサパサになるぞ。それで、あっちもこっちも重力に負けて垂れちまうんだ」
……たしかに、そう言われると本能的にそれは嫌だなと感じた。
「無茶できんのは、十代までだよ」
アジエは首筋の泡を落としながら、いまいましそうな表情を浮かべながら言った。
「だからって、十代でキャッシュ使ってると、ほんとに後で後悔すっからね。ケイトのヤツなんてもう手遅だから」
……ケイトってあの赤毛のコード・フレームワークという、人型の大型プログラムのパイロットだったか。
容姿という部分であれば、人間の基準では整っている部類だと思うけど――。
「深酒、泥酔……メイク落とさず昼まで爆睡。こちとらテキーラパーティの後でもきっちりスキンケアだっつーの!」
アジエはお湯を止めて、シャワーヘッドを乱暴に戻した。
「チセ、あんたは絶対、あいつのマネしちゃダメだからね」
アジエは立ち上がると、湯船に向かいしゃがむと小さな手桶でお湯をすくっては足から、順番に肩までゆっくりとかけて行った。
わたしも同じようにマネをした。
お湯の温度は高めで、熱かった。
「ルール2、浴槽入る前に、手足からゆっくりと湯をかけ、体を温度に慣らすこと。」――なるほど大事なことだ。
湯船に身を沈めると、ぬるりとした感触が全身を包み込む。
アジエが肩まで湯につかって、ふうっと息を吐いた。
「はぁー、生き返るわ……」
その言葉に、わたしは思わず首をかしげた。
「……今、生き返るって言った……?」
「言ったけど?」
「……アジエは、死んでいたの?」
アジエは吹き出しそうになって、しばらく湯の中で肩を揺らしていた。
「違う違う。そういう時に使う比喩ってやつよ。気持ちがよくて、疲れが取れた時の感覚。比喩表現」
「なるほど……生きている感覚の再生を意味する……ということ?」
「まぁ、そんなとこね。あんた、説明すると頭いいのに、直感はイマイチだな」
それは、自分でも少し分かっていた。
そういえば人間とこうやって会話するのは、サンタクララでマキシムと過ごしたあの短い期間以来だ。
HODOにたどりついてからは必要最低限の会話だけだった。
わたしはリスクを避けているつもりだったけれど、観察だけでは限界があることを思い知った。
会話や、人の常識で自分を補強する必要がある。
サンプリングをしつつアジャイル的なアプローチが今のわたしには必要だ。
ガラスの壁のほうの湯船の縁へ移動し、両手を置いてその上にアゴを乗せ、見事な夜景を見ながらそんなことを考えていた。
「チセさ……ちょっと気になってることあるんだけどいいかな」
背後から、額に畳んだタオルを乗せたアジエが声をけてきた。
「なんですか」
「澡堂怎么样(風呂、どうだった)?」
「……太大了,有点吓到我。第一次坐着洗澡。但……挺有意思的,也很舒服。(大きくてびっくりした。座ってシャワーするのも初めて……でも面白かったし、気持ちよかった。)」
たわいもない会話だ。
でもなんだろう……一瞬だけアジエの目が険しい光を帯びたような気がした。
「Это японский стиль онсэн. После этого — обычная ваннауже не то.(これはね、日本の温泉スタイル。これ知っちゃうともう普通のバスタブには戻れねぇんだわ)」
「Да……наверное, уже не смогу вернуться к обычной.(うん……たぶん、戻れそうにない)」
「Eso es loque llaman “adicción”. Tú también te vas a enganchar, Chise.(それが、“病みつき”ってやつ。チセもすぐクセになるさ)」
「……Esa sensación de placer…… sí, la estoy entendiendo. Haré mi mejor esfuerzo.(……気持ちいい、って感覚……うん、覚えてきた。がんばる)」
「No need to try too hard. Just take it slow.(がんばるもんじゃないっての。少しずつ、でいいの」
「Yeah… got it.(うん、わかった)」
わたしがそう答えるとタオルを頭に乗せたまま、アジエは一旦、何かを考えるような表情をしてから、言葉を続けた。
「Iam esuriens es, nonne?(でさ。そろそろ腹、減ってきたろ?)」
「Ita. Ventrem meum sentio vacuum.(うん。お腹すいた)」
また、ほんの一瞬だけアジエの目が険しい光を帯びたように感じた。
「那我们出去吃点吧。拉面怎么样?(んじゃ、どっか食べに行こうか。ラーメンとかどうよ?)」
「……拉面是什么样的?(……ラーメンって、どんなの)?」
「おお、そう来たか。チセ、ラーメン知らないの?」
「名前は知ってるけど……でも、実際には食べたことない」
「Entonces está decidido. Bien… Empezamos con “tonkotsu”.(なら決まり。よーし… やっぱ最初は“とんこつ”だな)」
「¿Tonkotsu…?(とんこつ?)」
「Yeah. You’ll probably love it. It’s a tota“ super junky food”.(そう、たぶん気に入るよ。あれは"スーパージャンキーフードってやつ" )」
「What? Like, highly addictive or something?(なにそれ?常習性が高くて、依存性があるってこと?)」
「Ha ha, bene dixisti. Sed noli timere. Cibus est.(あはは、だいたい合ってる。でも安心しな。食べ物だから)」
「Paulum timeo.(ちょっと怖い)」
「ふふふ。大丈夫、案内してやる。覚悟しときな」
そうアジエは楽しそうに言った。
……だが次の瞬間、突然、アジエの顔から表情が消えた。
いきなりのアジエの変化に戸惑いわたしはゴクリと唾を飲んだ。
……何か重大な失敗をしたのだろうか。
彼女を見つめたまま、お湯の中で固まるしかなった。
「チセさ、ラテン語まで話せるのかよ。あんた、何者だよ?」
ただ会話に言語を最適化して返事をしただけだが、どうもそれが決定的に間違っていたらしい。
「インター・ヴァーチュアじゃさ、言葉は認知してる言語に合わせて自動変換されて耳に入る。映画の吹き替えみたいなもんだよな。だから唇の動きと聞こえる音が違うってのはよくある」
仕様としては、理解していたが
どうしよう……。
……今まで気にもしていなかった。
「あんた見てたら、話す相手でその動きが全く違う。なんかおかしいなぁと思って試させてもらったんだけどさ……」
サンタクララで可能な限りの音声言語をダウンロードしたわたしは、ずっと相手の言葉に合わせて話していたのだ。
「マルチバイリンガルなんて今時、学者か外交関係者ぐらいだ。特にラテン語なんてマニアックな言葉はさよほどの変わり者のしか、手を出さない……」
まずい……。
わたしはサンタクララで閲覧したデータを頭の中で慌ててひっくり返し、言い訳考える。
きっとわたしの目は全力で泳いでいるに違いない……。
目まぐるしく、懸命に検索しているデータの断片を繋ぎ合わせようとする。
ラテン語と、孤児でデータをランダムマッチングする……。
だめだ、このままでは間に合わない。
とにかに何でもいいから言わなくては。
「……ら、ラテン語は……施設の怖い司祭様が……」
「あれ、あんたカトリックなの?」
「……わたしは別に……施設が……その……カトリックで……」
わたしは戦争、孤児にラテン語でヒットした情報を手当たり次第に言葉にした。
順番や整合性など考えもしない。
とにかくヒットした言葉を並べた。
「あー。なるほど、あんたインター・ヴァーチュアに入ったの最近か?」
入るも、何も、生まれも育ちもインター・ヴァーチュアだ。
もう、ここはとにかく話に乗って切り抜けるしかない。
わたし、ブンブンと首を縦に振った。
「……なんか教区によっちゃ自然じゃないとか何とかで、施設出るまで一切、かかわらせないとこがかあるって聞いたけどそれか?」
これはチャンスだ。
きっかけができたら、少し冷静になった。
わたしは断片の結果をうまく繋ぎ合わせようと情報を
「施設は、いろんな国の子がいて言葉はそれで……去年、里親が見つかって出たけど……すぐに嫌になって逃げ出して……」
何となく、取り繕えたような気がする。
里親や、嫌になって逃げるというのはちょっといい宿のムービーサービスで見たシチュエーションから頂いた。
「苦労したんだな、お前……。それってメッチャ、テンプレじゃんよ」
「えっ……あー……うん……あっ、ありがとう……」
必死で構成した内容だったが、アジエに同情的な視線を向けられた上で、ハッキリ、ベタな設定だと言われるとちょっぴり悲しくなった。
「まあ、気を悪くしないでよ。あたしの個人的な興味で聞いてみただけで、あんたを詮索する気はないから」
アジエはそう言って、大きく伸びをすると勢いよく立ち上がった。
湯がザバンと波と飛沫をあげた。
「よし、飯行くよ!」
アジエは頭の乗せた湿ったタオルを広げ、肩に勢いよくピシャリと叩きつけるようにかけると、湯船から出た。
そのまま脱衣所に向かう。
慌ててわたしもお湯から立ち上がった。
気づけばまた、わたしはアジエの背中を追っていた。